ブラッドスピア 3
赤十字病院の当直職員達はパニックに陥っていた。
ナースステーションに駆け込んでくる医師や職員の顔は一様に土色で、生気を失っている。
「今の叫び声は! 館内放送? ナースコールは?」
大きな腹を突き出し、結城医師が暗い廊下を走りながら怒鳴る。看護師の一人がコールはありません、と叫んだ。
「病棟全部を確認だ。急変した患者が居ないかどうか。警備は?」
「今一階から回ってもらってます」
「防災無線のようだったが。確かに最初鉄琴が鳴ったよな」
「はい。でも叫び声は下から聞こえたような……」
「やはりか……」
ふらふらと廊下に出てくる患者達を宥めながら、精神科病棟の屈強な看護師もナースステーションにやってきた。
「結城先生。何ですかあの叫び声」
「よくわからんのだよ。機器の故障かとは思うが。そちらの病棟は?」
「うちでは無いですね。なんだか怖いくらいみんなぐっすりと寝てます。ちょっと下、見てきましょうか?」
「よし、私も行こう」
一階でエレベーターを降りた二人は警備室へと向かい、全館の照明を点けるように指示した。
「木村さん、どこから聞こえたか、わかります?」
痩せた首を前に突き出し、こけた頬に不釣合いな立派な口ひげを息で吹きながら老警備員は並んだモニターの一部分を指差す。
「ここあたりが地下の廊下だ。わしゃ偶然見てたんだが、音と同時に、あー、これが消えたんだよ。これだけだ。これは、あー、霊安室とボイラーがある場所だ」
「よし。木村さんはモニターで監視続けて。岡田さんにはそのまま巡回続けてもらって。怪しい奴が居たら構わないから全館放送で呼んでください」
「まかせとけ。伊達に四十年も警備員やっとらん」
「一応気をつけて」
二人は突き当たりにある非常階段へと走った。降りれば直ぐに問題の廊下へ出るその階段は滅多に使う者も無い、心霊スポットとして看護師達に知られた場所だった。
「あの声聞いた後でここ降りるのは、怖いですね」
「馬鹿言ってんじゃ無いよ。君は柔道家だろう」
「冗談ですよ、行きましょう」
屈強な看護師は笑いながら階段を降り、鉄の扉に取り付く。
「があ!」
取っ手に手を掛けたまま、看護師は奇妙な声を立てその場に崩れ落ちた。結城医師は驚いて足を止め、そのまま踊り場まで後ずさりする。
三十センチ程開いた扉の先はには何の気配も無く、ただ闇が薄暗い階段の照明を吸い取っていた。看護師は座り込むようにくず折れたままで動かない。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
結城は声をかけてみるが反応は無かった。彼は意を決して階段を駆け下り、看護師の首で脈を探る。
数秒の間、なにも感じ取ることが無かったその指を押し返すパルスを感じ、結城は溜息をつく。
「良かった」
そう呟いた瞬間、看護師の目が見開かれた。それは見る間に怒りの表情を作る。太い両腕がぐっと持ち上がり医師の首に手を掛けた。
「ナニ……を」
赤いノイズがチリチリと飛び交う視界の中で、結城は声を絞り出す。
「すっとぼけてんじゃねえぞ! テメエ外科の美香ちゃんに手出してたろうが! テメエのせいで退職した美香ちゃんが精神科に通ってんの見て、笑ってたろうが! ゲスにゃ地獄がお似合いだコラ!」
振り上げられた右掌が医師の鼻と顎を打ち抜き、後頭部がコンクリートの床に強打される。その一撃で結城の意識は無くなったが、看護師は攻撃を止めなかった。狂ったように喉への足蹴りを続け首が骨と血糊だけになった頃、彼はドアから漏れる闇から少女が現れたことに気が付き、荒い息のまま動きを止めた。
陶器のような白い肌に作り物のような漆黒の瞳を輝かせ、真っ黒な髪が木の根のように絡みつくその顔には一切の表情が無かった。三本線のピンク色のジャージを着て、安物のスニーカーを履いたその姿は、滑るように死体の横をすり抜ける。
「はい……」
薄緑の制服を血飛沫で汚した看護師はそういって笑った。そして、動く死体のように、少女の後につき従う。
怒声に驚き階段に目を向けた木村の意識は、その瞬間に体を離れ真っ暗な場所を浮遊していた。手足の感覚は存在するがそれを見ることも出来ないほどの闇に木村は恐怖する。
――助けてくれ!
叫んでみても、その声すら己の耳には届かない。
――死んだのか、これが死なのか……。
木村がそう思った後、声が届いた。
「何がしたいの?」
小さな女の子の声がその耳に届くや、涙がこぼれ落ちる。孫だ。死んでしまった美知代に違いない、と木村は手を伸ばした。
「美知代、美知代なのか。じいちゃんも来たよ。寂しかったろう? じいちゃんの所においで。さあ」
声はその言葉に反応しなかった。そして何がしたいのかとだけ質問を繰り返す。
「そうさな。心残りはばあちゃんだけだ。こんな俺でも、いなくなりゃ、ちっとは寂し――」
「そんなわけが無いだろう!」
突然の声が木村の全身を震わせた。思わず目を瞑った木村の視界には、あの病室が鮮明に蘇る。
「心電図いそげ! アドレナリンは!」
「脈拍百六〇、血圧振れません! 細動です!」
木村は懸命に目を閉じ、腕で視線を遮るが、その映像を消し去ることは出来なかった。
自分の家より長い時間を過ごした病院で、盲腸の手術を行い順調に回復していたはずの孫が自分の目の前で死んでゆくさまを、木村は声の限りに叫びながら再度見続けた。
電気ショックで跳ね上がる孫の小さな体、医師の異常な発汗がどうしようもない現実をリアルに浮き立たせる。医師は続けていた措置の手を止めその視線が時計に向かう。その瞬間に、周りのスタッフが見せた後ろめたそうな顔の陰りをはっきりと感じた時、声はもう一度尋ねた。
「何がしたいの?」
木村は答える。
「医療ミスした、外科部長を……殺す」
床に手をついてゆっくりと上半身を起こした彼には、もう疑問の余地は無かった。
――そうだ、何を躊躇うことがある。死には死を与えなくてはならない。それが平等というものだ。目には目を、報いには報いを。限りない、限りない平等を!
戸棚の鍵を鍵穴に差し込む。ぶら下げられた伸縮警棒を両手に持つとそれを一気に振り出す。
「殺す!」
木村が駆け出した警備室のモニターには、玄関ホールへと歩み去る少女の後姿がくっきりと浮かび上がっていた。
それはやがて通りの歩道へと出た。それが通った後では家々の明かりが灯りはじめる。ある家ではその中で怒声と悲鳴が起こり、ある家からは凶器を握った人間が寝巻きのまま躍り出てきた。たちまちその周りでは殺し合いが始まり、車が電信柱に衝突し、火の手が上がる。
少女はそんな様子を気に留める素振りも見せず、ただ少しだけ手前の路面を真っ黒な瞳で見詰めながら、ゆっくりとその歩みを進めていった。
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