ブラッドスピア 2



 人見は皮のスニーカーを履きなおし、そのまま部屋へと上がる。



「あ、副本部長、現場が……」



 警官達が止めようとするが、睨まれ、伸ばした手を降ろす。



 音を立てていた部分の割れた床板と、琴美が手を突っ込んだ家具の板の厚さを確認すると踵を返す。


 一瞬、畳にへたり込み項垂れている国崎を見る。



「おつかれ。帰っていいよ。気をつけて」



 両手をコートのポケットに突っ込んだままで、掃き出し窓から地面へと飛び、跳ね上がった水が琴美の生首にかかったが、もはやそれは彼女の視界には入っていなかった。上半身を横に捻り佐藤の死体の横にあった拳銃を拾うと、近くの警察車両へと駆け寄る。



「無線!」



 鋭い声に驚きながらも運転席の警察官はマイクを引っ張り人見に渡した。



「本部。――誰か? ――管理官は? ――まあいい。現場指揮車も聞け。容疑者は死亡。まだ共犯者が居る可能性が大きい。後は管理官の指示に従うように。犯人包囲に当たった明署員は現場処理の人員を残し直ちに署に戻す。以上」



 人見が言い終わるのを待っていたかのように、それは始まった。


 防災無線のスピーカーが放つ湿った音は、猫が水を飲むような音だった。暫く続いたその音を掻き消すかのように、肉食獣が骨を噛み砕くかのような鋭い音が断続的に響く。


 それが収まると、嗚咽のような、音とも声ともつかない響きが耳を襲った。周りの男達と同様に人見も無言のまま空を見上げる。断末魔の苦しみに喘ぐような叫びは次第に収まって沈黙が訪れた。



「なんでしょう……あれ」



 窓から首を出していた車の警察官の言葉に答えようと人見が首を下げた時、咆哮が夜空を裂いた。それは子供の声のようにも聞こえる。泡立つ気管から搾り出される、空気そのものを怒りに変えるようなその叫びは、あらゆる生物の精神を侵食する激流となって警官達の心を抉る。


 総毛立った全身をがくがくと震わせその場にしゃがみ込んだ人見は耳を押さえ、車に体を寄せた。



「くっそが! やかましい!」



 人見は無意識に喚き散らすが、その声は止まらなかった。


 永遠とも思えるその声が突然消えると、サイレンが回り始める。


 昼に聞いたそれとは明らかに違う断続音が「ロ、ロ、ロ」と低音で響き始め、急速にその周波数が上がって行く。数知れない木霊がそれをなぞって音源を散らし不気味な和音を奏で始めた。


 人見は立ち上がり、サイレンが作り出す音波の海に浮かんでいるような感覚に耐えながら拡声器のマイクを握り、サイレン音に負けじと怒鳴った。



「包囲班! 命令撤回! この場は放棄して一人残らず直ぐに署に戻れ。急いで!」



 人見は、それだけ言うとマイクを放り、他の警官達と同じく呆けている、高見沢と奥田の所に走る。



「お前らも署に帰れ。ついでに国崎を家まで送れ。運転できないだろうから」


「人見さんは……」


「私はお外で遊んでくるよ。呼び戻すなよ?」


「え、なんかやばいですよ。一緒に引きましょうよ」



 人見は奥田の懇願に薄く笑顔を向け、ロリポップを二本渡すと、走り出す。



「そりゃフランスのお菓子屋の特注品だ。一本二五〇〇円! 代金は後でいいから」



 丘の麓へ向けて一直線に走りだした人見は、家の隙間を駆け抜け、フェンスを飛び越え、家庭菜園を踏み荒らしながらみるみる視界から消えてゆく。



「また後で、とは言えないんだな」


「だな」


「人見さん……道を走ればいいのに」


「ああいうの、ヨーロッパであったろ」


「ああ、パルクールですか?」


「それなんじゃないか?」


「ああ……」



 車の屋根を宙返りで飛び越え、人見は金堂への無線回線を開く。



「聞いたか?」


『はい、やたらと凄みが効いてましたね』


「やぶへびだったか」


『どうします?』


「フランへ戻る。多分軍隊が必要だ。丘の下へ車を」


『了解』



 ヘアピンカーブを何度も抜け、ヘッドライトの光に浮かぶ黒ずくめを見つけると金堂は車を止める。


 人見は後部ドアに取り付いたが、座席をライフルが占領しているのを見て舌打ちし、助手席まで回りこんだ。金堂は乱暴にクラッチを繋ぎ、スキール音を立てながら急発進した。



「すいません、ライフル長くて」


「二発目外しただろう。射撃訓練ちゃんとしなさいよ」


「へい」


「しかし、ありゃいったい」


「防災無線ですから悪戯ってことも有り得るんじゃ?」


「あれがイタズラ? ――いや、わからないけど」


「なにか?」


「琴美の見せる幻覚を見たのかもしれない。でも部屋の中でヤツは言ったんだ。美月を呼ぶとかなんとか」


「美月って、あの美月ですか? バラバラ死体の?」


「それしかいねえよなあ。ここに来て、ゾンビ映画の始まりか」



 絶句して言葉を切った金堂を横目で見ながら人見はロリポップの包みを剥がし咥える。



「おかしいよね」


「おかしいっすね!」



 鞭のようにスナップを効かせた平手が金堂の丸太のような太ももを叩いた。



「いてえ!」


「真似すんなバカ」


「俺にも一つください。飴」


「特別な。女殺しの褒美だ」



 人見は咥えていたロリポップを金堂の口に優しく咥えさせて、微笑む。



「その言い方、後味悪いなあ」


「気にするな。あれはバケモノだ。だから撃墜数にも含まない」


「それもなんかなあ」


「お前はあの場に居なかったからそんなお気楽でいられるのよ」


「そうですか?」


「そうよ……」



 カローラはスピードを上げ、大きな水溜りを切り裂きながら市の中心部へと向かった。グローブボックスの下に目立たぬよう取り付けられている警察無線は不気味に黙り込み、二人の会話も消えて行く。


 サイレンは鳴らさず、回転灯だけを点けて追い上げてくる覆面パトカーがあっという間に二台、追い越して行った。古いカローラはエンジンを呻らせるが、ターボを効かせる二台は幻のようにテールランプで線を引きながら遥か先へと走り去って行った。



「遅いな」



 雨の中地面に置いてしまった銃を手入れしながら、人見は舌を鳴らした。



「すいません」



 その時、金堂は急激に集中力の高まりを感じた。人見の横を流れる、月光に照らされた街路樹の葉一枚一枚、目前を後ろへ走るアスファルトの粒までをも、数えられる程に感じられる。



 東南アジアでの諜報活動や、青森の左派活動家アジト襲撃の時のことが鮮明に浮かんだ。


 


――こういや、こんな時いつも人見さんが居たな。



 ちらりとその横顔を見ると、人見は少し眉を上げ小首を傾げた。



「勘はどうです? やばい感じですかね。やっぱり」


「……うん。こんなにワクワクするのは――いつ以来だろう」


「そりゃ、やべえや」



 少しの間、車内は笑い声で満ちる。そして、その温度を捨て去るように人見は窓を全開にすると、目を瞑り風を感じた。



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