エンゲージ 5



「死なねえし。――金堂いいか?」



 琴美を見もせず人見はそう言うと、女性座りに畳んでいた足をさっと振り出し畳を滑らせて葛西の足を払う。揺れながら立っていた葛西が足をすくわれ宙に舞うと、その一瞬の後、破壊音と、何かが部屋の空気を裂く音同時に起こった。


 思わず顔の前に腕をかざした国崎がその目を開けたとき、ガラスと反対側の壁に穴が開いていた。はさみを握っていた琴美の右手は肘の部分で切断され、はさみを握ったままのその先の部分は床に転がっている。振り上げたままの傷口からは大量の血が溢れ、琴美の髪を濡らして顔に数本の赤い筋を作る。それを見上げた人見は、顔を歪ませた。



「うわあ、グロいねー。でも、すぐ病院行けば死なないと思うよ。あ、洪水で道が塞がってなかったらだけど」


「なんてこと……を」



 やっと息を付けた国崎が喚きだすと、琴美の首はゆっくりと回って彼を見る。そしてその恐ろしい顔が、少し笑った。



「だいじょうぶだよ」



 また幼いあの声に戻っていた。目を細めたソレはにっこりと笑う。そして次の瞬間には我を忘れた狂気の顔に戻っていた。



「なにいってんの? さっさと葛西を――」



 言い切る前に気配を感じた人見は後ろを振り返った。そこには銃口を人見に向けた葛西が体を揺らしながら立っていた。


 射線には国崎が、と人見は素早く判断し、瞬時に葛西の懐に踏み込むとその腕を跳ね上げようとする。それと同時に葛西の銃は外に向かって火を噴いた。人見の後悔と同じ速さで弾丸はガラスに新しい穴を穿って部屋の外へと飛ぶ。



 雨の音に混じって、ぐうという息の抜ける音と拡声器からのハウリング音がガラスの二つの穴から微かに伝わってくる。



 佐藤は腹を押さえ水溜りに膝を落とすと、そのまま前に突っ伏した。


 琴美はそれを見て動きを完全に止めていた。国崎も床にへたり込んだままでそれを呆然と見ている、人見だけが目まぐるしく辺りを見回し、素早く窓を開けると葛西を蹴り出した。そして国崎の腕を掴んで強引に立たせまた外へと蹴り出すと、素早く自分の靴を取る。



「ほらみろ。あんたがやったんだ。バカね」



 挑発が耳に入らないかのように、琴美は口を開けたまま外の様子を見ていた。人見は国崎に葛西を連れて逃げるように言うと、コートを翻し太もも


の内側に隠していた銃を抜き、それを左手に構えたまま、右手でA4サイズの用紙を取り出し、それを掲げた。



「お遊びはここまで。土居琴美。殺人容疑で逮捕します」



 ゆっくりと琴美の瞳に炎が戻り、徐々に頭髪が逆立っていく。呼吸は荒く早くなり、歪む表情は人間のそれを離れてゆく。


 歯をむき出しにしたその唇からは涎が二筋垂れている。


 そのおぞましさに怯んだ人見が半歩下がった時、地鳴りのような音が聞こえだした。音と振動の中間のようなそれは、人見の視界を不鮮明なものとするほどに大きく強くなってゆく。


 そしてそのの表情からは想像出来ない幼く穏やかな声が、人見の頭の中に届く。



『こんなに怒らせて。やっぱりお前はヘタクソだね。でもまあそういう役割なんだからしかたないか』


――何言ってる、この期に及んで抵抗する気か


『ただ一つだけ、この子から奪っちゃいけないものだったのに』


――何なの? 訳のわからないことを


『訳がわからないか。そりゃそうか』


――あたしが何を忘れたっていうのよ


『もう少しだったのに。美月が呼ばれちゃうよ。もう台無し』



「なにいってやがる!」



『じきにわかるわ。どうせ会うんだから。頑張ってね』


――はあ? なんのことだ? 「なんなんだよ!」



 声は突然琴美の唸り声に変わり、繰り返す人見の質問に答えることは無くなった。


 突然低周波の振動は止まり、琴美の足元では床が軋み始める。遂に床板が割れる音が響き始めると、重い足音と共にそれは地面へと降りる。銃と逮捕令状をぶら下げ、目を丸くしてそれを見ている人見の横を無視してすり抜けた時、人見はやっと銃を持ち上げた。



「どこに行こうっていうの。止まりなさい!」



 琴美は吹っ飛んだ腕から血を流したまま、一歩ずつ深い足跡を残して佐藤に歩み寄る。人見の銃から発射された弾丸が太ももとふくらはぎに食い込むが、その歩みは止まらなかった。



「いい加減にしろ! 死にたいの、あんた!」



 それはずぶ濡れになりながら跪き、佐藤の体を残された腕で抱き上げると、抱擁した。



 そして、その骸をゴミのように放り出すと、空を仰ぎ、空虚に向かって叫びだす。背を丸めて力の限り絶叫するその音は、激しく絞り出そうとする体の動きに反比例して小さくなり、やがて消えた。降りしきる雨粒が琴美を中心にドーム状に弾き飛ばされ、その直径を急速に広げる。


 それに答えるように周囲の犬達が一斉に吠え出した。



「超音波……」



 そう呟いた瞬間、人見は感じたことの無い刺激に身を震わせた。思考より早く電流が神経を走り叫んでいた。



「金堂! 殺せ! 頭を吹っ飛ばせ! はやく!」



 人見の放つ拳銃弾が更に三発、立ち上がろうとする琴美の背にめり込むが、まったくダメージを受けていない。やはり、と思い、金堂の50口径弾が来るのを一瞬だけ待った。



 長さ約五センチのフルメタルジャケット弾は、音速を超えて目標へと飛ぶ。 一発目は琴美の右肩を吹き飛ばした。


 体が反動でぐるりと周る。何も読み取れない、空っぽの目が人見を捉える。そして、血を流しながら一歩、又一歩と、人見の方へ近寄る。


 二発目は胸の上部を刳り貫いて、首と体を分離させた。貫通した弾は地面に突き刺さり水柱を立てる。左肩の一部がくっ付いたその首は、人見の足元まで吹き飛ばされる。


 人見は眼球だけを動かし視界に捉えた。



『死ね』



 錯覚では無いように思えた。雨で崩れた化粧と血と泥の飛沫で黒く汚れた首は、眼球をまるで自分の脳を見ようとでも言うように上へ転がし、人見の目を睨みながらそう口を動かしたように感じた。



「ヘタクソ。一発で殺せよ、キモチワリイ……」



 暫く首から目を離せずにいた人見は、長く息を吐くと、ポケットからロリポップを取り出す。


だが、それを咥えることなく静かになった天を仰ぎ呟いた。



「雨、上がったな」



 その時、町中に設けられた防災無線のスピーカーから、放送開始を告げる太く柔らかい電子音が鳴り響き、やっと雨の音が止まった明市の空を覆った。  

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