春野 1



 暖房が切れた薄暗いオフィスで、春野は一人、メールをチェックしていた。



「ああ、疲れた。何か……食べようかな」



 背もたれに強張った背中を持たせかけ、腕を伸ばす。


 パソコンの時計は二十一時を回っていた。せめてコーヒーでも淹れようか、とブランケットをまくった時、新着のメッセージを告げるポップアップが目に入る。


 地域記者からの報告かと溜息をつく。記者ってもねえ、と苦笑を漏らす。


 近所での行事の情報や事故や火事などの写真を送ってくれたらポイント進呈、という契約を結んだ、云わばサイトの熱心な読者の方々だ。



「どんな特ダネかなあ」



 擦れた笑い声を上げながら彼女はそれを開く。



さっき帰りがけに見たんですが、前から子供を虐待しているんじゃないかって噂のあった家に家宅捜索が入ったみたいです。小学校高学年くらいの女の子ですけど、外で見た人は殆ど居ないって具合で。


こんな話でも三千ポイントもくれるんですか?


  アカリ市 鞍馬



 ネット民が飛びつきそうな事件に春野の目付きが変わる。児童虐待に親の逮捕となれば、かなりのアクセス数を稼ぐことが出来るだろう。それが自分の担当地区からの発信となれば、転職したての身にとっては少々美味しい。署名記事の二つや三つは書けるかもしれない、と春野は慌てて返信を打つ。



ご報告有難うございます。出来たら一次情報、ご自分の眼で捜索の状況を手に入れて欲しいのですが。写真があれば非常に助かります。


もちろんポイントも加算されますよ。ご無理でなければ、何とか写真の件、お願いしたいです。よろしくお願い致します。


  ウェブニュースネット「コンタクト」 春野



 コーヒーのことも忘れ、春野は返信を待った。


 それは十分を待たず返された。群馬県警の文字が入ったパトカーと暗い邸宅が一緒にフレームに入れられた、まずますの写真だった。


 急いでお礼のメールとポイント加算の処理をしながら、春野はデスクに電話を入れる。



「デスクですか! 地域記者からの連絡が入りまして」


「うん、いやいいんだけどね。明日でもよくないかな? 春野さん」


「それが、児童虐待で家宅捜索のようで。なんとか事実関係を警察から取ってなるべく早く掲載したいんですけど。伝手はあります」



 ううん、と唸ったデスクは暫く考えていたが、またそっけない声に戻して続けた。



「まあ、ちょっと前ならそういうこともあったんだけどねえ。やっぱりさ、腰すえて行こうや。信用第一ってことでさ。ああ、場所は?」


「明市ですが」


「あかりか、遠いな。明日だね。イケそうなら君、現地に飛んでもらうから。今日はもう帰って休んじゃってよ」



 春野は受話器を置きながら、肩を落とした。



――なるほど、それが妥当って訳ね。会社の常識、変わり行く社会のスタンダード。こうやって、どこに行っても私の空回りは続く訳。



「もう慣れたでしょ」



 誰も居ないオフィスで一人呟いてみるが、それでも自分が正しいという怒りにも似た感情は大きくなってゆく。深夜か、遅くとも朝のテレビニュースではこの件が出て、その後のワイドショーでは家庭問題の専門家辺りが、いつものコメントを吐くに決まってる。



「どうせ、こういう経験は、親から子に引き継がれ、虐待の連鎖が、とかなんとかよ」



 それじゃ遅いでしょ! とバッグを引っつかみ、春野は大股で化粧室に向かう。浮いたファンデーションを押さえ、派手目のメイクを手直ししていると、自分の眼と視線が合った。


 その瞬間、虐待という文字が現実味を帯びて思考を襲う。実の親か、義理のそれか。もっとも身近な人に暴力を振るわれ、心身共に逃げ場の無い状況に耐え続けた小さな子供の心境はどういうものか。



 春野自身にも覚えが無いわけではなかった。


 子育てに無関心な父親、精神が崩壊した母親に育てられた記憶が、生々しく甦る。



 叔母の家からたまに送られてくる従兄の古着を着せられ、コンビニ弁当とレトルトカレーで命を繋いだあの頃。卑しい大喰らい、とはやし立てられながら、皆が残す給食をあさり、友人のスナック菓子をねだっていた。


 泣いては全てを放棄する母親、家では殆ど口を開くことも無い父親から人生について学べる機会などありもせず、ただ映画や漫画を貪るように見続けた子供時代を思えば、虐待まで受けた子の傷の深さを思い知る。



 続かない人間関係。他人から見れば突飛に映るのであろう行動の一つ一つが、今の自分に何かが欠けていることを表している。だからといって、原因がなんなのか、何をどうすればいいのか。解決の糸口すら自分には見えて来ない。



 ――あの母親のようになるのか。



 その言葉が胸を吹き抜ける度、春野は心底震え上がった。



 目に見える症状があるわけでも無く、医者が明らかな病名を告げるわけでも無い。ただ、何かが抜け落ちていることは、その目を見れば誰もがわかるはずだった。でも、全てを幼子のように拒絶する大人の眼をじっと見続けられる人は居ない。


 それもまた、春野自身が一番わかっていた。誰からも救われることの無い、ただ虚ろなだけの魂は、誰にも何も与えられずに、悲しく消え去って行く。



「私は……」



 鏡の中の自分が、急速に遠のいていく。その派手なだけの造作が母とそっくりに見える度、心臓が高速でモーターのように回転し胃が収縮する。


 そのままがっくりと膝を付き、タイル張りの床に視線を落とした。


 落ち着いてと自分に言いきかせるが、いつもとは違う感情がそれを邪魔しているように感じた。震える手でピルケースを取り出し、安定剤を噛み潰す。徐々にそれは全身の筋肉をほぐし、10分の後、体はやっと春野自身の制御を受け入れ始める。息を整えながら、洗面台を這いのぼるように立ち上がる。



 彼女は目を見開き、再び鏡の中の自分と目を合わせた。荒い息を飲みこみながら、いつものように笑いが込み上げてくるのを待つ。


 身体が楽になるにつれ、いつもの自虐的な笑いが溢れ出はじめる。



「何が可笑しいんだろ。なんであたし笑ってるの?」



 いつもならこれで気分が晴れるはずだった。しかし、今の自分はコンパクトを床に叩き付け、トイレのドアをめちゃくちゃに蹴り飛ばしている。自分を制御できないままに汗が背中を伝うまでそれは続けられ、やがて春野は鏡に向き直った。頬が痙攣し、目が吊り上がっている。



「春野くらら。これはあなたの仕事よ。あなたがやるの」



 化粧室を出て、廊下を大股で急ぎながら春野は携帯を握る。



「伯父さん? 車貸して。そう、今から。――取材よ、急いで明市に行かないとなのよ」

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