「涼宮ハルヒ」と、友人の踵を踏んだことについて

久々原仁介

「涼宮ハルヒ」と、友人の踵を踏んだことについて

 こんばんは。

 これを読んでいるからには、アナタの心は夜なのでしょう。僕は朝が苦手なので、これを読んでいるときだけでも心の電気を消してもらえると、大変幸せます。


 これを読んで頂く皆さんに、一つだけお願いがあります。とてもくだらないお願いでございます。

 お願いは二つあります。二つのお願いの片方だけでも構わないので、叶えて頂きたいと思います。そして二つのお願いを聴いても、聴かなくても、僕はアナタを責めるようなことはいたしません。


 人にお願いをするということについて、慣れていません。ですから、僕とアナタはこの文章のなかにおいては、友達になりましょう。

 この3000文字のなかに収まる友だちにならこのことを話してもいいかもしれません。


 一つ目は、僕がこの世から去るとき、棺に『涼宮ハルヒの憂鬱』を入れてください。

 二つ目は、僕の踵の骨を砕いてアナタの傍に置かせてください。


 こんなお願いはアナタにしかできないと思います。

 ……あはは。そんなことをする理由について、気になっているんでしょう。

 僕がそう考えるに至った経緯というのも、少しお話をしましょう。


 ご存知のことと思いますが、僕は言葉が好きです。

 だからこそ、忘れられない言葉というのがいくつもあります。それは星のように点々と光、年を経るごとに星座のようになって線を引きます。


 皆さんにも忘れられない表現や言葉はあると思います。

 そしてそれは僕が思うに、誰かの名言や座右の銘といった特別な言葉だけではないと考えます。


 そういう整えられた表現だけが、人の心に残るわけではありません。綺麗に剪定された庭園が美しく見える人がいるように、ありのままの自然が残る湿地帯やジャングルの風景が好きだという人もいるでしょう。


 ここで一つ目のお願いに戻ります。


 僕は小学生の頃に『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルを読んでいました(この小説がライトノベルというジャンルで括っていいかについては、意見が分かれると思いますが、この場においては一旦置いておきます)。


 コロコロコミックより『灼眼のシャナ』や『鋼殻のレギオス』が好きな小学生でした。そして、中学生だった兄がアニメを観ていたのをきっかけに、原作を買って読み始めた『涼宮ハルヒ』シリーズ。主人公・キョンのウィットに富んだ語り口調から織りなす非日常的な学園SF。小学生からすれば未知のジャンルであり、僕をオタクの道へ引きずり込んできた名作です。


 この『涼宮ハルヒ』シリーズは、物語にもそれぞれ派手なシーンや、感動する場面も、萌えたりする場面もてんこ盛りなわけです。しかし僕がこの小説における忘れられない言葉は、ふとした主人公であるキョンの一言です。


 それについて触れる前に、登場人物の一人について説明しなければなりません。

 『涼宮ハルヒ』シリーズの主要登場人物の一人に「長門有希」という少女がいます。詳細は省きますがこの長門有希さん、普通の少女ではありません。この長門有希さんは涼宮ハルヒを監視するために送り込まれた宇宙人なわけです。正しくは、宇宙人が開発したヒューマノイド・インターフェース……だったかな?


 そんなわけで、この長門有希さんのなんだか不思議な宇宙パワーで大概のことはなんとかなっちゃうわけです。『涼宮ハルヒ』シリーズにおける、お助けキャラクターのような、そうではないような……。


 しかし小学生の僕にとって長門有希さんというキャラクターの魅力というのは捉えづらかった。

 すごい力があるなぁとは思うものの彼女は大人しく、喋ったとしても難解な言葉が多く、「なんか難しいことばっかり言ってるな」と思って台詞も読み飛ばしていていました。


 そんな僕に、長門有希さんの魅力に気付かせたのは主人公・キョンの何気ない一言。


 ≪長門に頼めば、数年前に失くした小銭入れも探し出してくれるかもしれない≫


 確か、キョンは長門有希という人物をそのように表した。 一言一句あってるかと言われると自信はないけど、彼はそういう表現を使っていました。


 不思議と僕には、その表現が「ストン」と、腑に落ちた。


 情報統合思念体によって作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。

 そんなことを言われたって、小学生の僕には分からない。教室の空間が切り取られたり、同級生に襲われて助けてくれたり、その場の大きなスリルよりも、スモールスケールで想像してくれるキョンの言葉が、ずっと心に残っています。


 人生の終着駅のベンチに、この小説が置いてあったら、とても嬉しい。

 そう思うわけです。


 そして二つ目。

 踵の骨について語る前に、少し知っておいて欲しいことがあります。 

 僕にとっての忘れられない言葉というのは、小説のなかだけに生まれるわけじゃないということです。そこに優劣はないと思っています。

 それを加味したうえで、中学生の頃の話を聴いてほしいと思います。


 僕の友人に上原くんという人がいます。小学生の頃からの卓球仲間で、社会人になった今でもたまに連絡をとっています。


 ひょろっとした瘦せ型の男で、当時からとても頭のいい優秀な生徒でした。上原くんに張り合って必死になって勉強をしたこともあったけれど、彼のテストの点数を超えた科目は一つもありませんでした。


 ちょっとした出来事でした。

 肌が焼けるような夏だった。部活の走り込みが終わったあとにゾンビのようになって給水場に歩いていた際に、前を歩いていた上原くんの踵を踏んでしまった。 僕が咄嗟に謝ると、上原くんは僕にこう言ったのだ。


「いいさ、お前の痛みに比べれば」


 その場で、僕は彼の言葉の真意に気付かなかった。 いつものジョークの類だと思って笑った。上原くんも笑っていた。本当に面白い奴だ。頭の回転の早い上原くんはエンターテインメントの提供にも余念がない。そんな感じで考えていた。


 しかしその日の夜、お風呂に入りながらそのことを思い出した。 走り込みの後で、上原くんだってカラダはきつかっただろう。そんなとき、普通の中学生なら踵を踏まれて苛ついたり、声を荒げたりしたっておかしくない。


 僕は上原くんが言った言葉の意味のことを、考え始めた。 彼の踵を踏んでしまったのは僕だ。上原くんが痛みを感じたとしても、僕が痛いというのはどう考えたっておかしい。


 過失は僕にあるはずなのに、上原くんは僕のことを気遣っていた。気遣う要素があるとすれば、僕もまた走り込み疲れていたし、不注意で彼の足を踏んでしまったことを申し訳なく思った。


 わざとではなかった。それはお互い分かっていた。 つまりは、意図しない状況下で発生した加害だ。とても小さな事故のような出来事だ。


 しかし、上原くんは、それによって僕が心を痛めたんじゃないかと気を遣ったのだ。


 傷付けた僕の心もまた、傷付いているのではないかと、彼はそう思ったのだ。


 僕はそれを上原くんに確認することはなかった。 上原くんもまた、そのことについて種明かしをするような真似はしなかった。


 僕は上原くんのことを今でも親友だと思っている。そしてそれは、僕が勝手にそう思っているだけで、たとえ上原くんがそう思ってなくてもいいと思う。それほどに、上原くんは僕に大切なことを気付かせてくれた。


 あの一言があったからこそ、踏みとどまれた多くの出来事があった。他者から痛みを受けたとき、ほんの一瞬、上原くんの言葉が脳裏に浮かぶ。それはまるで、3つ目の踵になって、僕が道を踏み外さないように、一緒に歩いて来てくれた。


 願わくば、そんな僕の踵と言葉を誰かに託して逝きたいと思ってしまうのは、僕の寂しさと弱さのせいでしょうか。


 僕は長門有希というキャラクターの魅力や、キョンの寄り添うような平凡さをいつだって語りたいし、上原くんの優しさを生涯忘れることはないだろうと思います。


 四六時中覚えてるわけではないけれど、それらはきっと不誠実という言葉では括れなくて。ふとしたときに思い出しては、僕の心を浚ってく。


 『涼宮ハルヒ』から始まって、友人の踵で繋いだ言葉たちはこれから先も誰かの何気ない言葉によって終点まで走っていく。棺に入れる言葉たちはこれから増えていくのでしょう。


 いつかアナタが、僕の言葉を棺に入れたいと笑うまで。

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