怪談『チーズおろし』

りりぱ

***

 都内の大企業でエンジニアをしているT也さんから聞いた話。


 T也さんはある晩、ほろ酔い気分で帰宅していた。夜風に当たりながら一人気ままに歩くのは気持よい、そう思いながら上機嫌でいると、不意に背後から何者かに殴られた。

 ボゴッ、という音と共に目の前に火花が散る。T也さんは意識を失い、その場に倒れた。


 次にT也さんが目を覚ました時、見知らぬ薄暗い部屋で寝ていた。部屋の空気は湿っていて埃っぽく、コンクリート打ちっぱなしの壁には窓が見当たらない。天井には殺風景な蛍光灯がひとつ、頼りなく灯っているだけだ。どうも地下室のようだ、そうT也さんは思った。

 あたりを見回そうとT也さんが起き上がろうとして、そこで初めて自分が縛られていることに気が付いた。ベルトのようなもので四肢や胴体をがっちりと拘束されている。驚いたT也さんがばたばたともがくと、横からいきなり男の声がした。


「お、気が付いたか」

 T也さんがその方向になんとか首を回すと、見知らぬ大柄な男が立っている。男は黒いフードをすっぽりとかぶり、ガラの悪そうな顔でニヤニヤと笑っている。そしてその横には小柄な女が無表情で立っていた。

 T也さんはその女の方には見覚えがあった。なんと、T也さんが数年前に離婚した奥さんだ。かつての奥さんはほっそりした美人だったが、今の彼女は見る影もなくぶくぶく太って醜くなっている。しかしT也さんにはその女が離婚した前妻だ、とすぐに分かったらしい。


「何だお前たちは」

 T也さんは叫んだ。しかし男は構わずニヤニヤと笑っている。女はT也さんに答えず、フードの男に小さな声で何やら耳打ちした。男は面白そうに笑うと、どこからか大きなおろし金のようなものを取り出した。金属製の四角いおろし金で、チーズをすりおろすのに使うものに似ている。男はそれをT也さんに見せつけるように顔の上にかざすと、T也さんの足元に回った。

 T也さんはそこでようやく、自分が裸足なことに気づいた。何をする気だ、T也さんは焦ったが、男は構わずT也さんの足を押さえつけ、爪先におろし金を当てた。


「ギャアアアアアーーーーー!!!!!」

 T也さんは叫んだが、男は構わずT也さんの爪先をおろし金ですりおろした。激痛が全身に走り、爪先が焼けるように痛い。T也さんが苦痛に悶える間も、奥さんは無表情でただじっとT也さんを見下ろしている。


「やめろ、何が望みだ!」

 T也さんがそう叫ぶと、男はぴたりと手を止めた。小さく笑うと呟く。

「金だな」

 奥さんがやおらT也さんの右腕の拘束を外した。そしてその手にT也さんのスマートフォンを握らせる。

「お前の全財産をこれから言う口座に振り込め」

 妙な真似をしたら殺す。男はそう言ってスマートフォンの画面をのぞき込んだ。せっかくスマートフォンが手中にあるというのに、これでは警察に通報できない。

 T也さんは震える手で銀行アプリを開くと、男に言われるまま口座情報を入力した。見知らぬ名義の口座だったが、T也さんは奥さんが仕組んだことだと直感したらしい。きっと奥さんがこの男を雇い、T也さんを脅迫させているのだ。

 

 高給取りのT也さんにはかなり多額の預金があったが、それをみすみす奪われるのはとても苦痛だった。T也さんが男の目の前で預金全額を振り込んでみせると、男は満足そうにうなずいてスマートフォンをT也さんの手から取った。しかし奥さんは、また男にひそひそと耳打ちしている。男はそれを聞くと、再度T也さんに向き直った。

「お前、まだ証券口座があるそうだな」

 T也さんは長期投信をしていた。それまで奪おうというのだろうか?T也さんがためらうと、男はまたチーズおろしを手にとってT也さんの爪先に当てる。また焼けるような激痛がT也さんを襲った。


「やめろやめろ、分かった!」

 たまらずT也さんは叫んだ。またスマートフォンを持たされ、男の目の前で口座を操作させられる。それも全額出金手続きをさせられると、男はまた満足そうにうなずいてスマートフォンを取った。

「もういいだろう……放してくれ」

 T也さんがそう訴えると、奥さんはまた男の耳に何かを囁いた。男はうなずき、T也さんに向かって

「よかったな、感謝しろよ」

と笑った。

 その後、T也さんの意識はまた闇に落ちて行った。


 T也さんが次に気が付いたとき、自宅の寝室で寝ていた。飲み過ぎたように頭痛がするが、特に殴られた跡はないようだ。

 T也さんは慌ててスマートフォンを探した。スマートフォンはサイドテーブルの上で、普段通り充電されていた。T也さんは急いでスマートフォンを手に取り、銀行口座を確認した。


「やられた……」

 夢ではなかった。T也さんの全財産は見知らぬ口座に振り込まれていた。また、その時に日付を確認してT也さんは驚いた。なんと、最後の記憶から丸二日が経っている。どうやらその間、意識を失っていたらしい。T也さんのスマートフォンには、職場からの連絡も大量に入っていた。


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 この話をT也さんから聞いてわたしは驚いた。わたしもT也さんの前妻を知っているが、彼女は離婚後に飛行機を使うほどの遠方に引っ越し、そこで再婚して穏やかに暮らしている。また、未だに彼女はほっそりしたきれいな女性で、ぶくぶくと醜く太っているということはない。


「……人違いじゃないですか?」

 わたしがそう聞くと、T也さんは血相を変えて怒鳴りだした。

「俺が嘘をついてるっていうんですか?!」


 いえそうではなく、とわたしは宥めようとしたが、T也さんの怒りは収まらない。

「あいつはねぇ、俺がちょっと躾けてやったことをずっとグチグチ恨んでるんですよ!本当に呆れた女だ、そんなんだから俺に叱られていたのに全然分かってない」

 T也さんは前妻にDVを行い、揉めた末に奥さんを追い出すような形で離婚していた。ろくな財産分与もなく放り出した、と、当時は共通の友人たちの間で噂になっていた。しかしT也さんの認識ではそうではなかったようだ。


「……警察には行ったんですか?」

 わたしは話題を変えようとT也さんに尋ねた。

「行きましたよ。でも全然俺の話を聞いてくれなくて」

 どうも証拠がなく、事件性はないと判断されたらしい。見知らぬ口座についても、警察はT也さんの親族の口座だ、と断定したが、T也さんはそんな口座に覚えはないと頑として認めない。また奥さんを一応調べたところ、奥さんはここ最近ずっと住んでいる街から出ていない。


「俺には傷だって残ってるのに!」

 T也さんは憤然とわたしに爪先を見せた。しかしそこには確かに傷があったもののとても小さな擦り傷で、転んでついたものであるようにも見える。少なくとも、大きなおろし金ですりおろされたとは思えない。

 T也さんは病院にも行ったが、特に殴られた跡もなくアルコール以外の薬物も検出されなかった。泥酔して幻覚を見たのだろう、つまり警察はそう判断したのだ。


 お金のことは気の毒だが、わたしにもそうとしか思えない。そもそも、なぜその女を奥さんだと思い込んでいるのか、そこもはっきりしない。わたしは呆れ、適当に話を切り上げた。


 後日、T也さんの前妻に連絡した。その時にこの話をすると彼女は苦笑した。そのことで彼女のところにも警察から問い合わせがあったらしい。もちろん、すぐに嫌疑は晴れたのだが。

「あの人、多分他にも被害者いますからねぇ」

 前妻は苦笑交じりにそうぼそりと呟いた。




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