時神と暦人6⃣ 伊勢志摩にそよぐ風の物語
南瀬匡躬
♫序章 日月神が結ぶ信頼-熱田で会つたが百年目-
第1話 ♫序章 日月神が結ぶ信頼-熱田で会つたが百年目-
すなわち、教会を仕事場にしていると言うことは、当然カレンダーガールとして、タイムゲートの在処を人より多く知っていると言うことだ。
そしてもうひとつの彼女の特技は、彼女の弾くオルガンの音色は時間を超えて
ただ彼女はこの先、この物語で今回ほど、登場することはないと思う。かつて学習雑誌で大活躍したマンガの主人公の行動的な姫子とは大違いである。ここまで、彼女はいわゆるモブキャラに近い扱いで終わりそうなポジションだったが、今回は第四シーズンと第五シーズンの橋渡し役として、心機一転重要な役割で登場してもらった。
本日、彼女は
さて彼女は多摩地区の代表都市、
勿論姫子は、夏見の妻であるピアニスト角川栄華とも顔見知りである。これは暦人同士として知り合ったのでは無い。かつてまだ両者がアマチュア演奏家だった時代に一緒にボランティア演奏などに参加した際に知り合ったからだ。故に横浜山下の
熱田の公演後、いつものように姫子は名鉄線神宮前の駅ビルにあるそば屋できしめんを注文した。ニットのツーピース、黒いスカート姿だ。髪はショートカット。このヘアスタイルは、かつてポケベルのCMで脚光を浴びた女優以上に似合っていると自負する四十歳だ。家に帰ってゆっくりするために、出張演奏のあとは決まって軽食をとっての帰宅だ。出された水をひとくち含んで、安らぎを覚える。全身を使うオルガン奏者、足鍵盤と手鍵盤の運び。めまぐるしく全身を動かしての演奏を求められる技である。音色を変えるのも「ストップ」というスイッチの入れ替えで曲間に間違いなく操作しないといけない。なかなかの運動技能が求められることは間違いない。そんな慌ただしい仕事の時間を忘れるように、穏やかな時間をこのお店で取り戻すのだ。
「あ、あのそば屋でいいじゃねん。歩き疲れたしなあ」
どこからともなくその声は響いた。聞き覚えのある声だ。そう、間違いなく
『げ、あの押しの強いおばさん』
嫌な予感が姫子を襲う。一度聞いたら忘れない口調だ。いわゆる足利弁、両毛言葉。
「そうやに」
「やに? 伊勢弁? 地元の
今度は別の聞き覚えのある声だ。なんだったら、糸よりも、もっと聞き覚えがある声だ。
「でもやはり、おそばで良いかしら? もっとモダンなものが良いんじゃなくて?」
更に聞き覚え所では無い声がした。姫子にとって、身の危険すら感じる声だ。彼女の記憶に刻まれ、しっかり脳裏に残っている声といったところだ。
『あの見てくれだけ上品な『ザーマス』おばはんは、私の身内。私立高校の理事長をしている
いつもは定期演奏の後で、このそば屋でまったりとした自分だけの優雅な時間を満喫する大切なルーチンが台無しである。その日の疲れをとる良いリラックスタイムはお預けとなった。あの聞き覚えのある複数の声。苦手な声とも言える。姫子は奥で待機していた、顔なじみの店員に指でバツマークを作ってみせる。
慌てて盆を抱え、作務衣姿の店員が席までやって来た。
「いかがしました?」
できる限り小声のかすれ声で、しかも店員の耳元に手をやって内緒話で、
「苦手なおばさんたちが近づいて来たので、今日はキャンセルして帰ります。ごめんなさいね」と言う。
分かった風に「あら、大変。じゃあ、そっと」と店員が言って、入口の暖簾をまくり上げた瞬間、姫子は三人の老女と鉢合わせになった。
「まあ姫子」
声をかけたのは書泉百だ。身内ということもあり、真っ先の反応だった。
「あら本当。姫子さん」
続いて糸と愛珠にもバレた。三人とも行儀の良いスーツ姿である。なにか会合の帰りなのだろうか。
「もうお帰りなの?」と愛珠。
愛想笑いを浮かべて「ええ」とだけ、軽い会釈で何事も無かったかのようにすれ違って店外に出ようとした姫子。
その時彼女の肩をグイッと掴んで、「折角だもの、ちょっと付き合いなさいな」と百。
「急ぎの……」
とっさの言い訳に耳を傾けることも無く、百は姫子を羽交い締め同然にして連行。再度店内に押し戻されることになった姫子であった。
店の奥でさっきの店員は姫子を不憫そうに見守っている。
「さてと何にする?」と席に座る百。
「そやね、ピラナポかな」と愛珠。
「馬っ鹿じゃねえん。ここうどん屋だよ」と糸。
「あ、そっか」とようやく店を見渡しながら、自分がうどん屋にいる事に気付く愛珠。
頭を抱えながら、早くここを立ち去りたい姫子。
『ううう……』
絶句のまま帰りたい気持ちが先走っている姫子。
そこに百がピュッとメニューを差し出す。
「姫子、なにが好きだっけ?」
ひきつった笑顔で「きしめんかな?」と姫子。
「そやな、名古屋やし、きしめんやに」と愛珠。
「じゃあ決まり、全員きしめんね」と言ってメニューをパタンと閉じる百。
「すみません」と手を挙げて店員を呼び、彼女がテーブルに着く前に、大声で百が、
「きしめん四つ、それに生ビールも四つね」と言う。
ホールの途中で注文票に書き込んで、そのまま「かしこまりました」と言って厨房に引き返す店員。その顔は姫子を案ずる心配な顔だ。
「引き留めてごめんなさいね。姫子」と百。言葉とは裏腹、その表情に謝意の気持ちは微塵も見られない。
「はあ」
気のない返事をする姫子。
「実はあなたにちょうど訊きたいことがあったのよ」
「私に? 何を?」
皆目見当も付かない姫子は、ちょうど良いタイミングで運ばれて、目の前に出された生ビールのジョッキを半分ほど一気飲みした。金縛りにあって身動きできない様な気分の、この状況に諦めがついた。もう半ばやけくそである。
「カレンダーガールの気心の知れた信頼できる人を探しているの」と百。
「カレンダーガール? 何で暦人のオバサマが?」
暦人御師の百が、カレンダーガールに何の用事があるのか不思議だった。
「大きな声では言えないのだけれど、どうやら時の翁が動き始めているらしいの。それも三人の元御師を仲間にしている。今回は御法度の時間の流れの書き換えも辞さないという大胆さなの」
横に座った姫子に耳打ちするように囁く。そして間をおいてから眉をひそめて頷く。
驚きの反応で、大きく目を見開いた姫子に、暗黙の相づちを送る糸と愛珠。
「それ、山崎君たちは知っているの?」
姫子の言葉に、
「うちの身内の
「ふーん」
難しそうな姫子の顔を見ながら、糸は続ける。
「ちなみに先日の彼の小さな企ては、埼玉で上手く事前阻止できたの。その時はカレンダーガールの
聞くからに厄介そうな名前がオンパレード。姫子は早くこの場を立ち去りたい気持ちで一杯になった。
「シスター摩理朱が知っているのなら大丈夫じゃないかな?」
適当に話を落としてまとめる姫子。
「そうかな」と百。
「それでなんでそれを私に? そんな済んだ話し」
彼女からすれば、関東で起きた自分に関わりのない事件だ。もっと言えば、この先も未来永劫、関わりたくないというのが本音だ。
「その時、歌恋ちゃんに時の翁は伊勢でお会いしましょう、って言っていたらしいの」
その言葉に過敏に反応した姫子。ふつふつと時の翁に怒りを覚える彼女。
『あの、おじさん……。にゃろめえ』と密かにテーブルの下で握り拳を作って闘魂を燃やす姫子。
「こっちに来るって事?」
姫子の言葉に頷く三人。
「言葉通りならね」と百。
「本当に?」
再度、三人の老女はきっぱりと同時に頷くと、
「もう彼は、既に仲間と一緒にこっちに来ているかも知れないのよ」と百が加えた。
『うー。あのまま帰れば良かった』
後悔先に立たずの姫子だが、乗りかかってしまった以上見て見ぬ振りも出来ない。頭を抱えて、髪をかきながら首を振る。そして一気に疲れも感じる。
「
東の角川と並んで、西の小宅家と名高い松阪の暦人御師のリーダー格の家である。
「まだ何も言ってない」
「土の
「ううん。まだこっちの知り合いは愛珠ちゃんだけなのよ」
「暦人たちで解決して欲しいわ」とだけ姫子。
「それがあっちの矜持を保つためにも、カレンダーガールの協力が不可欠なの。それであなたの知人に何とか取り付けてもらえないかな、と思って引き留めたわけ」
事の真相を打ち明けられたところで迷惑な話は、所詮迷惑でしかない。姫子は顎に手をやり、空になって飲み干したジョッキを見つめている。
「それとあなた多岐さんと今でも交流あるのよね」
「アヤメちゃんのお父様?」と姫子。
「うん」
頷く百に姫子は、
「浜松にいらっしゃると思うけど……」と答える。
「そっちとも連絡を取りたいの」
姫子はかなり手を広げて暦人たちの総動員を目論んでいる百に驚いている。それは自分には皆目見当も付かない。きっと予想もつかない、前例のない壮大な状況が待っているからだということだけは分かる。
「ちょっと整理しましょう」と姫子。そして「具体的には時の翁さんは何がしたいの?」と核心に迫る。
「不幸を背負って生きる人々を助ける仕事。特に時間の狭間で肉親を失ったり行き場を失った人たちを集めて、彼らの面倒を見てあげるという作業」
さも良い行いと言えそうな話だ。どこに問題があるのか分からないという顔の姫子。
「それって良いことなんじゃない? アヤメちゃんもそうだったし……」
「じゃあ、彼らを助けるために時間を移動させて、その時代に生きてない人間を未来で人生の終わりまで生活させるってことに、どう社会的な説明を付けるの?」と百。
「例えば?」
「戸籍や住民票。学校などの経歴である履歴書の記入。どう説明させるの? アヤメちゃんのように、就学前の幼い頃にこっちに移っていれば問題ないけど、大人は適応できるかしら? あるいはこの
「そっか」と百の説明に納得する姫子。
『時置人の場合とはかなり異なる。二十五世紀の時間局は手の届かない時代よね、江戸時代とかじゃ』と心中で納得する。
「それでね、実際に時の翁が使おうと目論んでいた亜空間への扉を閉じたの」と、今度は糸の説明が始まる。
「亜空間を閉じた?」
糸の言葉を繰り返す姫子。
「
糸の言葉に、
「あのアイヌ民族のオニビシ部族の残党が作ってくれる浄玻璃鏡。すなわち魔法の鏡ですね」と知識を持つ姫子は答えた。
「そう」
「なにそれ?」
あまり東国事情に詳しくない百は糸と姫子に向かって訊ねる。
「その昔、北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていた頃、アイヌの有力部族で二大勢力があったの。日高山脈から東をシャクシャイン部族、西側をオニビシ部族と言ったわ。オニビシとシャクシャインは部族の長の名前ね。結果オニビシの部族は負けて、一族郎党が彷徨う事態となった。その時、金属技術を持たないアイヌは法外な値段で金属を売りつけられていたことから、それを知った長慶子の時巫女と夏見のご先祖、そして時神さまはひとつの方法を見いだした。オニビシの部族の中でも、アテルナイを中心とした一派、小部族に金属加工の技術を伝授して、亜空間に住むことを許したのよ」
「そんな特別なことが暦人の時空世界にあったの?」と百。
「それはアテルナイの信仰がもたらした幸運だった」と返す糸。
「へえ」
「アテルナイの一派は、トカッチュプカムイとクネンチュプカムイの敬虔な崇拝者たちだった」
「トカッチュプカムイとクネンチュプカムイ。何それ?」
百は意外に東国事情や歴史をあまり知らない。
「日月よ」
「あっ、アイヌ神話の世界観で、太陽の神と月の神か」
糸は優しく頷く。
「アニミズム信仰集団の母体は違えども、太陽と月を敬うのは伊勢信仰と一致、アマテラスさまとツキヨミさまを大切にしている証。同じ価値観を有する同志なのよ、私たち暦人にとっては、タイムゲートを開いて下さる神々。でもアテルナイ一派を除いた、それ以外のアイヌ人のほとんどの部族は、これら二柱の神々のことを生活と関連の無い神様として見做していたため、一目置いた信仰の対象にすることは無かった。たまたま彼ら、アテルナイの一派だけは、日月の神を自然崇拝して尊い神と見做し大切に扱っていた。そんなピュアで敬虔な彼らを助けなくてはと、時神さまは当時伊勢に住んでいた小宅分家の金属加工技術を下賜する様に命じ、知識とノウハウを与えたの。そして金属の原材料が入手しやすく、彼らが好んだ絹織物の布地が手に入りやすい渡良瀬川流域に入口がある亜空間に住まわせることになったのよ。その場所にはカタクリの花が咲くことから『
「だから堅香子の民はいまでも長慶子の時巫女や夏見家との関係を重んじるのね。他の暦人とは一切関係を持たないで、見向きもしないのも納得だわ」と糸の説明の合点いった姫子。
すぐに閃いたように「ちょっと待って!」と姫子。言葉を続けた。
「いきさつは分かったけど、過去のことでしょう。現在の
姫子の言葉に「大ありよ」とどや顔の百。
「だって時の翁は
「ええっ? なんて大それたことを! 時神さまでもない者が、罰当たりだわ」
そう言いながらも姫子は少し引き気味になった。時の翁の予想だにしない大それた行動に、青白く変わっていく自分の顔色を感じ取っていた。
「この子、粟斗と同じような顔しているわ」
糸の言葉に、
『当たり前よ。こんなやっかい事、夏見さんで無くとも御免被るわよ』と肩を落とす姫子。夏見の苦労がイタいほど分かった瞬間である。
「だったら私じゃ無く、時魔女じゃ無く、
初瀬のおばさんとは姫子にとっても、百にとっても遠縁の身内となる暦人である。ただし大神系の暦人御師のため御厨と移動のためのタイムゲートを持っている訳では無い。
「なんで?」と百。
「あの家にはおばさんの娘さん、次女で、欧州系の時魔女をやっている
「美蘭? 知らないなあ」と百。
「いとこが南都文理大学を出て、町山田で理科の高校教師をやっている。そのお嫁さんが横浜で時空郵政やってるの。そろそろ定年退職だと思うけど」
「時空郵政か。時間局を味方に付けやすそうね」と百。
姫子の情報に嬉しそうな顔をすると、「もう一杯いかが?」と百は訊ねる。
「もう結構。ごちそうさま」
役目を終えた彼女は、そう言って足早に席を立つ。勘定は任せて、振り返りもせず一目散に店を出た。いや逃げてきた、と言った方が似合う行動だった。彼女にとって、あの三人との空間は、決して居心地の良い場所では無かったからだ。そして予想外のトラブルの火種。関わりを持ちたくないというのが一番の気持ちだった。
名鉄神宮前駅のロータリーにある歩道の前に行くと、青いドレスの金髪女性が姫子を待っていた。
「あらエリザベート」
気の置けない知人を見つけ、姫子は少し緊張が和らいだ顔になる。
この金髪女性、近くの教会のパイプオルガンの付喪神である。明治期に作られた足踏み
「大変でしたね。お察しします。飲み直しにお付き合いしようと思って待っていました」と笑う。
姫子はフッと笑うと、「ありがとう。じゃあ、早速行きましょう」と彼女の肩を押して、線路際のバーへと向かった。
了
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