第十五話 続・芋串フライと小江戸の神明社-真名子の幸せと道の駅-
栃木県栃木市の郊外。東武日光線の東武金崎駅から少しだけ歩くと田畑の広がる平地の中に道の駅がある。国道二九三号線沿いにある大きな駐車場を備えた道の駅だ。野菜の特売所や苗木の販売、喫茶室やフードコート、地元栃木のお土産などのブースが並ぶ建物の造りになっている。すぐ隣には今流行のスーパー銭湯の類い、温泉入浴施設もある。
田舎の定番おやつと言えば、ところてん、甘酒、焼きトウモロコシなどだ。それらが店頭に設置されたテントの出店で味わえるし、その横では地元の若者がコンサートを開いている。今は女性二人のフォークデュオが懐かしいヒットソングを歌っている。
一昔前まで、ここは自治体としては村だった。合併して栃木市に編入されている。物凄い田舎というわけでも無く、暮らすには不便なく、然さりとてお世辞にも発展しているとも言い難く、田園風景が何処までも続くような集落近くの場所である。ここは平成の合併の数年前に折角村から町に昇格したのだが、結果的には合併して隣町の栃木市の一部となった。そんないきさつのある土地柄だ。
栃木市の中心部から車で通勤している三馬真名子さんままなこは、この道の駅の土産物売り場で店員をしている。セーターにジーンズ、そこにエプロンを着けた出で立ちで、平台に並ぶ採れたての野菜の値札を書いている。高校を卒業してから数年、彼女はずっとそれを繰り返している。この半年後に結婚も控えていたが、相手の男性は仕事を続けて良いと言っているため、この居心地の良い職場にそのまま居続けることも決まっている。
仕事を終えて、栃木市の中心部、蔵の街に戻った彼女は安堵からか気が緩む。
「ちょっと近所の喫茶店で珈琲でも飲んでから家に戻るか……」
ほぼおきまりのコース、自宅までの途中にある栃木市のほぼ中心部、神明社の脇にある観光客向けの蔵造りのカフェに向かう。駐車場に車を駐めてそのまま店内へと入る。
「あれ、真名子ちゃんじゃねえん」とカフェで働く多美たみさんがいつもの笑顔で玄関に出向く。真名子の家の向かいに住む、ご近所さんだ。五十代ほどの女性で、ふくよかかつ朗らかな笑顔が彼女を迎える。
「こんばんは多美さん」
「さっきねえ、アンタを探して、ほら従姉の三馬さんの、あの気の強い、ええっと、亜佐美ちゃんだっけ? ……が来たんだわ。今日はまだ仕事じゃねえん? って言ったんだけんど、ほんじゃあ時間を合わせてから探してみる、って言ってたん」
「亜佐美ちゃんが?」
「なんでも会計事務所のお仕事で用がある、って言ってたんだけんど……」
「お仕事で私? 会計事務所に用事なんか無いんだけんど?」と不思議そうな顔で話を聞く真名子。
会計事務所に勤める亜佐美は高校の先輩でもある。当時は成績優秀で、自己主張も辞さないあの性格は真名子からしたら天下無敵のスーパースターだった。内気な彼女にとって、亜佐美はいわば身近な憧れの人物といったところだ。
「あ、いつもので良いの?」
多美は注文を思い出して真名子に訊ねる。
「あうん。お願い」
そう言って数分後には彼女の目の前に、温かいカフェオーレが出された。
「この頃はどうなん?」と月並みな世間話を振る多美。
「まあまあ、ってとこじゃねえん。なーんもねえん」
フーフーとカップを冷ましながら答える真名子。
「ほっけ、じゃあ良いかったねえ、家庭を持って、大人になるとさあ、なんにもねえんが一番の幸せなんよ」
笑顔でレジカウンターに戻った多美は、老眼鏡をつけると伝票の整理を始める。
「何も無いのが幸せか。確かにそうだわ」と納得の真名子。まるで、まんま彼女の人生のスローガンのようだ。
真名子は両手で包むように、大きなマグカップを持つと、最初の一口を含んだ。
「ああ、落ち着く。今日もお仕事、疲れたなあ」としみじみとした気分を言葉にした。そして大きくため息をつく真名子。肩を自分で軽く叩く。
「若いウチからため息なんかついてっと、幸せ逃げんぜ。ましてや結婚間近の乙女がさ」と老眼鏡を鼻の下にずらしたまま、多美が笑う。
「あはは」
頭を掻いた真名子はバツ悪そうに二口目を口に運んだ。
真名子は祖母と二人暮らし。中心部旧市街に近い町外れ、永野川にもほど近い、古い民家で暮らしている。農家作りのその家は、この地方の古い家屋が皆そうであるように、家の北側に屋敷林がある。日光連山から吹き下ろす北風から家を守るための昔からの伝統だ。かつては萱で葺ふいていた屋根だが、今は軽くて丈夫なブリキで葺いてある。
結婚後の新居はその敷地内に新しい家屋を新築で立てる予定でいる。祖母が心配という彼女の願いで相手の男性が、二世帯住宅に近い状態で暮らすことを承諾してくれたのだ。もう測量も始まっていた。
昔ながらの農家と言うことで、祖母と暮らす彼女のこの家は、その敷地面積が広大で、都会の家ならこの家の目の前に家の五、六軒、いや十軒は立てられそうな庭のスペースがある。
「ただいま!」
いつものように広い土間の玄関で祖母に聞こえるように言う。
「おかえり」と返事をしてきたのは、今日に限って、祖母では無くもっと若い声だった。真名子はすぐにピンときた。
「亜佐美ちゃん!」
従姉の亜佐美が片付け間際のこたつにあたって笑顔を向ける。その向かいには祖母が背中を丸めた姿勢で、満面の笑み、いつもの場所に座っている。
「ばあちゃん、孫二人に会えて嬉うれえしん。幸せだあ」と編み物をしながら言う。
「なんかカフェの多美さんに聞いたで、カフェに来てくれたんだってがね?」と真名子は先に言葉を発した。
「ああそうなん。行ったんだけんど、入れ違いだったんね」と亜佐美。
すると祖母は「さて、ばあちゃんは風呂の用意でもしてくんべや」と言って、練炭れんたんの入っていない堀ごたつから立ち上がった。その様子からすると、自おのずから席を外すといった感じだ。
「真名子ちゃん、甘子あまごの家の満みつるおじちゃんって覚えている?」と続けたのは亜佐美だ。どうやら来訪の目的、用件を切り出した。
「うん。死んだウチのおっかの弟ださ」と返す真名子。
「そう」
「それがどうかしたん?」
「実は半年以上前に亡くなってん。彼の遺言状が見つかってるんよ」
「そうなん? でもおっかとは不仲で行き来がねがったんよ。子どもの頃、あんなんとは行き来すんな、っておっかに言われたん。でもなんで父方の親戚の亜佐美ちゃんがそんなん知ってるん?」
「それがさ」と口ごもる亜佐美。
「なにさ?」と問う真名子。
顔をしかめると、亜佐美は、
「その叔父さんの遺言に、真名子ちゃんに全財産を相続するって書いてあったんさ」と首を傾げて言う。
「は?」
まるで身に覚えも無いことで、真名子にとって寝耳に水である。買ってもいない宝くじに当たった気分だ。喜びよりもうさんくさいという気持ちが先行した。
「本当に『は?』ださね」と亜佐美。
「あたし満みつるおじちゃんはおろか、甘子あまごの家の人とは十年以上会ってねえんよ、本当に」
腕組みしてしかめ面の真名子は困り果てている。
「あたしはあんたにとって、同じ三馬姓の血縁者だから外戚になる甘子の家のことはわかんねんだけんど、なんか東京の方でえらくお大尽になったおじさんらしいんね」
「うん、そうらしいや」
「ほんでさあ、そのおじちゃんの会社の顧問弁護士が、従姉の私が会計事務所に勤めている、っていうんで、わざわざ調べたんだろうね、ウチの事務所に来たんだとさ」
亜佐美の言葉に、
「はあ、そいでご丁寧にその遺言を亜佐美ちゃんに教えてくれたって訳ね」と納得の真名子。
「うん、なんでも亡くなるときに、ウチの会計事務所を挟んで交渉と業務を行うようにと、弁護士に当てた遺言に書いてあったんだってがね。それで明日、ウチの先生と先方の顧問弁護士の先生が真名子ちゃんに会いたい、って言ってきたんだわ。それで私がまず前日に約束アポをとるための使いっ走ぱしりにされたってわけ」
「なるほど、それはご苦労なこってした。ありがとう」と頭を垂れる真名子。
翌日、道の駅に出勤した真名子は、叔父の遺産の件が脳裏を離れなかった。
昼休み間際という時間に婚約者の鹿嶺差身かれいさしみが真名子の元にやって来た。週に二、三回はやって来るし、結婚間近で、彼女の職場内でもほぼ公認の仲になっている。
彼女とは半年後に結婚の予定だ。結納も済ませて、あとは式場やらなにやらを追々と、っといったあたりまで話は進んでいた。
シュッとした顔立ちで、気さくにフリースの丸首にジーンズで現れた差身は、「よう!」と片手をあげる。レジカウンターのエプロン姿の真名子はぎこちなく「よう」と返す。
その口調で真名子の「心ここにあらず」を察する差身。
慣れた口調で「またなんか考え込んでんじゃねんけ?」と声かける。
カウンターにソフトクリーム代金の三百円をパシッと押しつけた。
「葡萄のやつね」と注文を添えて。
「うん、葡萄ね」と真名子は代金と引き替えにレシートを渡す。
「昼休みだろう、ちょっと表の風に当たんべや」と差身。
「うん」
職場の同僚は意味深な笑顔で、「いってらっしゃい」と手を振っている。半ばひやかしだ。
荒い編み目のセーターにエプロンのまま真名子は、「休憩はいります」と言って彼のソフトクリームを片手に建物を出ると、駐車場脇のベンチに向かう。
彼は別のブースで買ってきたであろうハンバーガーをかじりながら、一人ベンチで真名子を待っていた。
「お待たせ」
「おお、待ってたよ。オレのソフトクリームちゃん」
「アタシを待ってたんじゃないんけ?」
「あはは、ごめんごめん」
真名子のアイスを渡さない仕草に、拝むポーズで笑う差身。
笑顔から一転、真顔になった差身は、
「なんか心配事でもあるん?」と訊ねた。
「今日、付き合いも無く、行き来していなかった叔父さん、あ、おっかの弟さんの遺産の件があって、その叔父の会社の弁護士さんがウチにくるんよ」と素直に打ち明ける。
「遺産?」
「うん、何故か私に譲るって残した遺言があるんだって」と簡単に説明を入れる。
すると顎に手をやり少々考える彼。結論に達したらしく平然と「いらねんじゃねん、そんなもん」と一蹴する差身。
「なんで、アンタの話じゃねえべえ」と角口の真名子。
「結婚するんだもん、オレにも少しは関係あっペえや」としかめ面の差身。
「そりゃそうだけんど」と言う真名子に、差身は優しく笑って返す。
「もう分かっていると思うけど、オレんちは、お金に困ってねえんだど。そんな付き合いもねえ家の、得体も知れねえ家の遺産なんか受け取ると、トラブルの元だ。間違いなく、あとで面倒ごとに巻き込まれっかんな」
「ほっけ?」
「そりゃほうだべ。お金なんて、欲しい人は山ほどいる。それが血縁関係が近ければ近い人ほど、手が届くと思い込んでいるはずだ。口八丁手八丁で我が物にすべく、皆が画策しまくっている頃だ。あらかじめ、そんな一族がいることを知っていたから叔父さんって人は、真名子に残して火種を遠ざけたんじゃねぇんけ。まあ、横溝正史の探偵小説のような揉め事に巻き込まれるのはゴメンだと思わねん?」
彼はベンチに座ったまま、両手の指を組んで胸元で前に押し出すようにノビをしてみせた。既にソフトクリームは彼の胃袋の中だ。
「確かになあ」と思惟の雰囲気で頷く真名子。
「幸せの形は人それぞれだけんども、トラブルや争い、不幸の種が少ない環境ほど、その人や家は幸せだと思うよ。少なくともオレんちでは家族皆そうなんだ。受け取ったら、いらない火種は必ず出てくる。いくら大金が手に入って有頂天になっても、その大金のそれと同等に見合う対価、すなわち火種は問答無用で背負わされることになる。もし受け取ると、恨うらみや妬ねたみ嫉そねみが束になって、一億円なら一億円分の手間とトラブル、仕返しが絶えず真名子について回るで。あほくさ。大金を持った満足感よりも、千円ぽっちでも自由に酒盛りでもしている方がよっぽど気楽だよ」と笑う差身。
東京の御曹司の家に生まれた差身の言葉は田舎育ちの真名子にも、一定の説得力があった。幸せの形は何もない日常という彼の言う意味は、全く真名子の考えと一致していた。
「お金のこともそうだけど、差身は東京生まれの東京育ちなのに、全然気取んねえんな。何でなん?」
「簡単だ。見せかけのメッキはいつか剥がれるし、お金も使えばいつかは無くなる。人の生活なんて、ただそれだけの繰り返しだよ」
笑って答える差身は、幼稚舎から大学まで応仁義塾おうにんぎじゅくである。今、彼のこの格好を見て、誰もそんな高学歴で、サラブレッド経歴とは思っていないようだ。いつも気さくに話して、純朴に田舎の人とのふれあいに順応している。東京人がなぜか栃木弁を地元民よりも完璧にマスターしているのだ。
彼にとっては、たまたま五年ほど前に、ベンチャーを立ち上げて、栃木市が物流の面でコストと交通に適していたからここに会社を作っただけというこの土地とのご縁である。すっかりこの場所に溶け込んでいる彼、生い立ちを知らない人は皆、彼がこの街の生まれだと勘違いするほどである。
彼は一間置いてから、
「夕方、弁護士さんとの話が終わったら、いつもの神明さまの横のカフェで待っているから結果を教えて。あの出会ったカフェでね。その話を聞いたあとで、この間回った結婚式場のパンフレット見せっからさ。真名子が来るまで、イモ串フライでも囓ってるわ」と変わらない、彼特有のいつもの口調で笑う。
真名子の気持ちはもう固まっていた。そして彼女は神明さまのお参りのあとで、立ち寄ったカフェ、そこで出会った差身が誠実で頼りになる利発な男性であることに今あらためて幸運を実感した。
『ああ、この人のお嫁さんになれるんで、良かった。神明さまでの出会いに感謝』
そう心に思うと、自然と相続放棄に想いが固まった。真名子の気持ちは揺るぎのないモノとなった。
了
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