第十七話 続々・三日月が似合う神明社-紗代のタイムスケール-

「おお、懐かしいなあ」

 久々に休暇を取っての帰郷。和歌女紗代わかめさよはミニのタイトスカートに上着のジャケットを引っかけて東武線の足利市駅に降り立った。

 普段紗代は東京のお茶の水で楽器店の副店長をしている。楽器店と言っても、クラッシックのピアノ販売店などではなく、若者が使うようなエレキギターやシンセサイザーがメインの今風のお店だ。お茶の水界隈というのはそういった楽器店の集まる街である。学生時代のアルバイトから社員登用されて今に至る感じだ。


 駅の改札まで出迎えに来たのは、やはり一時帰郷している石鯛沙織いしだいさおりだった。地元酒蔵さかぐらの娘で、普段は東京のショッピングモールの受付嬢をしている。清楚なワンピース姿で、改札を隔てて懐かしい級友の姿に手を振っている。

 二人は中学と高校の同級生で、今回の帰郷もクラス会が催されるためだった。


 沙織の兄はその酒蔵さかぐらを継いで専務をしている。美人の義姉は兄と同じ大学の元ミス・キャンパス優勝者。そして元テレビ関係のレポーターでもある。この二人の付かず離れずの微妙な距離感を一気に結びつけたのは沙織のお手柄と言える。

 そして彼女自身の婚約者はこれまた老舗楽器店の店長だ。同じショッピングモールのテナントの人だ。音楽好きで人の良さがトレードマークの酒を愛する穏健派のおじさんである。そんな穏やかさに憧れた沙織は二人の関係を進展させた。


「紗代、お帰り!」

 沙織は小高い階段の先に紗代を見つけると、改札の外から右手を軽く挙げて、彼女に存在を知らせる。

「ああ、沙織。お迎え、ありがとう」

 二人は近づいて握手を交わす。

「なんか地元で会うとテンションめっちゃ上がるね」と紗代。

「ほーんと、中学とか高校時代にもどるんさ、ねえ」

「お、両毛言葉、久々に出たねえ」

 二人はふざけ合って歩きながら駅構内にある小さな土産物店を兼ねた喫茶スペースに足を運んだ。

「ここでコーヒーでも飲んで一休みがいいがね」

「うん。そうすんべ」と笑う紗代。悪戯に方言を使う。

「今から練習して、方言全開にしておかないと、明日のクラス会で皆にお高くとまっているって言われちゃうかんね。練習練習」

 沙織も笑いながら応える。

 二人は奥にあるテーブル席に座って向かい合う。

「ところで、あんた、今回出席したんは、あの元彼の消息を知りたかったからじゃねん」

 沙織の言葉に、堂々と「それもある」と頷く。

「仲かったもんね。いっつもふたりでギター弾いてたさなあ」

「田舎だからそれしかやることがねかったん」

「ほっけ。でも高校は別々だったけど、しばらくは付き合ってたよね?」

「高三の春に受験勉強のために一度保留にしたんだけど、合格発表の後でアタシがふられたんよ」

「そんなんけ。その辺のことは知らねん」

「ほんで、それっきりになったわ。俗に言う『自然消滅』ってヤツ」

 空を見つめて呟く紗代。

「ありがち」と沙織。

「まあ今回は、そんなヤツでも気になって、しょうがないから、懐かしの顔でも拝んでみるん」と軽い笑いでジョークを飛ばす紗代。


 頬杖ついてストローをくわえたまま沙織は、

「でも私がいると焼け木杭に火がついちゃうかもしんねん」と笑いを返す。恋愛再生ブローカーを自称する沙織だ。


「なんで?」と紗代。

「私、最近、結構なんだかんだで、キューピッド役になってしまうことが多いんさ」

「キューピッド?」

『おかしな事を言うんね』という顔で沙織を見る紗代。思い込みが激しいのだろうか、と疑いたくもなる会話だ。

「実はアニキの結婚をまとめたのも私なん」

「へえ」

「大学時代の成就しない片思い同士だった二人を結びつけたん」

「おお」

「だからもしかしたら、明日のクラス会、私のご縁ビームで紗代の彼氏とあんたが復縁したら、って少し思ったん」

 沙織自身は、そんなご縁ビームという能力というか運気というかが、そこそこあり得ると思っているようだ。

「だったら嬉しいけどね。もう男日照りで、何年も寂しい女なんだわ」と肩をすくめる彼女。

「言い方。別の言葉選びをしやせな」と生々しい紗代の言葉を小さく咎めた。



 積もる話もまだまだあるのだろうが、先に声をあげたのはこの二人ではなく、紗代のおなかだった。

『ぐー』という音が駅構内の土産品販売ブースに響く。慌てておなかを押さえる紗代。

「やっちまった。ごめん、朝抜きだったから、ご飯食べてないんさ、私」と顔を赤らめて言う紗代の言葉に、

「なに、そんなん。そしたら、近くのファミレスにでも入ってみっけ?」と沙織。

「うん、それはありがたい。悪いんね、付き合わせちゃって」

「いやいや。私も食べてないからちょうど良かったん」

 コーヒーの代金を払うと二人は揃って、駅のコンコースに戻り、そのまま駅を出た。

 駅前ロータリーのある側。ちょうど渡良瀬川わたらせがわとは反対側の出口だ。ロードサイドの店舗が並ぶ新市街方面に向かって二人は歩き始める。


 それからすぐのことだった。


 レストランまでの道すがら、二人はある飲食店の看板が気になった。

「アレ見て」と沙織。

『佐野ラーメン かぶとがに』

 おおよそラーメン屋の店名には相応しくない名前に二人は笑った。

「かぶとがに、だって」と笑う紗代。

「まっさか、ラーメンの出汁が甲蟹?」と紗代。

「そんなわけあっか。名字じゃねんけ?」と沙織。意味深に言葉を放つ。

「中学の時、いたねえ。甲蟹高次かぶとがにこうじってクラスメート」

 惚け顔でよそよそしく笑う紗代。

「いや、そりゃ、さっき話していた、あんたの元彼ださ。何を他人事のように。学園祭の時の彼のリードギター、上手だったんね」と沙織。


 紗代は中学高校とバンド少女だった。その紗代に影響を与えたのが甲蟹高次かぶとがにこうじだ。彼女らは世代ではないのだが、マンガの『マジンガーZ』の主人公の名前に似ているということで誰が名付けたか、彼のニックネームは「Zゼット」だった。


「入ってみようか?」

 二人の声は偶然重なった。思わず顔を見合わせて笑う沙織と紗代。さすがに本人が出てくるような偶然はあり得ないと踏んだ。


 勢いよく鳴り響いた扉の鳴子の音が、「カラン」と揺れると店内のホールには満員のお客さんが座っている。奥は佐野ラーメンのお店ではお馴染みの青竹棒が置かれた作業場だ。

 驚いたのは、ホール奥の壁に掛けられたレスポールのエレキギターだった。紗代の目は驚きでドングリ眼だ。そう、見覚えのあるギターなのだ。

「あのギター?」と思わず指さす紗代。

「どしたん?」

 紗代が引き寄せられるようにギターに向かって行ったので不思議に思った沙織。彼女の後ろを付いていく。


 紗代は確かめるように、その壁に掛けられたサンバースト仕上げのレスポールタイプのエレキギターをじっと見つめる。何かを確認している風だ。ギターにエプロンのように装着された白いピックガード。マジックインキで書かれた消えかかってる手書きの落書き文字を確かめる。

「これって……」と紗代。空腹なのも忘れて驚いている。

「なんなん?」と横並びになる沙織。

 紗代の後ろからついてきた沙織は、のぞき込むようにピックガードを見た。そこには相合い傘の悪戯書きが微かに見える。すでに劣化して消えかかってはいるが、かろうじて読み取れる程度だ。


『紗代・高次』と書かれている悪戯書きの相合い傘だ。

「あっ」と驚く沙織。

「あんたと彼の名前? こんなところに? また、なんなん?」

 沙織は意味が分からず、思ったことを口に出す。

「これ私が高校時代に書いたヤツ」

 見覚えある落書きに紗代は呟いた。

 ふたたび沙織と紗代は顔を見合わせる。今度は笑顔ではない。この店に関係する人物の正体を認識したのだ。そう確信したのだ。

 恐る恐るゆっくりと、体を「右向け右」にする二人。厨房のある方向だ。


 そこには頭にバンダナ、胸元には『ラーメン一食線』という黒のTシャツを着た見覚えのある顔が二人に腕組みをしながら笑い顔を向けていた。

「おおっ」

 思わず仰け反る紗代と沙織。

「いらっしゃい。石鯛と和歌女じゃねえん。久しぶりださ」と言って十代の時と変わらぬ無敵の笑顔を二人に向ける男性がいる。なんなら日焼けした顔に真っ白い歯がきらりと光った気もする。爽やか自然児系好青年と言ったところだろうか。

 中学時代の同級生、甲蟹高次かぶとがにこうじである。


「ゼット!」と二人同時にそのニックネームを発し彼を指さす。

「懐かしいね、その呼び名」

「なに、あんたの店なん? ここ」と紗代。

「まさか、アニキとオヤジが一緒にやっていて、オレは手伝い。まあ、内装はオレのこだわりなんだわ」と言う。

 彼が目配せをする奥には、チャーシューを切っている彼の兄の姿が確認できる。

 もともと甲蟹家は不動産や賃貸物件の管理をしていた家だ。平たく言えば多くの賃貸物件を持つ大家さん業の家である。沙織の家ともそういった意味では、地元の名士さんと言うことで顔なじみの家だ。


「じゃあ、あんた何やってんの? 今」と紗代。

通四丁目とおりよんちょうめでライブハウスを経営してるん。赤い歩道橋の横ぐらいな」と言う。

「織姫さんの石段下あたりじゃねん?」と紗代。

「そう」

「そんなん、ちょとも知らんかったがね」と沙織。

 高次は沙織の方を見て残念そうに、

「石鯛のお兄さんはよく聴きに来てくれているよ、うちのライブハウス。知んねかったん?」と当たり前のように言う。

 沙織は「アニキからそんな話聞いたこともないわ」と驚く。

「そっけ、うちのチャージ料金に付属のワン・ドリンクの選択肢の中には石鯛酒造の作る地元ビールも選べるンよ。今度来らせな」と中学時代と変わらない口調で説明する高次。足利を出ていないせいか、高次の足利弁が二人にはひどく訛っているように聞こえた。そして二人は自分たちがこの町を出てから随分と時間が過ぎていることも同時に再確認させられた。


「私たちが地元を離れた間も、足利の街では時間は流れているんね」と紗代。

「まっさか、ゼットが地元で社会人になっているとは、驚きじゃねん」

 沙織の言葉に、

「ばあか。オレなんかよりそっちだわ。石鯛なんて年の離れた旦那さんが出来るってお兄さんから聞いてるんさ。鮭野さんて言うらしいんね。そっちのほうが驚かされたわ。中学時代の美少女ナンバーワンだったからなあ、石鯛はさ。オレの知る男友達はみんな石鯛に振られた、って泣いていたよ。さらにおじさんに取られたって聞いたら大号泣だわ」と笑って返す高次。

 沙織は俯いて恥ずかしそうにしている。

『バカアニキ。おしゃべり』


 高次はそのまま席に座ることを促す。そして二人はカウンターに座って購入した食券を高次に差し出した。

「あい、ラーメン二丁ね」

 そういって、彼は麺の玉を茹で笊に落とした。


 その日の夕方、織姫さんにお参りをした後、二人は揃って高次に教えてもらったライブハウスへと足を運んだ。一旦、実家に荷物をおいて、ふたたび町中で集合の二人だ。この近所には有名な最中を売る和菓子屋がある。ミニチュアの織姫神社本殿も飾られている。

 昔、昭和から平成あたりまでは、このあたりが足利の中心地だった。徒歩圏内には百貨店なども数件あり、活気づいていた時代もあった。だが今は観光客が絹織物の会館や名所史跡と寺社仏閣の訪問のために通るような場所に様変わりしている。人の通りはあるのだが目的が当時とは違うようだ。

 現地人、買い物客は渡良瀬川を挟んで向こう岸の国道沿いにあるロードサイドのモールに行く。今はあちらが新市街である。


 その旧市街の表通り沿い、甲蟹家が管理する雑居ビルがある。そのビルの一角に地下へと降りる階段があり、二人は『ライブハウス009』という看板を確かめて地下階へと降りた。ラーメンを食べた後、楽器の練習をしているから遊びに来ると良い、と言うわけでやって来た二人だ。午後の忙しいひとときをラーメン屋で終わらせた高次が、次に晩からの仕事場の開店準備をする時間だった。


「009って、サイボーグかよ」と軽いツッコミを入れながら細い階段を降りる沙織。

「そう言えば、あいつ音楽以外だと、昔のマンガや特撮のヒーロー好きだったな」と紗代が返す。


 階段の先にある重壮な防音扉を二人で開けると、そこはまぎれもなくライブハウスだった。

 中央にステージ、その前に二十人分ほどの椅子が並んだ客席がある。そこに眩しく、熱気を感じるほどのスポットライトが焚かれており、誰もいないステージに置かれた一本のギターを照らしていた。


 もぎりの窓口を兼ねたバー・カウンターが入口脇にある。

 照明機器とPA機器のブースがあり、並ぶようにカクテルを作るカウンターとシンクが設置されていた。チャージ料金の値段表とカクテル・メニューもそこに貼られている。


「いらっしゃい」と待ちくたびれた様子で、高次はカウンターの中で微笑む。さっきとは違う服装、カジュアルスーツに細身のネクタイでお洒落なスタッフへと早変わりである。

「なーに、本当だったん? ライブハウスの経営」と紗代。

「おらんた、昔っからチクラッポは言わねんよ」と笑って、彼はバー・カウンターから出てきた。

「チクラッポ、久々に聞いたわ。今や老人でも使わない言葉だべ」と紗代。

「ほっけ? おらんた、今でも普通に使うけどな」と臆する様子もなく笑う高次。もう言葉遣いは同級生だった昔に戻っている。

「チクラッポ吹きは、嘘つきのことだわね。忘れてた」と笑う沙織。

「そりゃ、東京にいたら使わねえさねえ。でも和むんね、方言」と紗代が加える。


 高次は、ステージのギタースタンドに置いてあったブルーのストラトキャスターを持ちあげて、ストラップを頭で通す。

「おお、なに、弾いてくれるン」と沙織。

「いいよ、やってみんべや」

 そう言って、ヴォリュームとトーンを調整し始める。そしてチューニングの確認。調整が済むと足下のエフェクターを踏んで、空間系の音を選択した。コーラスとディレイというエフェクターだ。伸びやかな美しい音がする。エレキお得意のひずんだ音ではない清音だ。


 高次はピックを片手に弦をはじく。紗代には聞き慣れたリードギターのフレーズがギターアンプから聞こえる。スローパラードの曲だ。

 客席に座ると、紗代は静かに目を閉じて聴き入っている。

「エリック・クラプトン、『ワンダフル・トゥナイト』だで」とイントロの旋律を演奏しながら高次が言う。

「はっ」

 沙織は昔よく兄の縞五郎しまごろうが聞いていたCDを思い出した。洋楽通の兄はこういう昔のブリティッシュ・ロックを受験勉強の合間に楽しんでいた。

「そっか、こういうのを聴きたくてアニキ、ここに通っているのか。忘れられない青春賛歌って感じ」

 沙織は一人合点がいった。


 曲が終わると、紗代は彼に拍手を送る。

「ありがとう」と高次。

「あの頃と変わらずにこの曲弾くんね」と紗代。

「お前と一緒に練習した曲だかんね」

「そうだったんねえ」

「お前、なんで連絡もよこさずにオレの前から消えたん?」

「受験勉強が忙しかったから。言ったんべ、受験の間は逢えねえからって」

「そうじゃねえべ」

 言い出しかけた紗代の言い分けを途中で打ち消す高次。

 紗代は思い当たる節があるようで顔色が変わる。


乃梨子のりこのこと、勘違いしたんだんべ」

「知っていたんけ?」

「当たり前だべ。見えてたさ、交差点の向こうで引き返すお前の姿が……」

「合格発表の日にアンタんちに行ったんさ。しったけ、家の前で乃梨子がアンタの胸で泣き崩れているのが見えたん」

「紗代と同じ大学受けたんだってナ」

「うん」

「で、紗代だけ受かったんだ、って言って泣き崩れてたわ。あれ、乃梨子の家は、当時、うちの隣だったから。あの頃の彼女の自宅が」

「うん」

「でも、オレもあの当時『なんで、乃梨子がオレんちに来て、オレの胸で泣き崩れたん?』って思ったわ」

「えっ?」

 おとぼけのような高次の台詞に、

「あんたら付き合っていたんじゃないんけ?」と眉間にしわを寄せる紗代。

 すると大きく手を扇ぐように「まっさか、そんなわけあっけな」と困った顔の高次。

「ちがうん? アタシから乗り換えたんじゃねんけ?」

「お前がいるのにか? オレそんなに器用じゃねえかんね」

 肩をすくめ、頭を抱える高次。

「アタシ、それで素直に自分から身を引こうと思ったんよ」

「なんだ、それ?」と馬鹿馬鹿しいという顔つきの高次。

「アタシの勘違いだったん?」

 しおらしくも渋い顔の紗代。

 沈黙の後、「お前って本当に慌てもんだな。デレスケだわ。やっと意味が分かって、辻褄があったわ」と高次。「あんぽんたん」の栃木弁、その言葉、デレスケが身に浸みた紗代だった。


 街道沿い、旧五十号と呼ぶ中央通り。高次の家はここの街道沿いの蔵のある商家屋敷、結構大きなお屋敷だ。

 合格発表通知を握りしめながら、受験期というトンネルを抜けきった紗代は、一目散で高次の家に報告に向かっていた。高次は既に推薦試験でお隣の県の国立大学に合格していたのだ。

 織姫神社の交差点を曲がった角からちょうど、彼の家が見える。

 その交差点に差し掛かった時に紗代の足はぴたっと止まった。

 セーラー服姿の女の子が高次の家の前の歩道で、Tシャツ姿の高次に抱きしめられていた。春まだ早い頃、明け方の朝陽がようやく町並みの屋根より高くなった時刻だ。

「なに?」

 紗代の心はどん底に落ちた。大学に合格した喜びから一転、失恋の痛手に苛まれる寂しい春へと変化したのだ。


 それから紗代はなにも考えられなかった。でも彼の電話番号や連絡簿データを消して、ブロックに着拒と足早に歩きながらも電話の設定に余念はなかった。無意識のうちに全ての手段、連絡を絶ち切ったのだ。

 合格したのに敗北感は拭えない紗代。今まで味わったことのない苦い経験だった。そのまま玄関を開けて、親の呼ぶ声も無視し自分の部屋に閉じこもり夕方まで涙を流したままベッドで毛布を被っていた。


 紗代の家の近くには伊勢神社がある。JR足利駅の近所だ。和歌女の家は代々呉服問屋を営んでいた町中の名家だ。かつて絹織物の足利織が全盛の時代には多くの業者が訪れた問屋である。その頃は大谷石の蔵の中には反物が豊富にあったという。

 もちろん、今は足利織よりも輸入の雑貨や衣類を大手小売りに卸しているので、足利織の占める割合などたかが知れている。


 その日、高次の一件で傷ついた心のまま紗代は引きこもっていた。

「紗代、何してるン。合格のお礼参り、お伊勢さんにもしてらせ」

 部屋のドアをノックしてから声をかける母親。信心深い母の言葉に、「うん」と朧気おぼろげな返事で紗代は仕方なく、ふたたび外出。西日になりかけの頃、神社さんに向かった。その見上げた空に三日月が綺麗に輝いている。

 この神社さんは別名足利伊勢宮あしかがいせのみやと言い、月読つきよみさんなどもお祀りされているので、本殿の他の摂社にもお参りするのが紗代の家の習慣だった。三重の伊勢神宮と同じく、足利の近所の神社でも内宮や外宮をお参りして、順に月読さまもお参りした紗代。


 その帰り道だった。同じ高校の二年先輩の社地一恵しゃちかずえからの連絡が入った。歩きながら電話を取る。

「合格したね。おめでとう!」

 一恵の第一声に、紗代は「ありがとうございます」と心身ぼろぼろで繕うのがやっとである。

「わたしと同じ高校で、同じ大学だ。キャンパスも一緒」

「はい」

「実はさ、ひとつ提案があって連絡しました」と先輩の一恵。

「なんですか?」

「私、就活で今のバイトをやめるのよ」

「はい?」

「四月から欠員補充でね、ギター担当の販売員が欲しくてさ。軽音部の後輩ってことで、よかったらさ、私の後釜で和歌女さんに入って欲しいんだよね、林平楽器のお茶の水店」

「楽器屋さんのバイトですか?」

「うん。もと部活の後輩だし、私も自信を持って紹介できるからさ」

「学業にも配慮してくれる良い勤め先なんで、お願いできないかな?」

「私で良いんですか?」

「あなたが良いのよ」と笑い声が電話の中で反響する。

「わかりました。三月末にはそっちに転居するのでその時が近くなったら詳細をまた教えて下さい」

「やった。和歌女さん、恩にきるね」

 一恵の声は大きく弾んでいた。何度も礼を言って電話を終えた。


 電話を切ると「捨てる神あれば、拾う神あり、って感じかな?」と紗代。一恵の懐かしい声を聞けたのもあるのだろうが、なんとか失恋の痛手は半減できたようだった。この時は、まさかこの会社に、大学卒業後、そのまま就職するとは思いもよらなかったのだが。


 さて話は戻りクラス会前日。ライブハウスの空間に佇む紗代。どうやらあの時の一部始終を思い出した彼女。

 乃梨子の抱きつき事件。着拒とブロック。そのまま転居。走馬燈のように彼女の脳裏にあるスクリーンに過去回想が映し出される。まるで時代を時系列に眺めるタイムスケールのように。

「あっ」と紗代。

「なに?」

 歌い終えた高次は、首を傾け、不可思議な顔で佇む。

「私が勝手に全部行動して、あんたに何も言わずに上京したんだった。今理解した」と頷く紗代。

「いまさら?」と高次。

「本当、遅すぎだわ」と笑う紗代。

「笑い事じゃねかんべ」

 ギターぶら下げたまま渋い顔の高次。

「まあ、誤解とはいえ、アンタが私をまだ必要としていたらいつでも言って。今の私、ひとりモンであんたひとりぐらい愛するだけの余裕はあるから」となかなかのドラマのような言葉で笑いかけた。

「七年前からずっと必要だよ」と言う高次。そして静かに誰もいないステージ上で彼女を抱きしめた。

 三日月の夜にギターが引き合わせたようなこの復縁。さて沙織が引き寄せた運気なのかは、お月様に訊いてみないと分からないところだ。そんなくすぐったい思いで、沙織はそっと席を立つ。


「紗代、明日のクラス会は現地集合でね。ここにいても当てられて、私がお熱いのを回避出来ねんで、帰ってみっかんね。今夜は家でアニキにCD借りて、エリック・クラプトンでも聴くことにするから」

 そう言うと沙織は、手を振って、高次と紗代を残してライブハウスを出た。


 そして「ああ、これってまた仲を取り持っちゃった、ってことよね。ダーリンに報告」と笑う。彼はきっと微笑んで、「その話、後日角打ちでゆっくり聞くね」と優しく言ってくれるだろう。

「あはは。当てられて、自分も恋しいモードなのかな?」と独りごちる沙織。

 そう言うと彼女はスマホを取り出す。そして『鮭野』と書かれた電話帳の受話器マークのボタンをタップした。


                了

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