第16話 親愛
「日菜ちゃん!」
「あ、えっと……」
学校の構内を一人で歩いていたら、わたしに人懐っこく声をかけてきてくれたのは、同じ学部で、サークルも一緒の女の子。
「ナナだってば。早く覚えてよ」
「そうだ。ナナちゃんだよね、ごめん」
大学に入ってからは一人暮らしを始め、少しずつだけれど、わたしにも友達ができた。お父さんの計らいで、わたしは戸籍上、お母さん方の伯母の養子となり、経済面はお父さんに面倒を見てもらっている。
「まあ、いいけどね。日菜ちゃんなんて、海老名くんしか見てないもんね、どうせ」
「えっ?」
飲んでいた、ペットボトルのミルクティーを噴き出しそうになった。
「たしか、高校も同じだったんでしょ? 海老名くんが歌ってるときなんて、もう海老名くんしか目に入りませんって感じ。有名だよ」
「…………!」
周りから、そんなふうに見られていたなんて。
「ナナちゃん、違うんだってば。だから、海老名くんは、そういうんじゃなくってね」
誤解のないように、ちゃんと説明しようとしたのに。
「あ、ほら。早速」
「え……?」
ナナちゃんのおかしそうな口調に戸惑いながら、振り返ってみると。
「宮前さん」
わたしの後ろに、機嫌悪そうに立っていたのは、当の海老名くん。
「4限終わったら、学食の前って。朝、約束しなかった?」
「あ……そうだった!」
時計を見て、驚いた。
「ごめん。わたし、4限が休講で……」
「全然、理由になってないんだけど」
海老名くんはというと、相変わらず気分屋で、何をするのにもおっくうそうで。でも、それが、最近は逆に安心できてしまう。
「日菜ちゃん、意外と抜けてるよね。海老名くんも大変だ」
「ナナちゃんってば」
まるで、わたしと海老名くんがつき合っているみたいな言い方。
「いいから。時間」
「あ、うん」
あわてて、ペットボトルをバッグにしまう。また、嫌みを言われちゃう。
「練習見に行くの? じゃあね」
「またね、ナナちゃん。本当に、そういうんじゃないから」
ひやかすような視線のナナちゃんに、手を振ると。
「待って、海老名くん」
先を急ぐ海老名くんを追いかける。
「あ。ねえねえ」
そんな海老名くんも、慣れたもの。
「昨日の山口くんのバンド、よかったね」
イロイッカイズツのドラムだった山口くんも大学のサークルで新しいバンドを始めたと聞いて、海老名くんと聴きに行ってみたら、以前のイロイッカイズツみたいに、なかなかの人気ぶりだった。
「え? そう?」
露骨に顔をしかめる、海老名くん。
「うん。特に、歌ってた人が」
海老名くんといい、歌う人には、何か人を引きつけるものがあると思う。
「あいつ、知ってる。ルイとかいうの。昔、しょうもないピストルズのコピーバンドやってたよ」
「えっ? ピ、ス……?」
「何でもない」
大げさなくらい、ため息をつかれた。
「音楽のことなんて、全然わかってないからね、宮前さんは。あ、音楽だけじゃないか」
「嫌な感じ」
イラついた態度を、わたしに取ってばかり。でも、海老名くんには、心の中で、言いつくせないほどの感謝の気持ちを抱いている。
「言ってやれば? 見てるのは俺じゃなくて、俺が持ってるギターの方だって」
「やだ……! さっきの、聞いてたの?」
数分前の那奈ちゃんとの会話を思い出して、口に手を当てた。
「みんなが、カン違いしてるみたい。わたしと海老名くんのこと」
「ふうん」
つまらなそうに相づちを打つ、海老名くん。こういう、わたしへのどうでもよさそうな態度を見る限り、いい迷惑くらいに思っているんだろうな。
……でも、転校したあと、海老名くんの方から連絡をくれたときは、びっくりした。心細い時期だったから、うれしかったっけ。
「蒼太のお母さんは、最近どうなの?」
「……変わらない、かな。まだ、施設で療養中」
「そう」
気にかかるのは蒼ちゃんの方で、わたしのことはどうでもいいなんて、憎まれ口を叩きながらも、長い休みしか病院に通えなかったわたしのために、海老名くんは、蒼ちゃんのようすをちょくちょく報告してくれていた。
答えは、いつも決まって『よく寝てたよ』だったけれど、数回おきに、そのあとに続けられた。
『宮前さんの夢でも見てるんじゃない?』
そんなふうに。
「今日も行くんでしょ? このあと、蒼太のところ」
「うん」
だから、海老名くんと同じ大学に通うことになったと知ったときは、素直にうれしかった。そして、わたしは、蒼ちゃんに借りたままだったというギターを弾いて歌う海老名くんを見るのが、楽しみになっていた。
「いいかげん、起きればいいのに。もう、眠り疲れただろうにね」
「ね」
このやり取りも、わたしと海老名くんの間で、何度繰り返されただろう? まるで、蒼ちゃんが昼寝でもしているかのように。でも、わたしと同じ気持ちで、蒼ちゃんが目を開ける日を一緒に待ってくれているのが、ちゃんとわかるの。
「わたしも手伝う」
「じゃあ、ドラムセットでも運んでよ」
「うん」
いつかのオーディションを前に空中分解してしまった、イロイッカイズツ。海老名くんと山口くんが、二人編成でオーディションに挑んでみたものの、結果は散々だったらしい。でも、音楽もバンドも好きなんだと、海老名くんは言う。
「あ、宮前さん。また聴きに来てくれたの? ごめんね、いつも手伝わせて」
「ううん、大丈夫。わたしの方こそ、お邪魔させてもらって」
海老名くんとバンドをやっている、同学年のいつも感じのよい男の子に声をかけられた。その後、イロイッカイズツは何回かメンバーを変えながら、ライブもやるようになり、来てくれる人も少しずつ増えてきた。
「今日は、海老名さんが作った新曲もやるんですけど、いいですよ。すごく」
なんと、今年からベースを弾いているのは、元々は海老名くんのファンだった、女の子にも人気のありそうな高校生の男の子で、わたしにも懐いてくれている。
「そうなの? 楽しみ」
海老名くんが自分で作った曲を聴くのは、高校のとき以来だ。 少し背伸びしていたような……今にして思うと、蒼ちゃんの曲調を意識していたのかもしれない。
「準備できたけど」
にらむように、海老名くんがこっちを見ている。
「あ、今行く」
あわてて、楽器に向かう男の子たち。かつて、イロイッカイズツで、蒼ちゃんもこんなふうに練習していたのかな……。
そんなことを考えているうちに、海老名くんがマイクの前に立っていた。いつかの音楽室のときのように、ほんの少しだけ、わたしは緊張する。
ギターから静かに始まる、海老名くんの歌い出した曲は、シンプルだけれど、ギュッと胸をつかまれたようになる印象的なメロディー。これが、海老名くんの作った曲なんだね。歌っている海老名くんの表情からも、なんとなくわかる。
曲調自体が似ているわけではないけれど、記憶の中のイロイッカイズツを思い出した。心が動かされる。
「いい感じじゃん」
「次のライブで、やりましょうよ」
満足げな他のメンバーの反応に、わたしまでうれしくなる。ほっとしたような、そんな感情もあった。
海老名くんに、涙ぐんでいるのを見られるのが恥ずかしくもあって、気づかれないように病院へ向かおうと、教室の後ろの扉から、こっそりと廊下へ出ると。
「宮前さん」
わたしを追いかけてきた、海老名くんに呼ばれた。
「あ、えっと……」
あわてて、涙をぬぐう。
「すごくよかったよ、海老名くん」
自分でもよくわからないけれど、あんな曲を作ってくれて、そして、あんなふうに歌ってくれて、ありがとう。そんな奇妙な気持ちだった。
「あの……」
自分から追いかけてきたのに、黙っているから。
「もしかして、好きな人でもできた?」
よけいなことだとわかりつつ、口から出てきてしまった。
「え?」
「ハスネさん、とか」
「……どういうこと?」
思いきり、海老名くんが眉を寄せている。
「ごめん、何でもないの。戻って、練習」
本当に、よけいなこと以外の何ものでもなかった。わたしも病院の方に急ごうと、海老名くんに背中を向けたんだけれど。
「だったら、何?」
「え……?」
海老名くんの声に、もう一度足を止めた。
「俺に好きな女がいたら、何?」
「何って……」
軽くためらってから、打ち明けてみようと決めた。
「昔、海老名くんが、わたしに近づいたのは」
「え? うん」
意外そうに、相づちを打たれる。
「わたしを傷つけたかったからなんでしょ? わたしが蒼ちゃんの妹だと思って」
「何? それ」
動揺したり、困惑している様子はなく、ただ純粋に不思議そうに反応した、海老名くん。
「海老名くんがハスネさんと話してたの、聞いちゃったの。海老名くん、否定してなかった」
「そんなの」
迷惑そうに、海老名くんが口を開く。
「いちいち、否定するのがバカバカしかったんだよ。きっと」
「そう……なの?」
過去のこととして、気にしないようにはしていたものの、長年の思い込みがあっさりとひっくり返されたことに、驚いた。
「で、さっきのとその話、どうつながんの?」
「あ、それで……」
なんだか、すっかり気が抜けてしまったけれど。
「さっきの曲を聴いて、思ったの。海老名くんもいろいろと吹っ切れて、普通に女の子を好きになったりできるようになったのかなあとか」
「人のこと、欠陥人間みたいに」
ふくてされた表情で、海老名くんがつぶやく。
「それぐらい、いい曲だったんだもん」
どう考えても、高校のときの海老名くんは、実際に危うく映ったし。でも、海老名くんなりに悩んだりもしながら、虚勢を張らずにはいられなかったのかもしれない……なんて、今は思う。
「……ああ、でも」
「でも?」
ふっと我に返って、海老名くんを見た。
「宮前さんが蒼太と全く関わりがなかったら、近づかなかったのは本当。蒼太の好きな女だから、最初は興味を持った」
「え……?」
そこで、わたしは目を見張る。
「蒼ちゃんの好きな……? どうして?」
蒼ちゃんが、海老名くんに気持ちを打ち明けていたとは考えられない。
「すぐわかったよ、それくらい」
おかしそうに、海老名くんが笑う。
「俺は、蒼太の作った曲、ずっと歌ってたんだもん」
「…………」
決して、他の人に目を向けたいわけじゃない。
だけど、きっと目覚めることのない蒼ちゃんを待ち続けることは、想像以上につらくて、何度か逃げ出してしまいそうになったこともある。それでも、そのたびに、こうして呼び戻されるの。そして、何度でも思い知らされる。
この先、わたしは蒼ちゃん以外の人を好きになることはない。
「はい。中に、いいものが入ってるよ」
「何……?」
気がつくと、海老名くんに以前預けた、わたしの使わなくなった iPod を手に握らされていた。
「本当は、もっと前に聴かせてあげたかったけど」
「もしかして……」
画面を操作して、中身を確認すると、“イロイッカイズツ(demo)” という文字が、左から右に流れていった。
「蒼太が最初に全部一人で
「うん」
何度も何度も、うなずく。
「そんなの聴いたら、一生蒼太から離れられなくなると思ってさ。俺の存在意義も無くなりかねないし。でも、どのみち、宮前さんには蒼太しかいないもんね」
「海老名くん……」
いたずらっぽく笑う、海老名くんを見上げた。
「そうだ。面会時間、過ぎちゃうよ」
腕時計に目をやる、海老名くん。
「そうだね。これ、ありがとう」
さっきの iPod を一度しまおうと、バッグを開いた。と、そのとき。
「いたよ。好きな子」
不意に、海老名くんが言葉を発した。
「ひっつめ眼鏡」
「え……?」
反射的に、髪と目元に手をやった。めったに結わくことのなくなった髪と、すっかり慣れたコンタクト。
「もう、いなくなっちゃったからね。そろそろ、他の女でも探そうかな」
「えっと、それは……」
「何? その顔」
「ううん」
本当は、泣きそうになったけれど。
「わたしも、変わった人を好きになったことがあるよ」
「ふうん。どんな?」
「あのね、気まぐれなんだけど、優しいところもあって」
「それで?」
「めちゃくちゃ、お酒が弱い人」
「え?」
不服そうに、一度顔をしかめてから。
「行きなよ、もう。蒼太が待ってる」
ふっと笑った、海老名くん
「そうだね」
待っててね、蒼ちゃん。わたしは、今日も蒼ちゃんの元へと急ぐ。
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