第15話 離苦
「水、持ってこようか?」
「……ううん」
殺風景な部屋のベッドの中で、蒼ちゃんにしがみついたまま、答える。
「朝まで、このままでいたい」
わたしの体に触れる蒼ちゃんの肌は、すごく滑らかで。やっぱり、夢みたいと思った。
「うん」
少しだけ、キュッと腕の力を強められた。
刻一刻と近づいてくる、別れのとき。蒼ちゃんには、もう会えない。でも、永遠に会わないと決めたからこそ、わたしと蒼ちゃんは、たった一度だけでも、こうして結ばれることができた。
「蒼ちゃん」
蒼ちゃんの声を耳に焼きつけておきたくて、名前を呼んでみると。
「…………」
「蒼ちゃん?」
天井を見ながら、蒼ちゃんは真剣な表情で、何かを考えているようだった。やがて。
「日菜」
蒼ちゃんが、重い口を開いた。
「やっぱり、きっちりした鑑定を受けよう。一度は」
「DNA鑑定……?」
もちろん、禁忌を犯したという罪の意識は、ある。でも、はっきりと兄妹だと突きつけられるのは怖かった。
「これで、終わりになんかしたくない。いや、するつもりはない」血のつながりのない他人として出会っていたら、これほどうれしい言葉はないはずなのに。
「今以上に、苦しくなるかもしれないよ」
「たしかに、日菜は父さんに似てる。でも」
強い口調で、蒼ちゃんが続ける。
「理屈じゃないんだ。どうしても、俺は日菜を妹だとは思えない」
「それは……」
わたしだって、同じ。蒼ちゃんの大きな手を強く握って、答えに代えた。そう、理屈ではない、何か。蒼ちゃんがわたしのお兄ちゃんだという意識が、まるで持てない。それは、期待とか、希望とか、そういった話ではなく。
「父さんとか母さんのことは、どうでもいいんだ。とにかく、俺と日菜の関係をはっきりさせたい。いつかの母さんの態度も、ずっと心の奥に引っかかってるし」
「いつかの……?」
わたしには、思い当たることがない。
「いつだったか、夕食中に言い争いになったことがあっただろ? こんな話題で。その流れで、俺も誰の子供かわからないって言ったとき……」
と、そのとき。
「どうしたの?」
不意に話を止めた蒼ちゃんが、不思議だった。
「今、ドアの前で、何か音がしなかったか?」
「ドアの前……?」
言い知れない胸騒ぎを覚えながら、ドアの方に目をやる。
「わからない」
蒼ちゃんに視線を戻して、答えた。
「わたしには、何も聞こえなかった」
「……服着ろ、日菜」
「うん」
床に散らばっていた服を素早く拾い上げてくれる、蒼ちゃん。
「また、近づいてくる」
ほんの
「え……?」
ようやく、わたしが服に袖を通し終えたときだった。
わたしと蒼ちゃんが凝視する中、ドアノブがゆっくりと回って、鈍い音と共に、ドアが少しずつ開いていく。
「…………!」
「何をしてたの? あなたたち」
お母さんだった。この暗がりで、はっきりとは見えなくてもわかる。寒気のするような、すごい形相。
「お母さ……」
「お母さんなんて、呼ばないでちょうだい」
「それ……」
今、たしかに見えた。お母さんの右手に握られているのは、キッチンにあるはずの調理用の大きな出刃包丁。
「甲府に行ったはずじゃなかったのか? いったい、何を考えてるんだよ?」
同じく、お母さんの手元に気づいたようすの蒼ちゃんが、目を見張っていた。
「こっちが聞きたいわ」
ずっと、一点。お母さんは、ドアが開いたときから、わたしの目だけを見ている。
「花音ちゃんが、泣きながら電話してきたのよ。蒼太のために、わたしが頼んであげたのに。あなたがたぶらかしたのね、日菜」
「い、え……」
お母さんの目がおかしい。明らかに宿っている、狂気の光。
「思ったとおり、汚らしい母と子。汚い声を上げて、あの人だけでなく、蒼太まで
お母さんは、ずっと部屋の前にいたんだ。わたしと蒼ちゃんが夢中で抱き合っていた間、気配を殺して、わたしたちのようすを
「どっちが汚いんだよ?」
蒼ちゃんは見抜けていなかった。
「三浦を使って、監視させるような真似しようとして。それがだめなら、自分かよ? 今だって、そこにいたんだろ? やってること、異常だろ?」
そう言いながらも、普通でない状態のお母さんがどこまで追い詰められていたか、まっすぐに育った奏ちゃんには、わかるはずがなくて —————— 。
「蒼太は」
距離にしてみたら、数メートルもない。
「あんただけには、絶対に渡さない」
「あ……」
わたしの胸。そう、心臓を目がけて迫ってくる、悪夢のようなお母さんの動きが、鮮烈なスローモーションの映像のように、ゆっくりと脳裏に焼きつけられる。
その間、あまりに非現実的すぎる光景に、わたしは逃げることも
「日菜!」
我に返ったのは、大好きな蒼ちゃんの声と共に、床に突き飛ばされた衝撃。そして。
「蒼太……?」
わたしの頭上で、体と声を震わせながら、立ちつくしているお母さん。確かめるように、視線を横に移した。
「蒼……ちゃん?」
「日、菜……」
脇腹を押さえて、苦しそうに
「蒼ちゃん!」
抱きかかえようとしたら、生温かい血が、とめどなく流れ出る感触。
「蒼太……! 蒼太、蒼太」
わたしを押しのけて、お母さんが蒼ちゃんを揺する。
「日……」
蒼ちゃんの声が途切れ途切れになり、意識が遠のいていくのがわかった。
「蒼ちゃん? 蒼ちゃん、大丈夫だから」
時間がない。
「そっと……揺すったりしないで、少しでも出血させないように、押さえてください……!」
動揺する中、するべきことを考えて、リビングの電話で救急車を呼ぶために、すがるように手すりにつかまりながら、階段を下りていく。
「はい……脇腹からの出血が、ひどい状態で……そうです、住所が……」
なかなか、正確に聞き取ってもらえなくて、何度も言い直し、やっと番地まで言い切った頃。
「蒼太!」
一際大きな、お母さんの声が家中に響き渡った。
「蒼ちゃ……」
ひたすら、玄関の前で救急車の到着を待ちながら、蒼ちゃんの無事を祈る。思い出の中の蒼ちゃんと、つい数分前の蒼ちゃんが重なった。
ぼ く が ひ な を 守 っ て あ げ る
「お父さん」
すぐに駆けつけてくれ、先生と話し終えたようすのお父さんを呼んだ。
「日菜か」
重いため息をついて、お父さんが廊下の固いソファにかける。
「疲れただろう。日菜も座りなさい」
「はい」
言われたとおりに、まずは腰を下ろした。そして。
「蒼ちゃんは……」
祈るような気持ちで、お父さんの方を見ると。
「命に別状はないようだ」
「命に別状は、ない……」
お父さんの言葉を、何度も慎重に反芻した。
「そう……ですか」
一気に緩んでいく心。よかった。本当に、よかった。世界に存在する全てのものに、感謝したい気持ちだった。
「いつぐらいから、会えるようになりますか?」
「うん。集中治療室も数日で出れるらしい。そうしたら、いつでも会いにきてやりなさい」
「はい」
一度は止まった涙が、再び頬を伝う。あわてて、ハンカチを取り出そうと、バッグを手繰りよせたときだった。
「ただ」
「ただ……?」
横に座っている、お父さんの顔を見上げた。
「出血のショックで、意識が戻るまでに時間がかかるかもしれないと言われた」
数時間前、わたしの部屋の中で、おびただしい量の鮮やかな血が、体から噴き出すように流れていた蒼ちゃんが、再び脳裏に浮かぶ。
「まあ、よくある話だそうだ。気長に回復を待とう」
「は……い」
大丈夫。蒼ちゃんなら、きっと。なぜか、根拠のない自信があった。
「あの……お母さんは?」
「今は、鎮静剤で眠ってるところだ。落ち着いたら、事情聴取だな」
「そう……ですよね」
事態は重い。お父さんは、お母さんから全て聞いたのだろうか?
「本当なのか?」
うかがうように、お父さんがわたしを見た。
「え……?」
「おまえと蒼太が、寝ていたという話は」
「それ、は……」
うつむいて、ハンカチを握りしめる。
「兄妹として、おまえたちを育てていたつもりだったんだが……」
「あの……!」
どのみち、鑑定を受けようと言っていた、蒼ちゃん。お父さんなら、わたしのお母さんや、わたしのことも全てわかっているはずだし、きっと今なら、真実を教えてもらえる。
「教えてください」
「何だ?」
先を促す、お父さんの目元は、改めて自分を見ているようだ。でも。
「わたし……わたしは、お父さんの、本当の子供なんですか?」
一語一句、自分で確かめるようにしながら、質問を発した。
「そうだ」
あっけないほど、答えは簡単に出るものだった。
「おまえは、俺と直美の子だ。調べるまでもない」
「そう……です、か」
お父さんの言葉が、わたしの体中を駆けめぐる。
「さすがに、おまえも蒼太も、とっくに気づいていただろう。いつまでも頑なに認めたがらなかったのは、多香子だけだ」
「……はい」
そう。本当は、わたしも蒼ちゃんも、とっくにわかっていたこと。聞かなければ、よかった。そんな意味のないことを、子供みたいに思う。
「だがな」
「はい」
他のことは、もはやどうでもよかった。でも、次の瞬間、わたしの耳に入ってきたのは、想像だにできない事情だった。
「蒼太は、俺の子供じゃない」
「え……?」
何の冗談なのだろうと、お父さんの顔を凝視した。
「俺が知ってるとは、多香子は夢にも思ってないだろうけどな」
「どういうことなんですか?」
こんなときに、不謹慎かもしれない。蒼ちゃんの気持ちのことだって、ある。でも、体は正直で、今すぐに叫びたいほどの喜びで震えている。
「俺も小さい頃は苦労してたんだ、これでもな。中学のときに両親を亡くして、養父母に育てられた。多香子との結婚も、言われるがままの見合い結婚だった」
こんなことがなければ、知る機会のなかった話。
「本当に好きだった直美との結婚は、叶わなかった。多香子も直美の存在は知っていて、自分も他の男と関係を持つことで、折り合いをつけていたんだろう。わかるものだよ、言葉では言い表せない感覚で。蒼太が自分の子ではないことは、ずいぶん前から気づいていた」
「でも」
わたしや蒼ちゃんが生きてきた、世界そのものがひっくり返るようなこと。何より、一度抱いた期待を裏切られるつらさは味わいたくない。
「そんな都合のいい話が……」
自分を戒めるように、必死で冷静になろうとした。そんなわたしに気づいているのか、いないのか、お父さんは淡々と続ける。
「血液型もだ。蒼太はO型だろ? ついさっきも確認した」
「たしか、お父さんはA型で、お母さんがO型……でしたよね?」
頭なんて、回る状態じゃないけれど。
「俺の両親は、両方AB型だったんだよ。それも間違いない。俺はAO型じゃなくて、AA型だとはっきりしてるんだ。O型の子供は生まれない」
「それじゃあ……」
お父さんの話の内容を整理しているうち、だんだんと芽生えてきた確証。
「おまえと蒼太の間に」
「はい」
「血のつながりはない。おまえたちは、本当の兄弟じゃない」
「あ……」
兄妹じゃない。わたしと蒼ちゃんは、兄妹じゃなかった。
「じゃあ」
はっと気づいて、答えを聞くのを急いだ。
「蒼ちゃんの本当のお父さんは、今……」
「わからないが、その後も続けて会っていたとは考えられない。多分、行きずりの男だったんじゃないかと思ってる」
わたしにとっては、幸せでしかないこと。でも、目覚めた蒼ちゃんの目の前に、そんな事実が突きつけられたら?
「大丈夫だ」
お父さんが、わたしの頭に手を置いた。
「蒼太は、いい男じゃないか。父親も、それなりの男だったんだろう」
「だけど、傷ついたり……」
「命懸けで、おまえを守ったくらいだ。むしろ、俺は感謝されると思うぞ?」
そんなことをこの状況下で言えてしまう、お父さんはすごい。
「心配するな。やっと、名乗りを上げられたんだ。これからは胸を張って、おまえのことを可愛がってやれるし、蒼太との件も俺が多香子に言い聞かせてやる。気になるなら、DNAの鑑定も受けておくといい」
まだ、夢を見ているような気持ちで、お父さんの顔をただ見つめていたのだけれど。
「直美の分まで、おまえは好きな男と一緒になれ。まあ、心変わりもあるかもしれないが……とにかく、今を後悔しないように生きることだ」
わたしに対して、初めて父親の顔を見せた、お父さん。
「……ありがとうございます」
今の一言で、わたしのお母さんが、お父さんに深く愛されていたことが伝わっていた。
そして、これほど重大な事実を気にも留めなうように、蒼ちゃんの父親として、いろいろな面で支えてきた、蒼ちゃんのお母さんへの誠意も。
……幸せだったんだね、お母さん。子供のわたしには、逆に気づけなかった。
「警察に向かう前に、蒼太の顔を見ていくか」
「はい……!」
こんな結末を用意してもらえるなんて、神様に感謝しなければならない。手を消毒し、渡された白衣とマスクを装着すると、看護師さんに、蒼ちゃんのいる集中治療室へと通された。
静かな音楽が流れる部屋の端のベッドの上で、蒼ちゃんは、いくつもの処置を施された状態なのにもかかわらず、うたた寝しているみたいな表情だった。
「蒼ちゃん」
離れた場所から、蒼ちゃんに呼びかける。
「今は、ゆっくり休んでね」
意識が戻ったら、話したいことがたくさんあるの。
いつ頃、目を覚ましてくれるのだろうかと、一日一日楽しみだった。
最初に聞いていたとおり、集中治療室からは数日で出ることができて、蒼ちゃんが目を開いてくれる日を心待ちにしながら、わたしは新しい学校に通い出した。一日に、何度も何度も、着信を確認した。
楽しみが不安になり出したのは、どのくらい経った頃からだっただろう? 一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。それでも、蒼ちゃんが目を覚ますことはなかった。
「蒼ちゃん、起きて」
何百回、何千回と呼びかけた言葉。
「蒼ちゃん……」
わたしを守ってくれた蒼ちゃんは、終わりのわからない、長い眠りについたのだ。
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