第14話 恩愛
その日、お母さんは、朝から機嫌がよかった。
「寂しくなるわね。お父さんも、今日は帰ってくるらしいわよ。オードブル、頼んでおいたから」
「……何から何まで、ありがとうございました」
お母さんに頭を下げた。感謝の気持ちは、嘘じゃない。わたしは、全寮制の女子校への編入が決まっていた。下調べから手続き、細かい準備まで、わたしのために動いてくれたのは、全てお母さん。
「準備ができたら、呼ぶわよ」
「はい」
それだけじゃない。ここまで、蒼ちゃんと一緒に、この家で育ててもらえたということは、わたしの人生の中の大きなこととして、これからも残ると思う……と、そのとき。
「あ……」
ちょうど、部屋に戻ろうとドアを開けたところで、蒼ちゃんが姿を現した。
「おかえりなさい、蒼ちゃん」
多分、蒼ちゃんと顔を合わせるのは、今日で最後。蒼ちゃんの目を、まっすぐに見た。
「ああ」
少し前みたいに素っ気なく反応して、先に階段を上っていく、蒼ちゃん。
「お父さんが帰ってきたら、下りてくるのよ」
お母さんの声だけが、廊下に響いた。
あれから、わたしと蒼ちゃんとは会話らしい会話もない状態に戻って、お母さんは満足そうだった。
明日、わたしが家を出ることも、わたしからは蒼ちゃんに伝えたことがない。おそらく、お母さんの方も、特に話す機会は作っていないはず。蒼ちゃんは、わたしとお母さんの会話や空気だけで、理解しているのだと思う。
「蒼太、日菜。お父さんが帰ってきたわよ」
「はい」
階下から、お母さんの声。見納めするように、家の中をゆっくりと眺めながら、階段を下りる。長い年月、蒼ちゃんと過ごしてきた、この家を。
「大変だったらしいな」
わたしの顔を見るなり、席に着いていたお父さんが、心配そうに口を開いた。
「あ……はい」
お父さんには、わたしの学校でのいじめが原因で、家を離れるのだと説明してある。
「でも、これで安心よね? あら、蒼太。あなたも座りなさい」
「ん」
蒼ちゃんが、わたしの向かいに座った瞬間、この前の蒼ちゃんの腕の力強さと温かさがよみがえって、胸が苦しくなった。
「どうした? 蒼太」
「……べつに」
お父さんに聞かれ、視線を落とした蒼ちゃん。わたしとお父さんの顔を、何度か交互に見比べていた気がした。
「はい、あなた。ビールでいいんでしょ?」
微妙な空気の流れを変えようと、お母さんが明るい声を上げたときだった。
「こんなときに、誰かしら?」
リビングに鳴り響いた、電話の音。でも、その着信先を確認して、お母さんが露骨に顔をしかめた。
「なんで、出ないんだ?」
お父さんが、不審そうに口を出す。
「……はい」
そこで、観念したように、重々しい動作で通話ボタンを押す、お母さん。
「はい……やっぱり、そうですか」
お母さんの口調から、内容の想像がついた。以前から懸念されていた甲府の叔母さんの病状が、いよいよ危なくなってしまったのだろう。
「わかりました……では」
お母さんの深いため息と共に、切られた電話。
「何だって?」
「……叔母様、今日明日あたりが山でしょうって。皆さん、集まられてるって」
「そうか。なら、顔を出さないわけにはいかないな。まだ、こんな時間だし」
「ええ、だけど……」
顔は上げなくても、こちらに不安げな視線を送られていることを感じた。でも。
「今なら、8時台の特急に乗れるだろう。準備してくれ」
「そうね……ああ、そうだわ」
次の瞬間には、何を思いついたのか、お母さんの表情が晴れやかになっていた。
「元気に頑張るのよ、日菜。最後の日に、バタバタしちゃったけど」
「べつに、最後なわけじゃないだろう」
お父さんが、あきれたように笑う。
「本当に……本当に、お世話になりました。予定どおり、朝には家を出ます」
誠心誠意を込めて、お父さんとお母さんにあいさつした。
「じゃあ、元気でな。今度は、学校に
「はい。頑張ります」
お母さんの情報をそのまま受け取っている、お父さんの軽い対応に救われた気がする。
「行きましょう、あなた」
「そうだな」
わたしと蒼ちゃんを二人にすることを、あんなに心配そうにしていたのに、お母さんが急に態度を変えたことは、不思議ではあったけれど。
「ありがとうございました。気をつけて」
お父さんとお母さんを玄関先まで見送ると、とりあえずは、ダイニングに向かった。
「蒼ちゃん……?」
ダイニングに急いでも、蒼ちゃんの姿はない。
食器を片付けて、軽く掃除をしてから、自分の部屋へ戻った。ほとんどの荷物が無くなって、空になった部屋。
最後の最後に、蒼ちゃんと二人きりになれる機会を与えてもらえて、わたしはうれしかった。でも、蒼ちゃんは?
「海老名には、ちゃんと伝えたのか?」
半開きだった、わたしの部屋のドアの隙間から聞こえてきた、蒼ちゃんの声。
「海老名くんは……」
席も離れて、話す機会も自然となくなっていた。それ以前に、向いている方向がきっと違う。
「あ」
と、今度は隣の部屋から、蒼ちゃんの携帯が鳴る音がした。
「待ってて」
軽く息を吐き出してから、携帯を取りに戻った蒼ちゃん。わたしも息をついて、動かずにいると。
「三浦?」
聞こえてきた蒼ちゃんの声に、体が固まった。
そうか。三浦さんに、泊まりに来てくれるよう、お母さんが電話で頼んだんだ。今日だけは、三浦さんといる蒼ちゃんは、見たくなかったのに ————— 。
「日菜」
名前を呼ばれて、体がびくりと反応した。
「入っていいか?」
「うん」
うつむいたまま、小さく返事する。
「……本当に、何もないんだな。もう」
ゆっくりと部屋を見渡すと、そう言って、蒼ちゃんは寂しそうな短い笑い声を漏らした。
「うん。必要なものは送ってもらったし、処分もたくさんしたから」
「そう……か」
言葉を探しているかのような、蒼ちゃんに。
「蒼ちゃん」
耐え切れなくなって、わたしは切り出した。
「来るの? 三浦さん。これから」
わたしが涙を抑えられなくなっているのを見て、蒼ちゃんは、少し驚いたようだったけれど。
「来ないよ。絶対に来るなって言ったから」
いつもどおり、ふっと笑う、蒼ちゃん。また、胸が苦しくなった。
「でも、それじゃあ」
「いいんだよ。三浦がつき合ってるのは、俺じゃなくて、母さんの方だから」
「そんなこと」
泣きながら、わたしも思わず笑ってしまった。
「蒼ちゃんってば。そんなことを聞いたら、お母さんも三浦さんも……」
と、そこで。
「どうしたの……?」
蒼ちゃんの綺麗な目に、じっと見つめられていることに気がついた。
「よかった。日菜の笑ってる顔が見れて」
「…………」
「最後に」
しばらくの沈黙のあと、蒼ちゃんが静かに言葉を発した。
「な……に?」
震える声で、蒼ちゃんを見上げる。
「最後に、ちゃんと日菜の顔が見たい」
「……うん」
壊れ物を扱うように、そっと外された眼鏡。少し
「……大好きだったのに」
「蒼ちゃん?」
わたしと同じくらい、蒼ちゃんの手も震えていた。その手に、ゆっくりと髪を撫でられる。
「この髪と同じくらい……いや、日菜の目が、いちばん好きだったのに」
以前、コンタクトをつけていたときに、周りの気持ちを考えていないと、厳しい言葉をぶつけられたのを思い出した。
「どう見ても、父さんと同じだよな」
なんだか、蒼ちゃんまで泣き出してしまいそうなくらい、顔が歪んで見えた。
「わたし……」
どうして?
どうして、気づかなかったんだろう? わたしは今まで、蒼ちゃんの何を見て……と、不意に。
「明日は、早いんだよな」
わたしの髪に触れていた手をだらりと垂らして、突き放すように、蒼ちゃんが顔を背ける。
「蒼ちゃん」
「寝た方がいい」
「蒼ちゃん……!」
部屋を出て行こうとする蒼ちゃんの袖を、ギュッとつかんだ。
「離せよ、日菜」
「や……」
自分でも、どうするべきなのか、判断ができない。でも、今は蒼ちゃんと離れたくない。
「わかっただろ?」
わたしの体を押し離す、蒼ちゃん。
「頭ではわかっていても、俺は日菜を妹になんか思えない。これ以上いたら、何するかわからないんだよ。あの日だって……」
「あの日?」
「いや」
はっとした表情で、蒼ちゃんが視線をそらす。
「教えて、蒼ちゃん」
蒼ちゃんが抱えてきた想いを全部、わたしの心に刻みつけておきたいの。どんなにささいなことでも。たとえ、わたしが傷つくことだって。
「……日菜は、覚えてないかもしれないけど」
蒼ちゃんは泣いているみたいでもあり、笑っているようにも見える。
「六年生のときに、二人で日菜のお母さんの墓参りに行っただろ?」
「わたし、よく覚えてるよ」
だって、あの日を境に、蒼ちゃんは変わった。
「俺も、三上と同じなんだ」
わたしの両方をつかむ、蒼ちゃんの手が震えている。
「バスの隣の席で寝てる日菜の顔を見てたら、我慢できなくなって。日菜が熟睡してるのをいいことに、隠れてキスしようとして……」
「蒼ちゃん」
こんなにも苦しそうな蒼ちゃんに、これ以上、告白の続きを強いる必要はない。何よりも、誰よりも愛おしい、大切な蒼ちゃんを見上げて、首を振った。
「日菜……?」
「うれしい」
こんなに近くにいたのに、ずっと手が届かないと思っていた。それほど、大好きな蒼ちゃんに想われていたという、純粋なうれしさ。
「うれしいよ、蒼ちゃん」
「日菜……」
ためらいながら、わたしの背中に手を回した蒼ちゃんの胸に、わたしもそっと顔を埋めて、蒼ちゃんのシャツの背中の部分をつかんだ。
蒼ちゃんの心臓の音が、わたしの耳に響く。その一音一音すら、聞き漏らすのが惜しい気がした。
兄とか妹とか、そんな実感は今でもない。目を閉じて、あの頃の自分と蒼ちゃんの姿を想像してみる。蒼ちゃんの苦しみを思うと、わたしも締めつけられるような胸の痛みを覚えるけれど。
でも、同時に、その感覚は甘い麻薬みたいに、わたしの体中の神経を麻痺させる。そして、気づいたら、わたしの方からキスを誘うように、蒼ちゃんに顔を近づけていた。
「後悔しないか?」
「するわけない」
静かな部屋の中に、二人の会話だけが響く。もう、何も考えられない。わたしは、自分が映る蒼ちゃんの瞳だけを見ていた。幸せだった。
「……好きだ。日菜のことだけが」
いつもと全然違う、囁くような蒼ちゃんの声。
「蒼ちゃ……」
好きだよ、蒼ちゃん。わたしも気持ちを口にしようとしたところで、唇をふさがれて。その続きは、蒼ちゃんのひんやりとした唇に吸い取られてしまった。
こんなにも、キスは、お互いの想いがあふれ出るものだった? そして。
「夢みたいだ」
「わたし、も……」
一枚一枚、蒼ちゃんの手で服を脱がされていくたび、ずっと隔たれていた蒼ちゃんとの距離が縮まるようで、うれしさに胸が高鳴る。不思議と、恥ずかしさは感じない。時折、控えめな笑顔で、頬と頬を合わせた。
「好きだよ、日菜」
何度言っても言い足りないように、蒼ちゃんは繰り返してくれる。
「わたしも。わたしも、蒼ちゃんが好き」
「……俺の方が、好きだよ」
かつて、何度も交わされた言葉。こうして、お互いの肌を直接感じて抱きしめ合うことが、こんなにも幸福感に包まれる行為だなんて、わたしは知らなかった。
「日菜……」
わたしの名前を口にしながら、蒼ちゃんが時折見せる苦しそうな表情は、
「日菜、気持ちよさそう」
「だっ……て……」
少し意地悪に笑った蒼ちゃんに反論できないほど、心も体も溶けるようで。
「すごい、うれしい。今みたいな顔、もっと見せて」
いつしか、そんな蒼ちゃんの甘い言葉と相まって、不安や恐れの感情も消えてなくなってった。うっとりするような、蒼ちゃんの舌の感触。繊細な指の動き。ゾクゾクするような息遣い。
「可愛い、日菜」
出会った日と同じように、うれしくて、幸せで。
「日菜、可愛い」
「蒼ちゃん、だって……」
苦しさすら感じるくらいに、愛おしい。そうだ。これも、蒼ちゃんだけの魔法の言葉だった。
「……ごめん。痛いかもしれないけど」
「大……丈夫」
慣れない痛みさえ、蒼ちゃんをわたしの全身で感じられる幸せでいっぱいになるから。
「蒼ちゃん、好き……」
やっぱり、お兄ちゃんだなんて思えなかった。それは、お父さんを本当のお父さんと感じたのと、同じ感覚で。でも、そのふたつのことは、あまりに矛盾しすぎているから、ただの現実逃避にすぎないのかもしれないけれど。
「日、菜……」
蒼ちゃんに、これ以上ないくらいの強い力で抱きしめられた。
「好きだよ、日菜だけが」
「わたしも。蒼ちゃんだけ」
これで、全て埋まった気がした。過去も未来も、全て。
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