第13話 宣告



「だから、お願いよ。理由を話してちょうだい」


 部屋の外から、お母さんの声が聞こえてくる。蒼ちゃんが帰ってきたんだ。


「言わないつもりなのね? なら、いいわ。花音ちゃんに聞いてみるから」


 しばらく、興奮した口調で電話越しに三浦さんらしき相手にまくし立てたあと、電話ではらちがあかないと思ったのか、待ち合わせの約束を取りつけると、お母さんは外へ出たようだった。


 当然だけれど、わたしが原因だとは、まだ夢にも思っていないはず。


 でも、昔から正義感が人一倍強くて、ずるいことや汚いことを絶対に許さなかった蒼ちゃんは、今も、わたしの痛みをちゃんとわかってくれた。


 階段を上ってくる、蒼ちゃんの足音。続いて、隣の部屋のドアが開く音が鈍く響いた。お母さんが帰ってきてしまう前に、蒼ちゃんと二人だけで話がしたい。


「……蒼ちゃん」


 ドアの前に立って、蒼ちゃんを呼んだ。返事は、なかったけれど。


「入っても、いい? 蒼ちゃん」


 思い切って、ドアノブを回した。もう何年も入っていない、蒼ちゃんの部屋。


「蒼……ちゃん?」


 薄暗い部屋の、ドアのすぐ脇。蒼ちゃんは、頭を膝の上に載せて、顔の見えない状態で座っていた。


 ゆっくりと、部屋の中を見回す。壁を一枚隔てているだけなのに、何年ぶりに足を踏み入れただろう?


 たくさんのCDと、機材や楽器。整理はされているけれど、ところどころに無造作に置かれた、音楽に関する本や雑誌。記憶とは全然違う、男の子の部屋。


「蒼ちゃん、あの……」


 何から、切り出したらいいのかな。三上くんのこと、家を出ること、それから……。


「日菜」


 不意に、蒼ちゃんに名前を呼ばれた。


「何……? 蒼ちゃん」


 うまく言葉を探すことができなかったから、そっと近づいて、蒼ちゃんの前に座る。


「ごめん、日菜」


 わたしの方に顔は向けないまま、蒼ちゃんが静かに口を開いた。


「どうして……?」


 目の前の蒼ちゃんの姿が、涙でかすむ。


「どうして、蒼ちゃんが謝るの? 蒼ちゃんは、何も悪くないのに」


 うれしかったんだよ。蒼ちゃんが、わたしのことをわかってくれて。


「……悪いのは、蒼ちゃんの世界に勝手に入り込もうとした、わたしだから」


「日菜、ごめん」


 もう一度、蒼ちゃんが繰り返す。


「もう、十分すぎるよ」


 蒼ちゃんの大きな右手に、目が行った。傷ついて、腫れている。


「見過ごさないでくれて、ありがとう」


 思わず、その手をとって。そして、痛くないくらいの小さな力を込めて、そっと両手で握った。最後に、勇気を出して。


「ありがとう」


 何度声にしても、伝えきれない。


「蒼ちゃん、ありがとう」


 忘れないから。蒼ちゃんがわたしにしてくれたこと、全部 —————— 。


「……なかった」


「え……?」


 つぶやくような、蒼ちゃんの小さな声。おそるおそる、蒼ちゃんの口元に耳を近づけた。


「守ってやれなかった。約束したのに」


 蒼ちゃんの言葉を、何度も頭の中で反芻はんすうした。


「蒼ちゃん……」


 あんなに、いつも心で唱えていたのに、初めて耳にする言葉みたいに、胸が震える。ずっと、ずっと、覚えていてくれた約束。


「守ってもらえてたよ」


 こんな一瞬のうちに、不幸だと思っていた数年間が、全て報われた。


「…………」


 ゆっくりと、蒼ちゃんが顔を上げる。


「守ってもらえてた。いつだって、わたしは蒼ちゃんを心のどころにしてた」


 蒼ちゃんの態度がどんなふうに変わっても、蒼ちゃんと出会った日の言葉の効力が、失われるはずはなかったの。


「……だから、三上くんの部屋でも」


 蒼ちゃんの手がピクリと動いた。


「わたしは、蒼ちゃんのことだけを考えてたの。だから……」


「日菜」


 突然、引き寄せられた体。蒼ちゃんに抱きしめられるのは、初めてだった。


「蒼……ちゃん?」


 戸惑って。でも、もっと蒼ちゃんを近くに感じたくて、わたしも蒼ちゃんの背中に手を回す。ただ、何も考えず、ずっとこうしていたいと目を閉じたとき。


「なんでだよ?」


 わたしの胸に訴えかけてくるような、蒼ちゃんの苦しそうな声を聞いた。


「どうして、初めから、兄妹だって……」


「え……?」


 蒼ちゃんの漏らしたことの意味が、わかったような、わからないような、そんな奇妙な感覚の中。


「高校生にもなって、ずいぶんと仲がいいのね」


 薄笑いを浮かべながら体を震わせている、お母さんがすぐ後ろに立っているのに気づいた。


「…………!」


 反射的に、すぐに蒼ちゃんから離れようとした、わたしとは逆に。


「何がおかしい?」


 全く動じる気配のない、落ち着き払った蒼ちゃんが。


「三浦から、全部聞いたんだろ? 傷つけられた自分の妹をかばって、何がおかしい?」


 わたしの肩を強く抱いたまま、強い瞳で、お母さんの方に顔を向ける。


「……そうね、妹ね」


 少しの間のあと、不本意そうな表情で、お母さんも口を開いた。


「日菜は、あなたのお父さんの子だものね。そっくりな目を見れば、一目瞭然よね。わかってれば、いいのよ」


 お母さんが認めた。わたしが、お父さんの子供だって。


「ね? 蒼太」


「……ああ」


 一瞬、蒼ちゃんの動揺を感じとった。


「わかってるよ、それくらい」


 わたしの体から、するりと解かれた蒼ちゃんの手はがわずかに震えているのが、暗がりの中でもわかる。


「明日、もう一度、先生にお話しに行くわ」


 ほっとしたような笑顔を見せた、お母さん。


「事情を話せば、わかってくださるはずよ。血のつながった妹が、三上くんに凌辱りょうじょくされたんですって」


「黙れ」


「蒼ちゃん……!」


 お母さんの言葉に、わたしの心が悲鳴を上げるのと同時に、立ち上がった蒼ちゃんは、お母さんに突っかかっていた。


「だって、何も悪くないのに、あなたが処分を受けるなんて……」


「黙れって言ってるだろ? それ以上、その汚い口を口開くな」


「やめて、蒼ちゃん!」


 お母さんの胸ぐらをつかむ蒼ちゃんを、押し止める。


「わたしなら、大丈夫だから」


 嘘じゃないよ、蒼ちゃん。わたしは、もう十分すぎるほど、蒼ちゃんに守ってもらえたから。


「蒼ちゃん、お願い」


 お母さんをかばう体勢で、蒼ちゃんに訴えると。


「行けよ」


 全ての感情を通り越したような表情で、蒼ちゃんがお母さんを突き放した。


「とにかく、よかったわ」


 お母さんは体裁を取りつくろうように、そうつぶやいてから、自分についてくるよう、わたしに目で合図を送ってきたのだった。





「あの……」


「座りなさい、日菜」


 リビングのドアを閉めるとすぐ、ソファにかけるように促してきた、お母さん。


「……はい」


 言われるままに、お母さんの向かいに腰を下ろすと。


「あなたは」


 わたしとは、一秒でも長くいたくはないかのように、お母さんが話し始める。


「あなたは、蒼太が好きよね? 勘違いしないで。変な意味じゃないわ」


「好き……です。感謝しています」


 本来なら、言葉でなんか表せないし、表したくもないけれど。


「そうね。そう言ってくれると思った」


 威圧的に微笑ほほえむ、お母さん。どんな話なのかは、想像がつく。


「ほら。あなたもよく知っているとおり、蒼太は正義感の強い子でしょ? 昔から」


「はい」


 そう。蒼ちゃんは、いつでもまっすぐだった。まぶしいくらいに。


「あの子は、友達の卑劣な行為を許せなかったのね。退学になりかねないくらいのひどい怪我を、相手に負わせたんですって」


 楽しみにしていたという、オーディションのこと。そして、蒼ちゃんの将来のこと。いろいろなことが、とりとめもなく、頭に思い浮かんだ。


「優しい子なのよ」


 慎重に、言葉を選んでいるようだった。


「結局は、弱い立場のあなたを放っておけなかった。これからも、きっと同じことを繰り返すわ。それに、人目だってある」


 そろそろ、本題に入りたいのだろう。わたしに鋭い視線を向ける、お母さん。


「そのせいで、あなたにとっても大事な蒼太の未来が台無しになるようなことになったら、嫌でしょう? あなただって」


「もちろん、です」


 わたしだって、蒼ちゃんの幸せを願っている。今回の件だって、抱いた感情は、うれしさだけじゃない。お母さんと同じように、蒼ちゃんの立場や先のことも考えずにはいられなかった。


「はっきり言うわね。この家を出てほしいの」


「……わたしも、そうするべきだと思っていました」


 もちろん、全てではないだろうけれど、お母さんの気持ちは、このわたしにも痛いほど理解できるから。


「よかった。わかってもらえて、うれしいわ」


 満足げに、お母さんが笑顔を見せる。


「住む場所や学校のことなんかも、細かく決めていきましょう。お金のことは、心配いらないの。あなたのお母さんが残したお金も、手つかずの状態よ」


「は……い」


「忙しくなるわね、これから」


「……よろしくお願いします」


 自分から、切り出すつもりだった。でも、こんなに事があっという間に進んでいくとは思っていなくて、実感も何もわかないまま、お母さんの言葉を聞いていた。


 ただ、ひとつだけ。


 家を出ることが、二度と蒼ちゃんに会えなくなることだと、今は考えたくなかった。



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