第12話 本心
「行ってらっしゃい」
スタジオへ向かう、蒼ちゃんの後ろ姿に声をかけると。
「日菜。この前の……」
振り返って、何か言いかけたけれど。
「何?」
「……いや」
結局、いつもと同じように、わたしに背を向けて、蒼ちゃんは外へ出て行った。背中には、いつものギター。
もうすぐ、オーディション形式のライブがあるんだって、この前、三浦さんが言っていた。そういうの、海老名くんは迷惑がってたっけ。
……ここ数日間、ずっと考えていたことがある。枝みたいになった自分の指を見て、心を決めた。今日こそ、買いに行かなくちゃ。妊娠検査薬を。
いつまでも、目を背けていはいられない。取り返しのつかないことになる前に、自分で先を考えなくちゃいけないんだから。
でも、もしも、本当に妊娠してしまっていたら、お母さんに、どう伝えたらいい? 蒼ちゃんは、どんな顔をするのかな。
どこか他人事みたいに思いを
体温計みたい。
やっぱり、自分のことではないみたいに、そんなことをぼんやりと思いながら、箱をレジに持って行く。
本当は、ギリギリまで現実逃避していたい気持ちだけれど、家に帰ると、ちょうど誰もいなかったから、手早く封を開けた。
しばらく中身を眺めたあと、覚悟を決めて、ゆっくりと手に取った。トイレに入り、説明書の手順に従っていく。そして、閉鎖された息の詰まるような空間で、結果を待つ。
終了のサインの横線が浮き出るまでに、縦線が現れなければ、陰性。怖くて、目を開けていられない。
どれくらい、時間が経過しただろう? 結果は出ているはず。祈ることすら、できなかった。あのときと同じように、頭を空っぽにして、静かに目を開けると。
「よかった……」
目の前の結果に、安堵の涙が出た。今度こそ、あの記憶を忘れられる。
三上くんだって、念願の可愛い彼女ができたという今となっては、もうどうでもいいことなのだろうから。
ううん、そうじゃない。最初から、どうでもよかったからこそ、あんなことをしたんだ。
悔しくて、悲しいけれど、ひさしぶりに神経が落ち着くことを感じながら、使用した検査薬を袋に詰めて、固く縛った。忘れよう。わたしが忘れてさえしまえば、最初から何もなかったことにできる。
わたしを好きでいてくれる人がいなくて、よかった。これで、誰も嫌な思いをしないですむから —————— 。
「ごちそうさまでした」
「今日は食べたのね」
「はい。心配かけて、すみませんでした」
人間の体なんて、いい加減なもの。昨日一晩ぐっすりと眠ったら、朝には食欲がだいぶ回復していた。
「そうそう、花音ちゃんに聞いたわよ。明日、バンドのオーディションがあるんですって? なんだか、張り切ってるらしいじゃない」
「あるけど」
紅茶を飲んでいた蒼ちゃんが、おっくうそうに、ため息をついた。
「わたしも見に行こうかしら」
「来なくていいよ」
蒼ちゃんが三浦さんとつき合い出してから、お母さんは明るくなった。お母さんも、寂しかったのかなと思う。わたしの立場で、お母さんの心を開けるわけはないから。
「そんなことより、ゴミ捨て、間に合う? 俺が行こうか?」
「あら、大変。いいわよ、わたしが出してくるわ」
軽い足取りで外へ出て行くお母さんを見て、もう一度、息をつく蒼ちゃん。いつもと変わらない気まずい空気の中、残っていた紅茶に口をつけると。
「…………」
ふと、蒼ちゃんと目が合った。
「最近は、見に来ないんだな」
「あ……うん」
不意に話しかけられて、戸惑いつつ、返事する。
「もう、蒼ちゃんの周りは、うろついたりしないよ」
高校を卒業して、この家を出るまで。わたしは、何も期待なんかしないで、ひっそりと生きていくの。
「蒼ちゃんに迷惑をかけるようなこと、二度としないから」
本当は、自分が傷つきたくないだけなんだけれど。
「ごめんね、蒼ちゃん」
ちゃんと、蒼ちゃんの目を見ながら笑って、飲み終えて空になったカップを手に立ち上がったときだった。
「何があった?」
「え……?」
いきなり、腕をつかまれた。面くらって、蒼ちゃんを見上げる。
「単に、海老名のあんなところを見たからっていう痩せ方じゃ……」
と、そのとき。
「日菜」
「は……い」
気がつくと、わたしの横に戻ってきていた、お母さんに名前を呼ばれた。蒼ちゃんが居心地悪そうに、わたしの手を離す。それを見ていた、お母さんの表情がピクリと動いた気がした。
「何……ですか?」
嫌な予感が頭をかすめた。
「わたしに、恥をかかせないでちょうだい」
「なん……」
「あなた、わざわざ家から遠く離れたドラッグストアまで行って、何買ってきたの? 向かいの佐藤さんに見られてたのよ」
「あ……」
悪い夢だと思いたい。不安で眠れない夜から、やっと解放されたばかりだったのに。
「本当に、だらしのない。思いつめた顔して、妊娠検査薬ですって? あなた、裏で何やって……」
「ごめんなさい」
お母さんの大きな声を遮るように、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい……お母さん、ごめんなさい」
「ごめんなさい、じゃないわよ。まさか、妊娠してるんじゃないでしょうね? あなた」
「して、ませ……」
まともに声を出せなかったから、何度も首を振った。蒼ちゃんの顔は見ることができない。
「そんなふうに目立たなくしてても、陰でやることだけは……」
「行ってきます」
「日菜……!」
絶対に、わたしのお母さんが引き合いに出されるって、わかっていた。それだけは耐えられない。学校のバッグをつかんで、玄関を飛び出す。外の空気を吸い込んで、必死に呼吸を整えた。
蒼ちゃんに聞かれた。誰よりも聞かれたくなかった、蒼ちゃんに……!
「日菜」
「蒼ちゃん……」
玄関のドアが閉まる音と、蒼ちゃんの低い声。バッグを、ギュッと胸に抱き寄せる。
「海老名か?」
「ちが……」
蒼ちゃんに背中を向けて、うつむいたままの状態で、首を横に振る。
「じゃあ、誰だよ?」
強引に肩をつかまれて、蒼ちゃんと視線を合わせられた。
「答えろよ、日菜」
「違うの、さっきの話は……」
蒼ちゃんの手に込められた力から伝わる、怒りの矛先がわからない。
「そういえば、この前」
「何……?」
おそるおそる、わたしも蒼ちゃんの方に顔を向けて、聞き返す。
「三上の名前が出たとき、ようすがおかしかったな」
「そんなこと、な……い」
動揺を悟られないように、蒼ちゃんを直視しようとしたけれど、さすがにそれはできず、声も震えた。
「相手は、蒼ちゃんの知らない人、だよ」
やっとの思いで、声を絞り出す。
「わたしも、名前すら知らない人」
「何言ってるんだよ?」
いっそ、自分から嫌われた方がいい。
「海老名くんに相手にされなくて、やけになってたの」
また、中途半端に期待して傷つくくらいなら。
「そんなバカなこと、俺が信じると思うか?」
「だって、本当のことだから」
お願い。これ以上、苦しみたくないから……と、次の瞬間。
「蒼、ちゃん?」
目の前にいた蒼ちゃんが、何も言わずに、早足で駅の方向へ歩き始めた。
信じてくれたんだね。これで、いいの。何度も自分に言い聞かせながら、わたしも学校に向かうことにした。
でも、後悔しない?本心では、いちばんわかってほしいと望んでいる大切な人に、この先ずっと軽蔑されたままで、本当に ————— 。
「……らしいよ」
「やだ。本当?」
いつも以上の雰囲気の悪さは、すでに登校したときから感じていたけれど、向かいの佐藤さんに、わたしと同じ歳の姪がいたことを思い出したのは、少し時間が経ってから。
「見かけによらないよね」
標的が自分だったとわかっても、どうでもよかった。でも。
「さすが、アイジンの子」
「やっぱり、親が親だからでしょ?」
どうしても我慢したくないことが、わたしにもある。
「やめ……」
わたしのことだけでなく、お母さんまで。そんな勝手な中傷に立ち向かおうと、反論しかけたとき。
「うるさいな」
わたしよりも先に声を上げて、周りを遮ったのは海老名くんだった。
「だ、だって」
すぐそばにいた、いちばん騒ぎ立てたそうにしていた女の子が、ムキになって声を荒げる。
「信じられないでしょ? こんな子が、妊娠検査薬なんか買ってるって」
一瞬、驚いた視線を送られたけれど。
「ふうん。最悪だね。そんなことをネタにするくらいしか、楽しみがない人間」
女の子を心底蔑む表情を見せた、海老名くん。
「何……よ」
クラス中の注目が集まっている中、収まりのつかなくなった女の子の肩が震えていた。
「こんな子のこと、かばっちゃって。相手、海老名くんなんじゃないの?」
「海老名く……」
もう、いいの。耐え切れなくなって、止めようとしたら。
「そうだよ」
「え……?」
素知らぬ顔で女の子の中傷を肯定した海老名くんに、面くらった。
「だから、これ以上、もう立ち入らないでほしいんだけど」
「そ……そう」
水が
「あ……海老名くん!」
ため息をついて、教室を出て行こうとする海老名くんを追いかける。
「海老名くん」
わたしのこと、助けてくれたんだよね。とにかく、一言お礼を伝えたい。
「あの……」
「びっくりした」
振り返った海老名くんが、口角を上げた。
「この前、あんな目で俺を見たのに。やってること、同じだったんじゃん」
知らない人みたい。こんな人、わたしは知らない。
「親近感わいた」
崩れていく。またひとつ、大切だった何かが。
「授業出ないで、また音楽室にでも行く?」
目を背けたくなるような笑みを浮かべながら、わたしの耳元で
「そう。なら、ついてこなくていいよ」
予想どおり、海老名くんは態度を豹変させて、わたしを突き放すような空気で、教室を離れていった。結局、海老名くんは、2時間目の始まる前には教室に戻っていたけれど、それ以上、学校で口をきくことはなかった。
「……帰りました」
今日ほど、家への足取りが重かった日はない。蒼ちゃんは、まだ帰っていないようだった。
「日菜、ね」
お母さんの目つきは、まるで汚いものを見ているみたい。
「話すことは、べつにないわ。部屋に行ってなさい」
「はい」
わたしも話せることなんてない。素直に自分の部屋へ向かおうとしたとき、リビングの電話が鳴った。
「何かしら? はい、宮前でございます」
よそ行きのお母さんの声を背に、階段に一歩踏み出した。と、そのとき。
「えっ? 蒼太が?」
お母さんの尋常ではないようすに、足を止める。
「三上くん……ええ、名前くらいは」
何が起こったの? 心臓が、ドクドクと音を立てる。
「停学? 待ってください。蒼太は、理由もなく友達を殴るような子じゃ……」
…………。
蒼ちゃん。蒼ちゃん。頭の中で、何度も蒼ちゃんの名前を呼んだ。
「とにかく、今すぐ、そちらに向かいますから……! 校長室ですね、はい」
見たことがないくらい、お母さんが取り乱していた。
「出てくるわ」
「は……い」
最低限のものをつかむと、お母さんが必死の形相で玄関を出て行く。
この特殊な環境の中、お母さんが蒼ちゃんをどれほど大切に育ててきたか、わたしは知っている。お母さんは、蒼ちゃんの未来だけを夢見ていた。だから、うれしさに胸が震えるのは不謹慎だとわかっているけれど。
「蒼ちゃん……」
三上くんとのこと、蒼ちゃんにだけは知られたくないと思いながら、どこかで気づいてほしくて。でも、もし気づいてもらえても、蒼ちゃんにとっては面倒なことでしかないかもしれないと思うと、不安でたまらなかった。
「ありがとう。蒼ちゃん、ありがと……」
卒業なんて待てないって、最近ずっと考えていた。これで、やっと、蒼ちゃんとの思い出を胸に、この家を出られる。
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