第11話 幻影
「いつまで、そうやって、黙ってんの?」
———— 避妊は、してくれたみたいだ。無いに等しい知識で、安心するというわけでもなく、ただそう思った。
「しゃべんないなら、寝るから」
体中の鈍い痛みに反して、心に痛みは感じなかった。感じるとするならば、昔の蒼ちゃんを思い描いた瞬間だけ。
ああ、でも……聴けなくなっちゃった、な。イロイッカイズツ。もう、さすがに無理だ。それだけが悲しくてたまらない。そんなことを考えながら、ゆっくりと服に袖を通す。
この前、蒼ちゃんに言われたとおりだ。調子に乗って、蒼ちゃんの周りをうろついたりしたから。だから、こんなことになったんだ。
蒼ちゃんに近づけるわけなかったのに。蒼ちゃんと世界を共有できるわけもないのに……。
もうすぐ、始発も動くかもしれない。最低限の身仕度を整えて、外に出る。大丈夫。たいしたことじゃない。ただ、今は部屋に戻って、体を休めたいだけ。
電車に乗る前に乱れた髪を整えるため、鏡を見た。ほら、やっぱり。どこも、わたしに変わったところなんてない。相変わらず、目立たなくて、さえない中途半端な自分の姿が写っていた。
でも……と、電車を降りたところで、ふと気がついた。
今、こんな時間に、わたしがあの家に戻っていいの? いいわけない。どう考えても、蒼ちゃんと三浦さんに嫌な顔をされるに決まっているし、それ以前に、あの二人も今頃 ——————。
どうしよう? 急に、頭の中の思考能力がめちゃくちゃになった。呼吸まで乱れてくる。
どうしたらいい? 昨日、家を出る前に考えていた場所。ネットカフェ? そんな店、どこにあるのかわからない……。
「日菜!」
「え……?」
離れたところから、遠い昔に聞いた、わたしを呼ぶ力強い声がした。
「蒼ちゃ……」
向かいのホームに、蒼ちゃんの姿を
「蒼ちゃん!」
何も考えずに、ありったけの声で、蒼ちゃんの名前を呼んだ。
「蒼、ちゃ……」
でも、次の瞬間には通過電車で視界は遮られた。当然ながら、電車が走り過ぎたあとに目を凝らしても、そこに蒼ちゃんがいるわけはない。
「……バカみたい」
ここまできて、まだ期待を捨てきれていないなんて。
「蒼ちゃん、だって」
自分で自分にあきれて、笑いたくなる。蒼ちゃんは、三浦さんといるのに。とっくに、蒼ちゃんの中に、わたしの存在はないのに。
「日菜」
「…………」
ゆっくりと、顔を上げた。
「蒼ちゃん……」
やっぱり、目の前に立っているのは、わたしの大好きな蒼ちゃん。夢じゃないかと、何度も思った。
「どれだけ、俺が心配したと思ってる?」
本気で怒っている、蒼ちゃん。それが、わたしには、小学校に転入たばかりの頃、蒼ちゃんに迷惑をかけたくなくて、わたしが一人で先に帰ろうとしたときの蒼ちゃんと、同じように見えたの。
「友達の家に泊まらせてもらうって、三浦さんに言ったんだよ」
「聞いてるよ、そんなの。でも、いないだろ? 友達なんて」
「ひどいよ、蒼ちゃん。それ」
泣きながら、わたしは笑った。目の前の蒼ちゃんに、あの頃の蒼ちゃんを重ね合わせて。でも、違う。
「日菜に何かあったら」
聞かなくても、次の言葉は予測がついた。
「……三浦が、責任感じるだろ?」
「うん。ごめんなさい」
「いったい、どこにいたんだよ?」
「
すらすらと嘘が出てきた。本当のことを知られたら、蒼ちゃんにあきれられる。自分から三上くんの部屋に入って、あんなことになったなんて。蒼ちゃんに知られたら、今度こそ軽蔑されて、汚いって思われる。
「ごめんね、蒼ちゃん」
どれくらい、探してくれていたのかな。
「蒼ちゃん、ごめん……」
三浦さんとの時間を、台なしにしちゃった。もっと上手にやらなきゃいけなかったのに。
「とにかく」
家の方に向かって、心なしか、ゆっくり歩いてくれている蒼ちゃんが、口を開いた。
「俺は、日菜が家にいたら困るようなことは……」
「蒼太くん」
そこで、近くに駆け寄ってきた三浦さんに、声をかけられる。
「日菜のせいで、ごめん」
すり抜けるように、わたしから離れていった蒼ちゃん。
「ううん。よかったね、日菜ちゃんが見つかって」
わたしにもニコリと笑いかけてくれたあと、三浦さんが蒼ちゃんに寄り添うようにして、わたしの前を歩き出す。同じように、わたしも笑わなきゃとは思ったけれど、どうしても笑うことはできなかった。
家に着いて、空っぽの頭でシャワーを浴びた。自分の部屋に戻る途中、蒼ちゃんの部屋のドアの隙間から、ちょっとした口論が聞こえてきたけれど、途中で不自然なくらい、ぴたりと止まった。
……キス、してるんだ。
そう気づいた瞬間、自分の全ての体験がとてつもなく
「それ、何かのデモンストレーション?」
昼休みに、学校近くのコンビニで買ったカットフルーツを口に入れていたら、痺れを切らしたようなようすで、海老名くんに話しかけられた。
「もう何日も、昼は果物だけで。しかも、そんな痩せ細ってるし」
「……他に、食べたいものがないの」
蒼ちゃんの妹だから、だって。だから、傷つけるために近づいたんだって。
「え? 何? それ。大丈夫なの?」
海老名くんは、何もわかっていない。このわたしが傷つけられたところで、蒼ちゃんがどうなるというのだろう?
「宮前さ……」
不意に伸びてきた、海老名くんの手を。
「や……!」
反射的に、勢いよく払ってしまった。ケースごと落ちて、残っていたメロンが床に散らばる。自然と集中する、クラス中の視線。
「あ……」
何か言おうとはしたけれど、言葉にならない。
「わかった。いいよ。もう、話しかけない」
「…………」
海老名くんの顔を見た。全部、終わったという気がした。
これでよかったんだと思いながら、メロンを拾う。今日は、三浦さんが家に来る日。お腹を空かして、少しでもおいしそうに、料理を口に入れなきゃいけない。
「見なさい、蒼太。これ、花音ちゃんが作ってくれたのよ」
「聞いたよ、もう。ありがとう、三浦」
三浦さんのお母さんが出かけるという日は、家で一緒に夕食をとることが習慣化していた。
「ううん! ちょこちょこ、お母さんに手伝ってもらったんだよ。わたし一人で、こんな凝った料理が作れるわけないもん」
そんなふうに、恥ずかしそうに蒼ちゃんに否定する三浦さんを満足げに見たあと、お母さんは眉を寄せて、わたしの方に目を向けた。
「あら。日菜、また食べてないじゃない」
「ごめんなさい。食欲が、あまりなくて」
やっぱり、体が食べ物を受けつけない。食べなくちゃと思えば思うほど、胸と喉がつかえたように苦しくなる。
「いいかげん、病院に行ってみたらどうなの? そんなに痩せて、近所の人にも変に思われるじゃない」
「そう……ですね」
病院という言葉に、体が反応した。
「一時的なものだろ? 放っておけよ。そのうち、戻るよ」
蒼ちゃんは、つまらなそうに話題を変えようとする。きっと、海老名くんとのことが原因だと思っているのだろう。
そっと視線を移して、カレンダーを確認した。
……あれから、一ヶ月半。毎日のように、一刻も早く忘れ去りたい記憶の光景を呼び起こす。妊娠なんて、しているわけない。それだけは、ちゃんとしてもらえたはず。それなのに、どうして?
「日菜。食べないのなら、部屋へ戻っていいわよ。花音ちゃんも気を遣うでしょ?」
わたしを見て、お母さんが露骨に顔をしかめた。
「あ……ごめんなさい。ありがとうございます」
お母さんの言うとおりだ。三浦さんも、困った顔をしている。わたしの食器を下げてくれた、お母さんにお礼を言って、ゆっくりと立ち上がろうとしたときだった。
「そうだ。蒼太くん、聞いた? 三上くんから」
なんだか、楽しそうな三浦さんに。
「三上から? いや、多分聞いてない」
蒼ちゃんが、興味なさげに反応する。名前を耳にするだけで、背筋に緊張が走った。
「ついにね、
「中村と? そういえば、可愛いだとか何とか、ずっと騒いでたっけ」
言い知れない、虚無感に襲われた。
「今度、ダブルデートしようって」
「何言ってるんだ? あいつは」
「あら、いいじゃないの。すごく楽しそう。ねえ? 花音ちゃん」
横で聞いていた、お母さんまでが浮かれた調子で、話に参加し出す。さっさと、部屋に戻っていればよかった。ショックだと思うこと自体、嫌で、気持ちが悪い。
「日菜……?」
ドアまでたどり着く直前、蒼ちゃんの座っている椅子にぶつかった。
「ごめん、ね」
我ながら、上手に笑えたと思う。泣いている自分を無視されるのは、つらすぎるから。
自分の部屋のドアを開けた瞬間、震える体を足で支えることができなくなった。倒れ込むようにベッドに横になって、毛布にしがみつく。
怖い。どうしようもなく、怖い。わたしのお腹の中に、本当に命が宿っていたら、どうなってしまうんだろう?
「どうしよう……? お母さん、どうしたらいい?」
助けを求められるのは、天国にいるお母さんと、記憶の中の蒼ちゃんしかいないの。
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