第10話 慟哭
ファミレス、マンガ喫茶、ネットカフェ……。頭の中で、なんとなく聞き知った単語を羅列する。こんなとき、泊まりにおいでと言ってくれる友達が存在しないことが、こんなに悲しいなんて。
『妹だか何だかわからない人』
三浦さんのその言葉が、わたしの全てを象徴している。
さっき挙げた場所には、行く気になれない。自分でも、どこに向かっているのかわからないまま、着いたのは、誰が出るのかわからない、いつものライブハウス。
結局、海老名くんに会えるのを心のどこかで期待しているのかもしれない。ショックも受けたし、拒絶してしまったけれど。たとえ、わたし一人にじゃなくても、わたしを好きだと言ってくれた海老名くんに……と、そのとき。
「海老名ってばあ」
ロビーの方から、一度耳にこびりついたら離れない、ハスネさんの声が聞こえてきた。
……海老名くんが来ていた。でも、ハスネさんと一緒にいる海老名くんは、二度と見たくない。これから出演するバンドの演奏を聴くのもやめて、出ようとしたんだけれど。
「なんで、飲まないの? あの子のことでも気になるわけ?」
面白くなさそうに声を上げた、ハスネさんの言葉に後ろ髪を引かれてしまった。
「あの子?」
面倒そうに応える、海老名くん。
「何しらばっくれてるの? ライブの日、裏でわたしたちのこと見て逃げてった、あの子だって。この前も、一緒に渋谷にいたでしょ?」
やっぱり、わたしのことだ。
少しでも。ほんの少しでも、わたしは海老名くんの特別な何かになれていた? そんな小さな希望を、胸に抱いた。
「あの女、蒼太の妹だよ」
「え? 嘘!」
驚いたようすで、ハスネさんが大きく反応した。今の言葉は、わたしにも予想外だった。さっきの話と、わたしが蒼ちゃんの妹だということが、どうつながるというんだろう?
「ああ……なーんだ。そういうこと」
しばらくの間のあと、おかしくてたまらないというようすで笑い出した、ハスネさん。
「海老名、コンプレックス持ってるもんね。蒼太くんに」
わたしの淡い期待が、だんだんと得体の知れない嫌なものに変わっていく。
「なんだ、そっかあ」
もう一度、楽しそうに含み笑いをして、ハスネさんは満足げに海老名くんの腕に抱きついた。
「妹傷つけて、楽しもうとしてたんだ? いい性格してる、本当」
「…………」
何かが崩れる音がする。できることなら、海老名くんと関わる前に時間を戻したい。
「蒼太くん、バカみたいにストイックだしね。海老名とは大違い。あはは」
そんなハスネさんの笑い声を背に、震える足を引きずりながら、店をあとにしようとすると。
「…………!」
出口のところで、ちょうど中に入ろうとしていた人の胸に、ぶつかってしまった。
「すみませ……」
うつむいたまま、謝ろうとしたら。
「いえいえ」
上から、聞き覚えのある声。
「あ……」
「日菜ちゃんじゃん」
人懐っこい笑顔を浮かべる三上くんが、目の前に立っていた。
「あの……」
「どうしたの?」
わたしが涙を
「そうだ。三浦が泊まりに行ってるんだっけ?」
「……うん」
かろうじて、返事をした。
「ひどい話だよね、それ。日菜ちゃんの居場所、ないじゃんね」
声にならなかったから、無言でうなずく。わたしの立場を理解してくれる人が、やっと目の前に現れてくれた。そのうれしさに、なおさら涙を止めることができなくなる。
「そうだ。よかったら、なんだけど」
少し間を置いて、三上くんが続けた。
「うち、来る?」
「え……?」
純粋に、うれしかった。わかってもらえただけでなく、手まで差し伸べてもらえるなんて。でも。
「そんなわけには、いかないよ」
こんなわたしを好きだと言ってくれたあと、返事も無理強いしないでくれた三上くんに甘えて、関係もあいまいなままにしていたのに。今だけ、調子よく頼ったりなんかできない。
「いや。この前も嫌な場面も見せちゃったみたいだし、お詫びさせてくれない? 俺の部屋、離れになってるから、友達泊めやすいし。俺、弟の部屋で寝るよ」
一生懸命、説得しようとしてくれている、三上くん。
「でも……」
いきなり、部屋に泊めてもらうなんて。
「ね?」
心が緩む、優しい笑顔。
「海老名の件では、俺も少しは傷ついたし。これで俺の気もすんで、全部帳消しっていうのは?」
「三上くん……」
今度は、いたずらっぽく笑う三上くんを見て、思った。どうして、こういう人を好きにならなかったんだろう?
「たくさん、CD持ってるんだね」
「そう?」
初めて見るも同然の、男の子の部屋。
「蒼太の方が多いんじゃないかな」
「……もう、何年も入ったことないから」
壁一枚、隔てているだけなのに。今は、三浦さんがあの部屋の中にいるんだね。
「ああ、そっか」
妙に納得したようすの三上くん。
「あの……本当に、どうもありがとう。あとは、一人でも大丈夫」
もう遅い時間だし、ずっとわたしといても、気まずいはず。それとなく、別々の部屋に分かれることを促してみると。
「やっぱり、本気にしてたんだ?」
「え……?」
突然、クスクスと笑い出す三上くんを見上げた。
「弟の部屋で寝るっていうの」
なぜか、わたしの目に映る三上くんが、知らない人みたい。
「俺、弟なんていないんだよね」
「どう……」
体が硬直して、動かない。
「眼鏡取ってよ、日菜ちゃん」
「あ……」
怖くて、声も出ない。
「邪魔だし、似合わないよ。それに、困るでしょ? 割れたら」
三上くんの手で、眼鏡が外される。
「やめ……て」
往生際悪く、冗談であってほしいと願っても。
「この前は、バカにしてくれたよねえ? 俺のこと
「きゃ……!」
そうでないことは、わたしを床に押し倒してきた三上くんの腕の力の強さから、明らかだ。
「お願いだから、やめて」
一語一語、ゆっくりと三上くんの目に訴えかけてみたけれど、何の意味も成さなくて。
「人がいいな、日菜ちゃんは」
むしろ、わたしのそんな反応を楽しんでいるようにすら、感じられた。
「や……」
「服も。破れたら、帰れなくなっちゃうよ」
どんなに
「蒼、ちゃ……」
蒼ちゃん。助けて、蒼ちゃん。
小さい頃から、蒼ちゃんに頼ることしかできなかったわたしは、それしか出てこないの。
「蒼太に言うって?」
馬乗りになって、わたしの服のボタンを外しながら、おかしそうに三上くんが見下ろしている。
「全部、クラスのやつに聞いたよ。日菜ちゃん、愛人の子で、蒼太にも煙たがられてるんでしょ? 脅したりしても、無駄だから」
「ち、が……」
そうじゃない。否定しても意味はないけれど、そうじゃない。
「それに、その蒼太も」
三上くんが、クッと小さく笑った。
「今頃、部屋で三浦とやりまくってるんだろ? ああ、海老名もね」
「…………」
体中のありとあらゆる力が、どこかに抜けていくような気がした。意識そのものが、わたしから離れていく。
「本当、日菜ちゃんの顔、タイプ。体も期待以上だし」
目を閉じた。目を閉じて、幸せだった頃の記憶を手繰り寄せる。こんなときでさえ、わたしを救ってくれるのは、昔の記憶の中の蒼ちゃんしかいない。
『日菜は、可愛いよ』
そう言って、幾度となく髪を撫でてくれた、蒼ちゃんの手の温かさ。そして……。
「あれ? もしかして、初めてだった?」
わたしを泣かせた子たちに仕返ししてくれたあとに、必ず握ってくれた手の力強さ。そう。記憶の中に宝物なら、いくらでもある。
「へえ。とっくに、海老名にやられてると思ってたのに。ちょっと感動」
吐き気のするような感触にも言葉にも、目を閉じて。
「そうそう。そのまま、力抜いててね」
今の自分の存在を、なかったことにするの。
「日菜ちゃん、最高」
そうだよ。だって、存在しないのと同じ。
今、この瞬間に、わたしのことを考えてくれている人なんて、この世界中に一人もいないのだから。
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