第9話 孤独



「ただいま……」


 玄関のドアを開けると、見覚えのある靴が視界に入った。


「すみません。じゃあ、またあとで」


 それと同時に、ちょうどリビングから出てくる、三浦さんの声。


「あ。日菜ちゃん、お帰りなさい」


 わたしに気づいて、明るい笑顔を浮かべてくれる。


「こんにちは」


 同じように笑えない自分を恥じながら、わたしは頭を下げた。


「部屋にまで入ってくるなよ」


 続いて、中にいるお母さんに釘を刺しながら、蒼ちゃんが廊下に出てきた。


「あ……ただいま、蒼ちゃん」


「三浦、こっち」


 思ったとおり、わたしの存在は無視されたまま。


「うん。ごめんね、日菜ちゃん。また、ご飯のときに」


「うん、また」


 さっきの三浦さんの顔を思い浮かべて、真似しようとしたんだけれど、きっとゆがんで、見るに耐えない表情になっている。


 少したつと、キッチンの方からは、お母さんと三浦さんの楽しそうな笑い声。結局、逃げ場のないわたしは、iPodのスイッチを入れるしかない。


 今日は学校を休んでいた、海老名くん。ライブのあと、あれだけお酒を飲まされていたら、登校できるわけがない。


 意識は、ほとんどなかったとはいえ、あんなふうになることがわかっていて、お酒を飲んだり、ハスネさんと関わったりするのは、海老名くんの意思。


 ……我慢しなくちゃいけないのかな。こんなわたしが、自分の好きな人に触れてもらえるだけで。


「日菜ちゃん、いない? 日菜ちゃん」


「あ、はい……!」


 とっくに、イロイッカイズツの曲は再生し終わっていたのに、しばらくしてから気づいた三浦さんの声とノックの音に、あわてて部屋のドアを開ける。


「ご飯だよ、日菜ちゃん」


「ごめんね。手伝ってもらっちゃったみたいだね、夕食の準備」


「ううん」


 逆に申し訳なさそうに首を振る、三浦さん。


「わたしの方こそ、ごめんね。いろいろ、図々しいよね。わかってはいるんだけど、お母さんに気に入ってもらいたくて」


 三浦さんは、わたしにないものを全て持っている女の子。そんな気がした。


「日菜ちゃん?」


「あ……何でもないの。そんなこと、気にしないでね。今、わたしも下りていく」


 なんとなく、一緒に部屋に入ることがためらわれて、一呼吸置いてから、わたしもダイニングに向かう。テーブルでは、お母さんが機嫌よく料理を取り分けていた。


花音かのんちゃんのおかげで、今日はごそうよ」


「花音ちゃんだなんて、馴れ馴れしすぎるだろ?」


「ううん。お母さんに名前で呼んでもらえるなんて、うれしい」


 顔をしかめる蒼ちゃんに、三浦さんが笑顔で返す。その笑顔が本物であることは、わたしにもわかる。明るくて、素直な三浦さん。蒼ちゃんにも、お母さんにも好かれるわけだ。


「今日だって、CD渡すために寄らせただけだったのに」


「おかげで花音ちゃんとおしゃべりできて、よかったわ。味の好みもね、とっても似てるの」


 極力、自分の存在を消しながら、料理を口に運ぶ。味がわからない。


「ねえ、花音ちゃん。もしよかったら、今度買い物にでも……」


 と、そのとき。


「あら。ちょっと待っててね」


 お母さんが、リビングに鳴り響いている電話を取りに行った。


「おかわり、よそる? 日菜ちゃん」


「ううん、大丈夫」


 三浦さんが、一生懸命に気遣ってくれているのもわかる。それなのに。


「蒼太くんは?」


「ありがとう。じゃあ、半分くらい」


「はーい」


 こうして、二人の距離が縮まっていくようすを目の当たりにするたび、居心地の悪さを感じてしまうのは、しようがないこと。


「席立っちゃって、ごめんなさいね」


 戻ってきたお母さんに、少しだけほっとしたけれど。


「週末、また叔母のところに行くことになったのよ」


 続くお母さんの言葉に、体が固まった。


「花音ちゃん、泊まりにきてくれない?」


「えっ?」


 驚いた表情で顔を上げる、三浦さん。


「いったい、何考えてるんだよ?」


 もちろん、蒼ちゃんも。


「やっぱり、だめかしら?そんなにしょっ中、蒼太と日菜が二人きりになるのもどうなのかと思って」


「…………」


 あきれた視線をお母さんに送る、蒼ちゃん。そんなことをお母さんに言われてしまったら、わたしもどんな顔をしていたらいいのか、わからない。そこで。


「わたしなら、全然大丈夫です」


「あら、本当?」


 むしろ、うれしそうに答えた三浦さんに、お母さんは目を輝かせる。


「うち、放任主義ですし、お手伝いしにきます。あ……でも、他の人には、そんなことしてるわけではないですけど」


 この流れで、蒼ちゃんが断る理由はない。


「ごめん、三浦」


 蒼ちゃんが何とも言えない表情を三浦さんに向けて、ため息をついても。


「ううん」


 そう、ニッコリと笑う三浦さんのことを、お母さんが満足げに見る。


「なら、決まり。花音ちゃん、お願いね」


「はい。お役に立てて、うれしいです」


 一瞬だけ、蒼ちゃんと目が合ったけれど、わたしの発言なんて、当然ながら誰にも求められていない。自分の分の食器をシンクに運んで、そっと部屋へ戻った。





「おはよう、宮前さん」


「おは、よ……」


 めずらしく、自分から声をかけてきた、海老名くん。自然なあいさつを返すことができず、声が詰まった。


「怒ってる?」


 席に着いた海老名くんが、わたしをのぞき込む。


「……ううん」


 海老名くんが机の横にかけているバッグに意味もなく目をやりながら、答えた。


「あきれてる?」


「ううん」


「じゃあ、何?」


 逆に、聞き返してみたい。わたしという人間は、海老名くんにとって、いったい何なのだろう?


「宮前さんのこと、好きだよ。それじゃ、だめ?」


「……よく、わからない」


「宮前さんは、独占欲とかない人だと思ってたのに」


「そんなんじゃない」


 わたしが強く言い放つと、海老名くんは少し驚いた反応を示した。


「とにかく、もういいの」


 海老名くんが自分に正直なだけなのは、わかる。でも、やっぱり、わたしには無理。そんなお父さんのせいで、何人も振り回されたり、傷ついたりしているのを見てきている。


「……わかった」


 それなのに、そんなふうに寂しそうにつぶやく海老名くんを、ひどいとも思う。





 約束の週末。


「じゃあ、花音ちゃん。蒼太のこと、お願いね」


「はい。お母さんも、お気をつけて」


「いいから、早く行けよ。父さんが駅で待ってるんだから」


「あらあら。そうね、邪魔者はいなくならなきゃね」


 学校が終わると、すぐに来てくれた三浦さんと入れ違いに、お母さんが家を出て行く。こんなときだけれど、三浦さんの存在のおかげかお母さんは楽しそうで、わたしはあいさつするタイミングもなかった。


「よし、と」


 持参したエプロンをつけて、早速キッチンへ向かおうとする、三浦さん。


「じゃあ、夕食の準備でもしちゃおうかな」


「いいよ。少し、ゆっくりしてろよ」


「ううん。蒼太くんは、部屋で待ってて。わたしに任せて」


 気遣う蒼ちゃんに、うれしそうな表情を見せながらも、三浦さんが強引に蒼ちゃんを部屋に戻らせる。わたしにとっては、ありがたい。三浦さんを手伝いたかったけれど、蒼ちゃんがそばにいたら、それもできないと思っていたから。


「あの、わたしにもできることがあったら、するね」


「わあ、ありがとう。えっと……そしたら、にんじんの皮をむいてもらってもいい?」


「うん」


 断られなくてよかった。玉ねぎを切っている三浦さんの隣で、にんじんをまず洗う。


「何作るの?」


「あのね、トマト味の洋風肉じゃが。男の子受けしそうな料理、いろいろ研究してきちゃった」


「そっか」


 蒼ちゃんに好かれようと一生懸命な三浦さんを、素直に微笑ほほえましいと思う。


「切り方は、どんなふうにすればいい?」


 と、なんとか皮をむき終えて、何もわからないわたしが、次の工程を教えてもらおうとしたときだった。


「ねえ、日菜ちゃん」


 突然、改まった調子で、三浦さんが口を開いた。


「あ……何?」


 一瞬で、のみ込めた。今、三浦さんは意図的に、わたしと二人になりたかったんだろうって。


「わたし、蒼太くんとつき合えるのが夢みたいなの。今まで、たくさんの女の子から告白されてきたけど、そういうことには興味なさそうだったから」


「……うん」


 三浦さんが一区切りつけたところで、相づちを打つ。


「だから、蒼太くんとずっとうまくやっていきたいと思ってて……そのために、蒼太くんのこと、よく知りたいの」


 そこまで言うと、三浦さんはまっすぐにわたしの目を見た。


「蒼太くんと日菜ちゃんって、どんな関係なの?」


「それは……」


 わたしの口から、簡単に明かせることじゃない。


「それは、蒼ちゃんか、お母さんに……」


「お母さんは、事情があって預かってるだけって言うのに、蒼太くんは妹だって言うし。これから、日菜ちゃんとどう接していけばいいのか、わからないの」


 お母さんと蒼ちゃん、両方の気持ちがわかる。


 何があっても、わたしがお父さんの子供だとは認めたくない、お母さんの気持ち。そして、こんなわたしでも、血が半分つながった妹だから、一緒に住むのもしようがないと割り切ろうとしている、蒼ちゃんの気持ちが……。


「日菜ちゃん?」


「ごめんね、三浦さん」


 わたしが言えることは、ひとつしかない。


「蒼ちゃんが彼女を作らないできたことは、わたしも知ってる。そんな蒼ちゃんが三浦さんを選んだんだから、うまくいかないはずがないよ」


 わたしとは何もかも正反対な三浦さんなら、きっと。


「今日も夕食が終わったら、わたしは自分の部屋にいるから。わたしには気を遣わないで、蒼ちゃんと過ごしてね」


「う……ん」


 納得のいかない表情を浮かべられ、自然と会話は少なくなりながらも、わたしたちはどうにか夕食の準備を終えた。





「たくさん食べてね、蒼太くん」


「すごい。うまそう」


 ダイニングのテーブルに着いた蒼ちゃんが、素直に感心したようすで声を上げた。


「そうでしょ? ほとんど、日菜ちゃんがやってくれたんだけど」


「そんな! わたしなんて、にんじんの皮をむいたくらいで……」


 三浦さんがわたしを気遣ってくれればくれるほど、微妙な空気が流れてしまう。


「……言わなくても、わかるよね」


 全然おかしくないのに、少し笑いながら、誰に向けてでもなくつぶやいた。二人を邪魔したいわけじゃない。最低限のことだけしたら、わたしは引っ込むつもりだと、わかっていてほしい。


「ごちそうさまでした」


 ちょうどよく、ほぼ同時に蒼ちゃんと三浦さんが食べ終えて、箸を置いた。


「片付けは、わたしがやるから。三浦さん、あとは蒼ちゃんと二人で。ね?」


「でも……」


 ちらりと蒼ちゃんを見る、三浦さん。わたしと蒼ちゃんの目が、一瞬合った。


「いいんじゃん? そう言ってくれてるから」


「うん。じゃあ……ありがとう、日菜ちゃん」


「ううん」


 すんなり了承してもらえたことに安心して、二人を送り出す。でも、やっぱり、一人残されたテーブルは寂しくて、そんなふうに感じる自分に苦笑いせざるをえない。


「そうだ」


 使った食器をシンクに運んで、スポンジを手に取ろうとした時点で気がついた。iPod を取りに行こうと、自分の部屋へ向かう。


 あんなところを見てしまっても、不思議と海老名くん自身や声への嫌悪にはつながらず。結局、イロイッカイズツの音楽を聴くことくらいしか、わたしは自分を慰めるすべを知らなくて……と、そのとき。


「うん、そう。蒼太くん、今、お風呂に入ってる」


 蒼ちゃんの部屋の中から、友達と電話で話をしている三浦さんの声が聞こえてきた。立ち聞きにならないよう、すぐに用を済ませて、キッチンに戻ろうと思ったんだけれど。


「うん。やっぱり、一緒に住んでる子の噂は、本当っぽい」


 自然と、足が止まる。


「悪い子ではないんだろうけどね、でも……」


 嫌な緊張感で、三浦さんの次の言葉を待った。


「そう。自分の友達の家に泊まりに行くとか、気を利かせてくれると思ってたのに」


 ……そうだ。それくらいのこと、どうして思いつかなかったんだろう?


「えっ? やだ、妹だか何だかわからない子が隣の部屋にいたら、蒼太くんも手なんか出せるわけないじゃない。蒼太くんだって、あの子のこと……」


 続きは怖くて、聞いていられなかった。音を立てないよう静かにキッチンに戻ると、ざっと水で流した食器を手早く食洗機の中にセットした。


 そして、ちゃんと足音が聞こえるように自分の部屋に戻り、バッグの中に財布とiPod を詰めてから、隣の部屋をノックする。


「ごめん。日菜……です」


「日菜ちゃん?」


 ドア越しに声をかけると、いつもの笑顔の三浦さんが出てきた。


「どうしたの? 蒼太くんなら、お風呂だけど……」


「あのね、急なんだけど、友達が連絡くれて」


 慣れない嘘に、笑顔が引きつる。


「お母さんがいないなら、泊まりに来ないかって」


「そっかあ」


 やっぱり、三浦さんはうれしそう。どうして、こんなことに自分で気づけなかったのか、情けなくなる。


「もう、すぐに出るから。蒼ちゃんには、三浦さんから伝えておいてくれる?」


「わかった。家のことは気にしないで、楽しんできてね、日菜ちゃん」


「ありがとう」


 行く当てのない心細さで、泣きそうになるのを必死で抑えていたんだけれど、幸い三浦さんには気づかれないで、普通に家を出られた。


 これで、少しは蒼ちゃんにも見直してもらえるかな。いなくなることでしか、蒼ちゃんの役に立てない自分が悲しいけれど、今も昔も変わりなく、わたしは蒼ちゃんの幸せを願っているんだよ。



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