第8話 傷心
「おじゃましました。図々しくごちそうになってしまって、何から何まで、ありがとうございました」
「いいのよ。楽しかったわ、本当に」
水を飲もうとキッチンに向かう途中で、機嫌のよさそうな、お母さんの声が聞こえてきた。一応、あいさつをするべきかもしれないと思って、そっと顔を出す。
「お母様がいらっしゃらないとき、また気軽に遊びに来てくれないかしら。ね?」
やっぱり、これほどまでに楽しそうなお母さんを見るのは、初めて。
「何、面倒なことを言ってるんだよ? もう、来てもらう理由なんてないのに」
三浦さんを気遣っている、蒼ちゃんだけれど。
「あ……はい、うれしいんですけど、宮前くんの言うとおりなんで」
そこで、寂しそうに笑う三浦さんの気持ちは、明らか。
「蒼太、なんてひどい言い方をするの?」
お母さんも過剰に反応する。
「来る理由がないなんて。三浦さんのおかげで、わたしがどんなに……」
「三浦の迷惑にならないように言っただけだろ? 三浦のこと、困らせるなよ」
「ああ、そういうことね。安心したわ」
聞いているのが、つらい。
「じゃあ、失礼します」
控えめに笑って、三浦さんが頭を下げたときだった。
「駅まで送ってくよ。遅いから」
蒼ちゃんが、当然のように靴を履いた。
「そうね、それがいいわ」
「誰のせいだと思ってるんだよ?」
はしゃいでいるお母さんを、面倒そうにあしらうと。
「ごめん。行こう」
「あ、うん!ありがとう」
三浦さんを連れて、外に出ていった蒼ちゃん。学校では、常に女の子に騒がれ続けていた蒼ちゃんだけれど、蒼ちゃんが女の子と二人でいるところを見たことは、今までになかった。
「本当、いい子だったわ」
わたしがいることに気づいているのかいないのか、独り言にしては大きすぎる声で、お母さんが満足げにつぶやく。聞いていなかったふりをして、冷蔵庫を開けると、常備してあるはずのミネラル・ウォーターが切れていることに気がついた。
「あの……お水、買ってきます」
「そう。お願いね」
わたしと正反対の三浦さんをよっぽど気に入ったのか、浮足立ったようすのお母さんに、お金を渡された。
「行ってきます」
夜風に当たって、頭も冷やしたいような気分だったから、ちょうどよかった。iPodをポケットに忍ばせれば、家にいるよりもよっぽど……と、そのとき。
「あ……」
家から少し離れた場所で立ち止まって話をしている、蒼ちゃんと三浦さんが視界に入ってきた。
こんな、ようすを
「…………」
泣きそうになりながら、真剣に何かを蒼ちゃんに訴えかけている、三浦さん。次の瞬間、その表情が明るく変わった。
離れた場所からでも、それが意味することはわかる。蒼ちゃんに、彼女ができた瞬間 —————— 出会ったときから、ずっと憧れ続けて、いちばん近くにいたのに、いちばん遠くにも感じていた、蒼ちゃんに。
お互いの前に現れた、大切な人。やっと、蒼ちゃんの荷物にならずにすむのだから、よろこばなきゃいけない。
……でも、蒼ちゃん。蒼ちゃんも、今のわたしみたいに何とも言えない寂しさを少しは味わったりしてくれた?
「おはよう」
「ああ、うん」
相変わらず、学校で声をかけても、素っ気ない態度の海老名くん。
「もうすぐ、ライブだね」
「言われなくても、わかってる」
機嫌の悪さは、最高潮。
「もう、嫌だ。練習、キツすぎる」
海老名くんは、気まぐれな猫みたい。
「蒼ちゃんに、しごかれてるの?」
「そう」
今度は、ふてくされた表情で、子供みたいに口を
「宮前さんが、蒼太のこと、うまく言いくるめてくれないんだもん。女ができて、なおさら張り切ってんだか何だか知らないけど」
「そう……なのかもね」
期せずして、蒼ちゃんと三浦さんの関係を再確認することになった。
「宮前さん」
「ん?」
「学校終わったら、どっか行かない? 二人で。練習、サボるから」
びっくりしたけれど。
「うん」
くすぐったいような気持ちで、返事した。
「蒼太には、宮前さんからメールでもしといてね」
「できるわけない、そんなこと……!」
人目も気にせずに大きな声を上げてしまうと、おかしそうにクスクスと笑う、海老名くん。
「嘘だよ。ちゃんと、俺が連絡しとく。仮病使うし、大丈夫だよ」
「……うん。そうしてね」
海老名くんは、フワフワしていて、いまだにつかめない。でも、今みたいに幸せな気分を味わわせてくれるのは、海老名くんだけ。
「どっか、行きたいところある?」
連れてきてもらったのは、海老名くんがよく寄っているという、渋谷の街。
「えっと、海老名くんの好きな店とか」
「うーん……」
夕方の渋谷を制服姿で歩くなんてこと、初めて。しかも、隣には海老名くんがいる。こんな気持ち、周りの人はとっくに経験しているのかな。
ドキドキして、胸が苦しいくらいなのに、それでも、ずっとこのままでいたいと願う、そんな気持ち……。
「たいてい、CDとか見てるかな。タワレコか、ユニオンで」
「えっ? 何?」
海老名くんの声で、我に返る。
「ほら、あそこ。つき合って、とりあえず」
海老名くんが指を差した先は、どこかで見たような赤と黄色のロゴが目立つ、大きな建物。ちょうど、交差点の青信号が点滅するところだった。
「行こう」
「あ、うん……!」
自然に海老名くんに手をとられて、わたしたちは走り出した。
海老名くんが好き。海老名くんといると、自分が自分じゃないみたいになる。家にいるときの息苦しさでさえ、全て忘れられるの。
「こんなにいっぱいCDがあるなんて、びっくり」
初めて足を踏み入れた、大型CDショップ。
「宮前さん、音楽に全然興味なさそうだもんね。相変わらず、iPod にもイロイッカイズツしか入ってないんでしょ? どうせ」
「う……ん」
恥ずかしくなって、意味もなく、目の前の棚のCDを引き出したりする。
「何見てんの? いきなり、バズコックス? いやらしい」
突然、わたしが手に取ったCDをのぞき込んで、ひやかしてくる海老名くん。
「いやらしい? そ、どうして?」
わけがわからなくて、動揺してしまう。
「ごめん、からかっただけ。バズコックス、大好き。EVERYBODY'S HAPPY NOWADAYS とか、永遠の名曲。何度でも聴いてられる」
そう言って、無邪気な少年みたいに笑う海老名くんに、ドキリとさせられる。
「持ってきてあげるよ、今度」
「うん。海老名くんの好きな曲なら、聴いてみたい。ありがとう」
好きなんだろうな、音楽が。きっと、蒼ちゃんも、こんなふうに……と、そのとき。
「海老名じゃん。ひさしぶり」
不意に、横から香ってきた、甘い匂い。
「ああ、ハスネちゃん。べつに、ひさしぶりでもないと思うけど」
海老名くんがゆっくりと顔を上げて、わたしたちの前に現れた少し年上っぽい女の人に、慣れた調子で応える。
「あれ? めずらしいタイプの子、連れてる」
「うん。まあね」
自然と、わたしに注がれる視線。
「ふふ。こんにちは」
ハスネさんと呼ばれた人は、当然のように、わたしにも声をかけてくれた。独特な、ふわふわした笑顔。
「あ……はじめまして」
あわてて、わたしも頭を下げる。服を上手に着こなして、スタイルもいい、モデルさんみたいに綺麗な人。
「可愛いんだあ。海老名、やるじゃん」
社交辞令であることはわかっているけれど、最初に予想した敵意のようなものは感じられない。
「うん。この人のおかげで、退屈しないよ」
海老名くんは、こんな人と普通に関わっているんだ。
「今週末だっけ? ライブ」
「そう。ハスネちゃんも来てくれるんでしょ?」
バンド関係の友達、かな。そう思った瞬間。
「行くけどさあ。それよりも」
ハスネさんが海老名くんに腕を絡めた。
「最近、家に泊まりにこないじゃん。どうして?」
「なんか、疲れてて」
「あはは。最近、バンドに気合い入ってるもんねえ。海老名以外」
わたしの耳の奥までよく届く、ハスネさんの笑い声。
「じゃあ、今日は彼女に悪いから、またね」
「ああ、うん」
軽く手を振り合って、ハスネさんが遠ざかっていく。
“ 海老名”って呼んでたし、綺麗な人だったけれど、顔のパーツは全く似ていないから、お姉さんとかではないよね。
「ごめんね、宮前さん」
「あ、ううん」
凝視していたことを悟られないように、視線をそらした。
「あの、今の人は……?」
それくらい、聞いてもおかしくないはず。
「友達、かな」
悪びれずに答える、海老名くん。
「……そっか」
たしかに、異性の友達と家に気軽に泊まり合う人も、中にはいるかもしれない。でも、それに違和感を覚えるのは、わたしにはそんな関係の人がいないからなのか、どうなのか……と、そこで。
「そういえば、今日」
急に思い出したように、海老名くんがわたしを見る。
「うん。何?」
モヤモヤした気持ちを抱えながら、自然を装って返事すると。
「親、深夜まで帰ってこないんだよね。だから、家に来ない? つまんないでしょ? こんなところにいても」
「え……?」
よっぽど、大きく目を見開いていたのか。
「何? その顔」
そんな提案を、きっと何の気なしにしてきた海老名くんに、思いきり笑われた。
「えっと……」
そんなことになるとは、考えてもいなかった。いろいろな思いが頭の中を駆けめぐる。
「宮前さん?」
海老名くんに顔をのぞき込まれると、感覚が
「……もし」
わたしを好きだと言ってくれた海老名くんの言葉を、どこまで本気にしていい?
「もし、今わたしが断ったら、海老名くんは違う女の人を呼ぶの?」
さっきのハスネさんのような人を、当然のように。
「呼ばないよ」
わたしの心を見透かしたように、ふっと笑う海老名くん。
「自分の家になんて、男しか呼んだことないし」
「わたし……」
そこで、海老名くんの携帯に、メールの着信音。
「あ」
携帯を取り出して、内容を確認した海老名くんが、顔をしかめた。
「どうしたの?」
「蒼太から」
携帯の画面を前に突き出された。
「ハスネちゃんが三上によけいなメールを送って、さぼってるだけなのがばれたみたい。遊んでる時間があったら、すぐスタジオに来いって。行かなきゃ」
大きくため息をついてから、わたしを見る、海老名くん。
「ほっとしたって顔、してる」
「だって……」
誰もいない階段の陰で、意地悪く笑った海老名くんに、軽くキスされた。
「もっと宮前さんに好きになってもらえるように、練習してくる」
「イロイッカイズツを? それとも、海老名くんを?」
「両方」
「……両方、これ以上好きになれないくらい、好きだよ」
「可愛いな、宮前さん」
信じていいよね? もう、わたしには海老名くんしかいないから。
イロイッカイズツのライブ終了後、いつもの会場で曲の余韻に浸っていると。
「もしかして、日菜ちゃん?」
後ろから、聞き慣れない女の子の声。
「三浦……さん」
「よかった。やっぱり、日菜ちゃんで。感じが違うから、迷っちゃった」
安心したように、ふわりと笑う三浦さんが、目の前にいた。
「びっくりしちゃった。宮前くんがバンドやってるのは、前から聞いてたんだけど。まさか、こんなに人気のあるバンドだとは思わなかった。日菜ちゃんは、よく聴きに来てるの?」
「ううん。そんな、何回もは」
改めて、素直な可愛い子だと思いながら、首を振る。
「そっか。わたしもこんな場所に慣れてないから、緊張しちゃって」
と、三浦さんが、ほっとした表情を浮かべたとき。
「三浦」
聞こえてきたのは、今度は蒼ちゃんの声。
「宮前くん」
三浦さんの頬に、綺麗な赤みが差す。
「ここにいたのか。ずっと探して……」
そこで、三浦さんと話していたのが、わたしだと気づいたようすの蒼ちゃん。海老名くんが、わたしと会うために練習を休もうとしていたことを蒼ちゃんに知られてから、蒼ちゃんとの関係は、なおさら悪化してしまったような気がする。
「遅くなっちゃったから、送っていくよ」
もちろん、彼女の三浦さんだけに向けてる、蒼ちゃんの言葉。
「うん!あ、日菜ちゃんも、よかったら一緒に」
「ううん。わたしは大丈夫だから」
そんなこと、できるわけがない。逃げるように、二人から離れた。それに、ただでさえ、ステージの上の海老名くんを見て、置いていかれたような気持ちになっているのもあるから、無性に海老名くんと話したくてたまらない。
「どうしよう……」
携帯が繋がらない。こんな人混みの中、海老名くんを見つけることができるのか、途方に暮れていたときだった。
「海老名、探してんの?」
ちょうど、わたしの立っていた正面のドアが開いて、近づいてきたのは。
「三上くん」
「なんか、ひさしぶりだね」
あれから、ちゃんと話をする機会もなくて、気まずい思いでいたけれど。
「ごめんね、三上くん。わたし、ずっと謝りたいって……」
「いいよ、全然。気にしてないよ」
初対面のときみたいな笑顔を見せてくれた、三上くん。よかった。三上くんのことは、ずっと心の奥に引っかかっていたから。
「この部屋、控え室なんだけどさ。奥の方に海老名いるから、会いに行きなよ」
「でも……」
控え室なんて聞くと、
「大丈夫。みんな、適当に友達入れたりしてるから」
「そっか……ありがとう」
ニッコリ笑って、さらりと去っていった三上くんに感謝しながら、真っ黒な重いドアを開けてみると、思ったよりも広い空間。壁一面に貼られたポスターや古いソファが、独特な空気を放っている。
「海老名くん?」
ぱっと見たところ、誰もいないみたいだけれど、三上くんはたしかに、海老名くんがここにいるって……と、そのとき。
「ふふふ」
奥のパーテーションの向こう側から、複数の女の人の笑い声が耳に入ってきた。嫌な何かが、背中を駆け抜ける。
目を背けた方がいい。そう、頭ではわかっているのに、パーテーションの向こうで起きていることを確かめようと、体が勝手に前へ進んでいく。
「ねえ。海老名ってば」
「だめ。全然、起きない」
やっぱり、海老名くんがいる。ためらいはしたけれど、心を決めて、声のする方に足を踏み入れると、そこには。
「脱がせちゃおうか?」
酔っ払って、ぐったりしている海老名くんをソファに沈ませて、
「やめ……て……」
「え?」
シャツをめくり上げて、海老名くんの上半身に舌を
「ああ、この前の。ヒナちゃん、だっけ?」
「こんな……」
屈託なく反応するハスネさんに違和感を覚えながら、声を発する。
「こんなこと、やめてください……海老名くん、意識もない、じゃないですか」
その間にも、隣の女の人が海老名くんの下半身をまさぐり始めている。もう一人は、海老名くんの手を自分の服の中に入れて……。
「海老名はね、みんなのものなの」
ハスネさんが、海老名くんの薄い唇に自分の唇を近づけると。
「ん……」
「ふふ。海老名、可愛い」
一定の間隔で、舌と舌が絡む音が響く。
「や……」
体が動かないし、口もきけない。
「海老名のこと、好きなんでしょ? ヒナちゃんも、こっちに来る? 何でもしていいよ」
「可哀相だって、ハスネ。あ、ほら、見てよ」
そこで、目の前の光景に耐えられなくなって、わたしは
「すみません」
うつむいた状態で走っていたら、不意に人にぶつかった。
「蒼ちゃ……」
ちょうど、三浦さんを送ってきたところなのか、蒼ちゃん一人。
「これは……」
あんなことを言った手前、泣いているところは見られたくなかった。必死で、指で涙を拭ったんだけれど。
「自業自得だよ」
わたしの方になんて、顔も向けない蒼ちゃん。
「俺の周りをうろついたりするから、こんなことになるんだよ」
「…………」
一瞬でも、蒼ちゃんに期待してしまった自分が、なおさら惨めだった。こんなときになると、今でも都合よく脳裏に浮かぶのは。
『ぼくが、守ってあげる』
かつては、数えきれないくらい何度も聞いた、魔法の言葉。
「助けてもらおうなんて、思ってない。誰にも」
一刻でも早く遠くへ行きたかったけれど、走る気力も残っていなかった。人目につかないよう、舗道の端を進む。
「嘘つき……」
いっそ、海老名くんも蒼ちゃんも、最初から、わたしのことなんて無視し続けてくれればよかったのに。
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