第7話 恋慕
教室に入って、席に着いた瞬間。
「はい」
海老名くんから渡された、新しいライブのチケット。
「あ……りがと」
うれしいんだけれど。
でも、わたしの部屋でのことは、全部さっぱり忘れているんだろうね。少しだけ、納得のいかなような気持ちで、海老名くんの顔を見上げると。
「覚えてるよ」
なんだか、おかしそうに、海老名くんが笑う。
「えっ?」
多分、顔が赤くなった。
「そんな顔されなくても、ちゃんと」
「そんな顔って?」
さらっとした表情で、わたしをからかってくる海老名くんに、心を
「すごい、にらんでた」
「にらんでなんか……!」
普通に、お礼を言っただけのつもりなのに。
「目立つと、またドロドロにされるよ。上履き」
「……あ」
たしかに、感じる視線。我に返って、口をつぐもうとしたところで、横の壁に立てかけてあったギターに気づく。
「今日、練習があるの?」
「うん。オーディションが近いからって。蒼太が本気すぎて迷惑だから、どうにかしてよ」
「また、そんなこと……」
答えようがなくて、力無く笑った。と、そこで。
「でね、宮前さん」
何もなかったように話題を切り替える、海老名くん。
「そんなわけだから。このあとの日直の仕事、免除してよ」
「あ、そういえば」
今日は、わたしと海老名くんが日直だったっけ。放課後は、各クラスの担当の場所の清掃が終わるのを待って、チェックしなければ帰れないんだけれど。
「うん。いいよ」
「ありがとう」
女の子みたいに、海老名くんは綺麗に笑う。
「でも、その代わり」
「その代わり何?」
わたしが言葉を続けたことに、海老名くんが意外そうに反応する。
「海老名くんの歌が聴きたい」
「え?」
思ったとおり、目を見開かれる。
「だめ?」
「歌って、ここで?」
嫌そうに、海老名くんが眉をひそめる。
「ううん。どこでもいいから、休み時間に」
わたしのベッドを占領されちゃったんだから、一度くらい、願いを聞いてもらってもいいはず。
「変態眼鏡」
「いいの」
悪態をつく海老名くんが、おかしく感じられた。
「上履きだけじゃ、すまないんじゃないの? 今度は」
「関係ないもん。そんなこと」
「ふうん」
最後は、わたしの図々しさに、あきらめたのか。
「いいけどね。そこまで言うなら」
一応、了解してくれたみたいだった。
「本当、悪趣味」
昼休み。誰もいない音楽室の扉を開けて、ふてくされたようにつぶやく、海老名くん。
「悪趣味なんかじゃない。海老名くんの声が、好きなだけだよ」
正直、自分でも不思議。最初から、好きになってもらいたいとか期待しているわけじゃないから、こんなに開き直れるのかもしれない。
「そんなこと、言ってるけど」
と、いきなり。
「こういうことがしたいだけじゃなくて?」
海老名くんに、体を壁に押しつけられた。逃げようと思えば、かろうじて、どうにか逃げられる程度の力で。
「なんて顔してんの?」
「わたしは、べつに」
至近距離の海老名くんを見上げる。
「どうでもいいって顔」
「そんなふうには思ってない。どっちでもいいの」
「好きだな、宮前さん。全然、ガツガツしてなくて」
やっぱり、クッと独特な短い笑み。
「じゃあ、時間もないし」
そこで、すんなりと体を離し、持参したケースから、海老名くんがギターを取り出した。そして。
「んーと、昨日……」
めずらしく、歯切れの悪い海老名くん。
「昨日?」
「うん。せっかくだから、俺が昨日作った曲、聴いてよ」
「あ……うん!」
ドキドキしながら、海老名くんの目の前に座った。
「嫌だな。宮前さん相手に、緊張する」
「わたしも」
思わず、体に力が入る。
「まだ、曲名もないけど」
「うん」
そうして、簡単なギターの和音と共に歌われていく、海老名くんの曲。たしかに、普段聴き慣れたイロイッカイズツの曲とは違って、音楽に関して全くの素人のわたしにもわかるくらい、つたなさの残る曲だったけれど。
「ねえ、海老名くん」
「ん?」
どんなに普通っぽく振るまおうとしていても、さっきの海老名くんの言葉どおり、緊張しているのが伝わってきてしまう。
「この先ずっと、わたしが日直の仕事してあげる」
涙が出そうなくらい、幸せだと思った。本当だよ。
「何? それだけ?」
「だって、わたしにできることなんて……」
その続きを、海老名くんの唇に吸い取られたあと。
「最近、宮前さんが可愛く見える」
気を許してくれたような表情で、見つめられた。本気なわけ、ないけれど。
「海老名くん……眼鏡フェチ、だったとか?」
「そうかも」
慣れない言葉を使ったわたしが、面白かったらしく。
「いや、嘘だよ。そんなんじゃなくて」
楽しそうに笑った海老名くんが、先を続ける。
「宮前さんのこと、好きになっちゃったっぽい」
「え……」
あっけにとられながら、海老名くんに軽いキスを何度も繰り返された。
「……海老名くん」
キスの合間に、戸惑いながら、口を開く。
「わたし、本気にしちゃうよ」
「いいよ。でも、宮前さんが好きなのは、俺の声だけなんだっけ?」
「そんなわけない」
少し意地悪く笑う海老名くんに、首を振った。
「海老名くんが……好き」
「うれしい」
予鈴が鳴り終わるまで、長いキスをした。教室に戻ったあとも、ずっと夢を見ているような気持ちで、この先何があっても我慢していける気がした。
「ただいま」
海老名くんとの約束どおり、日直の仕事を一人ですませたあと、図書館に寄って帰宅すると。
「いいのよ、夕飯も一緒に食べていって? お母様が出かけていらっしゃるなら、なおさら。ね?」
リビングから、お母さんのめずらしく弾んだ声。足元を見ると、練習を終えて先に帰ってきていた蒼ちゃんの靴の隣に、見慣れない女の子の靴。一応、顔を出さないわけにはいかない。靴を脱いで、リビングの前まで進んだとき。
「それにしても、いいわねえ。女の子って」
お母さんの言葉に、ドアを開けるのをためらった。
「そんな、わたしなんて」
続いて聞こえてくるのは、控えめだけれど、適度に張りのある可愛らしい声。
「三浦さんみたいな子が家にいてくれたら、明るくていいでしょうね」
「さっきから、いつまで一人でずっとしゃべってるんだよ?」
微妙に反応に困っているっぽい女の子を、横から助ける蒼ちゃん。
どうしよう? わたしが入れるような雰囲気じゃない。入りたくない。
「日菜?」
気づいたら、女の子と一緒にリビングから出てきた蒼ちゃんに、声をかけられていた。
「ごめんなさい」
これじゃあ、立ち聞きしていたみたい。できることなら、女の子の顔を見るのも避けたい気持ちがあって、わたしは自分の部屋へ急いだ。でも、そんなわたしの気持ちなんて、関係あるわけはなく ——————— 。
「はじめまして。宮前くんと同じクラスの、三浦っていいます」
夕食に呼ばれ、一階に下りると、それが当然であるかのように、三浦さんと名乗った女の子は、ダイニングの席に着いていた。
「はじめまして。日菜、です」
視線は合わせられなかったけれど、蒼ちゃんと同じように肌触りのよさそうな、真っ黒でサラサラの髪に目が行く。
「すみません。まさか、夕食までごちそうになることになるなんて」
恐縮したように頭を下げながらも、うれしそうな三浦さんは、わたしとは違って血色のよい顔色が、可愛らしい雰囲気をより魅力的に見せている。
「謝るのは、こっちだよ。プリントを届けにきてくれただけなのに、強引に引き留めて。いい迷惑だろ? ごめん」
お母さんに視線を向けて、一度大きなため息をついてから、蒼ちゃんが三浦さんを見た。蒼ちゃんの口ぶりから、彼女というわけではないみたいだけれど。
「あらあ。迷惑なんかじゃないわよね?」
「はい……!」
機嫌のよさそうなお母さんに元気よく返事する三浦さんが、蒼ちゃんに気があるのは、一目瞭然。そんな素直な三浦さんを気に入った、お母さんの気持ちもよくわかる。
蒼ちゃんだって、こんなに可愛い女の子に好意を寄せられたら、悪い気なんかするわけなくて。
「……ごちそうさま、でした」
できる限りの早さで食べ終え、箸を置いた。ここは、わたしのいる場所じゃない。でも、大丈夫。わたしには、海老名くんがいるから。
「やだ、いいのよ。片付けなんて」
「とんでもないです。これくらいは、やらせてください。すっかり、ごちそうになっちゃったんですから」
自分の使った食器をまとめて、お母さんと三浦さんの楽しそうな会話を聞きながら、席を立つ。
「優しいのね、三浦さん。いつもの夕食の片付けは、わたし一人でしてるのよ。誰も手伝ってくれる人がいないんだもの」
「そう……なんですか?」
ちらりとわたしを見る、三浦さん。この家の中でのわたしの位置は、すでに噂などで承知しているんだろう。
手伝いをしたくないわけじゃない。小学生の頃から、一緒に住んでいるお母さんと仲良くやっていけたらと、何度も歩み寄ってきた。それでも、頑なに受け入れてもらえないつらさに、耐えきれなくなっただけ。
蒼ちゃんはというと、半分あきれたようすで、そんな会話には無視を決め込んでいる。
「ごめんなさい。あとは、お願いします」
どのみち、この場で言い訳できるわけないし、する必要もない。最初から、わたしなんていなかったように、そっと去ろうとしたら。
「それにしても、本当に綺麗な髪ね。手入れがよく行き届いて」
「そんなこと……でも、ありがとうございます」
さらに追い討ちをかけるように、耳に入れたくない話題。急いで、ドアノブを回そうとしたんだけれど。
「女として、髪はいつ見られてもいい状態にしておきたいわよね。みっともないもの」
「…………」
一瞬、体の動きがピタリと止まってしまった。
「あら? どうしたの? 日菜」
「いえ」
何も考えないようにして、部屋をあとにした。あんなふうに言わないでほしいのに。この髪は、時間が経ちすぎて、はっきりした顔の記憶すら薄れてしまっている、わたしのお母さんの唯一の……。
「日菜」
「……蒼ちゃん」
蒼ちゃんが、わたしの部屋の前まで追ってきた。何を言われるんだろう? 耳をふさいでしまいたい。
「ごめん、蒼ちゃん」
反射的に、謝らずにはいられなかった。
「わたしのせいで、雰囲気が悪くなって」
三浦さんにだって、どんなふうに思われているか。
「その髪……」
「わかってるよ」
この髪が、他の人の目には、どれほどみっともなく映っているか。
「蒼ちゃんの考えてることは、わかってる」
こんな髪のことを『お姫様みたい』だなんて、恥ずかしくて、消してしまいたい過去だということ。今の蒼ちゃんが変わってしまったわけじゃない。考えられないのは、昔の蒼ちゃんの方。
「……海老名くんが、嫌じゃないって言ってくれるから。それでいいの」
この前の音楽室でも、わたしの髪の感触を確かめるように指を絡めたり、意外と大きな手で
「海老名?」
「うん」
結局、わたしはいつまでも、家と学校の間の狭い世界の中で、蒼ちゃんしか見ていなかった。
蒼ちゃんと、昔みたいな関係を取り戻したいとか。どうしたら、蒼ちゃんと少しでも近づけるかとか、そんなことしか考えられなくて。だから……。
「もう、いいの」
大好きだけれど、蒼ちゃんのことだけを気にかけて生きていくのは、もうやめる。いいかげん、蒼ちゃんだって、それを望んでいるはず。
「わたしは……」
何年かぶりに、蒼ちゃんの目をまっすぐに見ると。
「何を浮かれてるんだか、知らないけど」
「蒼ちゃん?」
蒼ちゃんの冷たい瞳に、心臓が音を立てた。
「海老名が日菜を本気で好きになるなんて、冗談でも考えられない」
「そんな……」
そんな言い方、することないのに。
「蒼ちゃんには、わからないだけだよ」
学校での海老名くんとの時間を思い出した。海老名くんのくれた言葉、声、そして、唇。その全てを、わたしは信じることにしたの。
「海老名くんは、ちゃんと……」
「なら、俺が言うことは何もない」
最後は、わたしを見もしないで、無表情のまま、一階へ下りていく蒼ちゃん。
「蒼ちゃん……」
もう何年もの間、まともに話もできずにいたけれど、予告もなく決定的な最後を突きつけられたような、悲しい瞬間だった。
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