第6話 疑惑
「…………!」
不意に目が覚めて、飛び起きた。わたしがいるのは、居間のソファの上。
「そうだ。朝ごはん」
その前に、着替えもしなくちゃいけない。でも、わたしの部屋には、まだ海老名くんがいるかもしれなくて……と、パニックになっている途中で、わたしにかけられていた厚手の毛布の存在に気がついた。
蒼ちゃん、だよね。
見ると、ダイニングからはわたしの姿が見えないように、パーテーションまで置かれている。だけど……。もう一度、混乱している頭で考える。みんなも起きている時間だろうし、パジャマのままで出ていくのは気が引ける。
「あ」
そのとき、玄関の方から、ドアの閉まる音が聞こえてきた。続いて、誰かがが近づいてくる足音。どうしよう? そうはいっても、どうにもできず、この場で待っているしかない。
「起きてたのか」
蒼ちゃんだった。わたしの方をちらりと見た蒼ちゃんは、とっくに着替えをすませ、髪も整えられている。
「うん。あの……海老名くんとか、は?」
「今、帰った」
冷蔵庫を開けて、食べる物を探している、蒼ちゃん。
「わたしがやる」
今日は休みだし、ゆっくりしていくものだと思っていた。何かしら、用意するつもりだったのに。あわてて、キッチンの方へ駆け寄る。
「いいよ」
「でも」
少しくらい、蒼ちゃんの役に立ちたいから。
「いい。出かけるから」
素っ気なく応え、グラスに牛乳を注ぐと、一気に飲み上げて、蒼ちゃんはテーブルの上にあった鍵を手に取った。
「……そっか」
小さな声で返事したあと、はっと気づく。
「蒼ちゃん」
蒼ちゃんの後ろ姿を追いかけた。
「ご飯代、お母さんから預かってたの。これ」
「ああ」
つまらなそうに受け取る、蒼ちゃん。
「あと」
「え?」
「あの……」
気まずい雰囲気の中、先を続ける。
「毛布、ありがとう」
蒼ちゃんにとっては、何気ない行動だったかもしれない。それでも、わたしを気にかけてもらえたことが、うれしかったの。
「蒼ちゃん?」
「…………」
居心地悪そうに、視線をそらされた。そして。
「……しろよ」
「えっ?」
蒼ちゃんのつぶやいた言葉が聞き取れずに、わたしが聞き返すと。
「少しは、自覚しろって。そう言ったんだよ」
「あ……」
わたしを見ようともしてくれない、蒼ちゃん。
「ごめ……」
ちょうど、左の手首にゴムがはまっていた。
「ごめんね、蒼ちゃん」
いつもどおり、収拾のつかない髪をゴムでしばった。
きっと、手が震えて、うまくまとめられていないけれど。
「見苦しかったよね」
ただでさえ、だらしのないパジャマ姿なのに。
「あのね、蒼ちゃん」
それに加えて、ひどい状態の髪で。
「午前中に宿題を済ませて、わたしも午後から出かけるの。だから、いつ帰ってきてもらっても大丈夫だから」
髪の結わいた部分を左手で後ろに抑えながら、下を向いて笑った。
「日……」
「じゃあね、蒼ちゃん」
強引に蒼ちゃんを送り出して、ドアを閉めた。
蒼ちゃん、覚えてる? 今日は、わたしのお母さんの命日なんだよ。毎年、蒼ちゃんも必ず一緒に来てくれた……。
「一年ぶり、だね」
予定どおり、宿題を終わらせたあと、午後から電車とバスを乗り継いで、お母さんのお墓に着いたのは、夕方近く。
「お父さん、昨日のうちに来てくれてたんだ……」
お母さんの好きだった白いマーガレットの花束が、今年もすでに供えられている。
「よかったね、お母さん」
その隣に、わたしも同じくマーガレットの入った花束を添えて、ひさしぶりに遠い記憶を呼び起こす。
————— 毎年、蒼ちゃんと二人で、ここに来た。
子供にしては長い、ここまでの道のり。何か他愛のない話をすることもあれば、黙って手をつないで、蒼ちゃんの温もりだけを感じていたこともあったけ。
あれは、中学に入る直前の命日。
「会いに行ってあげなくちゃ、日菜のお母さんがかわいそうだ」
そう言って、いつになくためらっていたわたしを説得し、手を引っ張ってくれた。その帰り道、前の年と同じように、お墓の前で蒼ちゃんと並んで手を合わせたあと、幸せな気だるい疲れの中、心地よいバスの振動を感じながら、うとうとしていた。
「蒼……ちゃん?」
ふと、まぶたを開いた瞬間、目の前に蒼ちゃんの顔があった。
「どうしたの? 蒼ちゃん」
少し青ざめて、言葉を失ったようすで、わたしの顔をしばらく凝視していた、蒼ちゃん。
なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気もしたのだけれど、寝起きで頭がぼんやりしていたせいか、そのときのわたしは、ただ蒼ちゃんを好きな気持ちでいっぱいだった。
「蒼ちゃん、大好き」
呼吸をするみたいに自然な思いを伝えて、いつものように「ぼくも」と応えてくれる幸せな瞬間を待った。
……でも、どんなに待っても、その瞬間が再び訪れることはなかったね。その日から、今日の今日まで。きっと、これからも永遠に。
「いいかげん、愛想をつかされちゃったんだよね」
家族の事情を何も知らないで、無神経に振る舞っていた、わたしのこと。
「情けないな」
誰に向けるでもなく、小さくつぶやいてから。
「お母さん」
天国にいるお母さんを心配させないよう、笑顔で姿勢を正す。
「わたしは元気だよ。蒼ちゃんがいなくても、もう大丈夫」
当然ながら、電車もバスも一人で乗って、ここまで来れるし、自分の学力に見合った高校にも通わせてもらい、いじめも日常的にあるわけではない。
「でもね、あのお父さんが、多分わたしの本当のお父さんだってことには、びっくりしてる」
それだけは、もっと早くわかっていたかった。そうすれば、複雑な蒼ちゃんの気持ちも、少しは察することができたのに……。
「わたしね、好きな人ができたかもしれない」
お母さんが生きていたら、こんな相談をしてみたかった。
「でも、正直よくわからないの。ずっと、蒼ちゃんのことしか見てなかったし」
家庭を持っていたお父さんを愛していた、お母さん。この先、わたしがそれほど大きな覚悟を海老名くんに持ったりできるのか、想像もつかない。
「なんて、お母さんにだって、わかるわけないよね」
笑って、立ち上がった。
「じゃあね、お母さん。来年、また必ず」
並べられた、二つの花束。今、わたしが命を失ったとしたら、こんなふうに花を捧げてくれる人はいるのかな。
「ただいま……あ、おかえりなさい」
家に戻ると、すでに甲府から帰ってきていた、お母さんの姿がキッチンにあった。
「あの……叔母さんの具合は、いかがでしたか?」
「よくないみたいだわ。また、行かなきゃいけないことになりそう」
「そう、ですか」
お母さんが昨日、わたしと蒼ちゃんの関係を危惧していたことを思い出して、気まずい思いで廊下に出た。あんなふうに思われたら、蒼ちゃんに、なおさら迷惑がられるのに……。
「あ……」
そこで、帰ってきた蒼ちゃんに出くわした。
「おかえりなさい」
あいさつだけして、部屋に引っ込もうとすると。
「日菜」
不意に、蒼ちゃんに呼ばれた。
「何?」
うつむいたまま、先を促す。朝みたいに、髪も後ろに押さえつけて。
「……朝は、悪かった。日菜の部屋で海老名が寝てたの、知らなくて」
「ううん!」
顔を上げて、大きな声で返事した。蒼ちゃんにわかってもらえたことが、うれしくて。
「わたしも、気をつけなきゃいけなかったよね。もう、あんなところでは寝ないようにするから」
そんなわたしの反応を横目で確かめてから、蒼ちゃんが続ける。
「今後も」
「えっ?」
「海老名とは、距離を保てよ」
「どうして……」
と、そのときだった。
「蒼太、帰ってたの?」
目の前のドアが開いて、お母さんが顔を出した。
「いつから、そこにいたの?」
口元だけ笑っている、奇妙な表情。わたしには、直視できなかった。
「今だよ、今」
単純に面倒そうに、蒼ちゃんは、お母さんの問いかけに大きくため息をついていた。
「蒼太」
「夕飯、いらないから」
「待ちなさい、蒼太」
呼び止めるお母さんを払いのけて、蒼ちゃんがこの場を先に去っていく。
「…………」
「お母さん」
思いきって、何も言わずに黙って立っているお母さんに、話しかけた。
「あの」
蒼ちゃんに迷惑がかからなければ、それでいい。
「昨日は、あれから、蒼ちゃんの友達が泊まりに来たんです。だから……」
「……色気づいて」
「え……?」
反射的に聞き返したけれど、本当は、お母さんのつぶやいた言葉をはっきりと認識できていた。
「何でもないわ」
お母さんがキッチンに戻るのを待って、わたしも自分の部屋へ向かった。表現のしようがない、重苦しい気持ちを抱きながら。
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