第5話 平穏
「ごちそうさま」
朝食に、ほとんど口をつけないまま、蒼ちゃんが席を立つ。
「もう、いいの?」
「ん」
お母さんの問いかけに短い返事を残して、玄関のドアの閉まる音が響いた。蒼ちゃん、わたしのこと、軽蔑しているんだろうね。
「ごちそうさまでした」
わたしも食欲はなかったけれど、出してもらった料理を押し込むようにお腹に入れた。
「行ってきます」
食器をシンクまで運んで、お母さんに声をかける。
「あの……」
無言で食器を片付け始めるお母さんに、行ってきますと、もう一度、小さく繰り返した。
わたしと蒼ちゃんが本当の兄妹ならいいのにって、小さい頃は思っていた。でも、その結果、こういうことになるなんて、子供のわたしにわかるわけがなかったの。
学校でわたしを待っていたのは、泥でぐちゃぐちゃになった上履き。もう、ため息も出ない。とにかく、洗わなきゃ。事務室でスリッパを借りて、水道場に向かう。
「本当、しょうもないね。女って」
水を流しながら、指で泥を落としていたら、横から聞こえてきたのは、海老名くんの声。
「それ、蒼太のせい? 俺のせい?」
「……どっちでもいい」
視線を海老名くんに移さないで、静かに上履きに水を当て続けていたら。
「ごめん」
バツが悪そうに、わたしに謝ってくる、海老名くん。
「謝るくらいなら、あんなことしないでほしかった」
こんなわたしにだって、大事にしているものがあるのに。キスもそれ以上のことも、いつか本当に好きな人とって、当然のように思っていた。
「全然、覚えてなくて」
「え……?」
水を止めて、聞き返す。
「帰り際、三上から聞いて知ったんだけどさ。本当、ごめん。俺、ビール半分で記憶がなくなるんだ」
本来なら、なおさら怒りを感じるはずのところなんだろうけれど、海老名くんがいつもと違って、あまりに申し訳なさそうにしているから。
「そういうことなら、いいよ」
もう、責めてもしょうがないという気になった。海老名くんて、実は憎めない人なのかもしれない。
「わたしにも落ち度があったんだろうし。チケット、ありがとう。近くで歌が聴けて、うれしかった」
「優しいね、宮前さん」
「だって……」
洗い終えた上履きを干す場所まで、一緒に探してくれてるし。
「宮前さんは、何が好きなの? イロイッカイズツの」
「全部」
「つまんない答え」
「だって、本当に全部だから」
海老名くんが指差した、裏庭の目立たない場所に上履きを立てかけながら、わたしは笑った。
「曲と演奏も、イロイッカイズツっていう名前も。その全部が、海老名くんのちょっと素っ気ない感じの歌い方に合ってる気がする」
「そう」
うれしそうに、海老名くんも笑う。
「あのさ、海老名くん」
今なら、普通に話せそうな気がする。
「蒼ちゃんとは、どうして知り合ったの?」
「ああ、昨日の店で。蒼太に、ナンパされたの」
「ナンパ?」
「うん」
なんだか、誰かに話したくてしかたがないみたいに見える。
「俺ね、最初はしょうもないクラッシュのコピーバンドで歌ってたんだけど、唯一好きだったキース・レヴィンみたいなギター弾く友達がやめちゃって。どうしようかと思ってたとき、シューゲイザーっぽいことやってた蒼太たちに、ちょうど声かけられてさ」
「…………?」
全く意味がわからない。
「あ……行かなきゃね」
始業5分前のチャイムが、校内から流れてきた。自分から聞いておいて、何の反応もできなかったのが申し訳ないけれど。
「宮前さん」
「はい?」
海老名くんに呼ばれて、立ち止まった。
「また、聴きにきてよ」
わたしを受け入れてくれたような、自然な表情。
「……うん」
単純に、うれしかった。
「あと」
少しいたずらっぽく笑う、海老名くん。
「あと、何?」
そんな海老名くんに、ドキリとしたんだけれど。
「今度は、酔ってないときに、キスしたいかも」
「そ……」
「本気にした?」
冗談なのか何なのか、言葉に詰まったわたしを、楽しそうに横目で見る。
「わたし、傷ついたんだからね」
いくら、もう怒ってはいないといっても、それだけは忘れないでほしい。校内に戻ろうとする海老名くんを、今度はわたしが追いかけた。
「見慣れると、意外と悪くないね。その変な髪型と眼鏡」
「そんなこと……」
海老名くんは、わかっているのかな。蒼ちゃんしかいなかった世界に空気のように入り込んできて、そんなふうに接されたら、わたしが海老名くんのことしか考えられなくなってしまうこと。
「ひさしぶりだな、日菜」
「あ……おかえりなさい」
言葉どおり、ひさしぶりに顔を見るお父さんに、玄関の前で声をかけられた。
「日菜は、直美に似てきたなあ」
「そう……ですか?」
お父さんの細めた目から、お母さんとわたしへの親愛の気持ちが感じられる気がする。
「そういえば、明日は直美の命日だったな」
「はい」
そう。初秋の少し肌寒い風が吹き始める、この季節。
「たまには、行ってやらないとな」
命日の頃、お母さんのお墓へお参りに行くと、必ず可憐な花束が供えられていることに、わたしは気づいていた。お母さんとわたしの大好きだった、マーガレットの。
「いつも、ありがとうございます」
「え? ああ、いや」
お礼を告げると、恥ずかしいのか、やや戸惑い気味に返された。
「苦労していることもあると思うが、何かあったときは、遠慮なく言いなさい」
「……はい」
今まで、お父さんを意識して見たことはなかったけれど、親子ほどの血のつながりがあると、感じるものがあるんだと思った。と、そこで。
「あら」
お父さんの姿を確認して、複雑そうに顔をしかめる、お母さん。でも。
「こんなに早く帰ってくると思わなかったわ。夕飯、用意してないわよ」
「まだ、ビールが冷蔵庫に残ってるだろう。フライドチキン、全員分買ってきたぞ」
「今日のおかず、すき焼きなのよ。お肉だらけじゃない。たくさん食べてもらわないと、困っちゃうわ」
一方的な態度のお父さんだけれど、お母さんの方も、まんざらでもないようす。
「あなたも早く着替えていらっしゃい」
「はい」
わたしがお父さんの本当の子供だということだって、大人にとっては言うまでもない話だったんだろう。今、いちばん傷ついて、迷惑な思いをしているのは、きっと蒼ちゃん。
だけど……と、自分の部屋に入ると、隣の部屋に漏れないくらいの音で、イロイッカイズツの曲を再生した。
初めは、蒼ちゃんのことを少しでも理解したくて、そのために近づいた、蒼ちゃんのバンドだった。それなのに、いつのまにか、目を閉じて音を聴くと、海老名くんの姿しか思い浮かばなくなっている。
「日菜」
「あ……ごめんなさい、今開けます」
思わず、曲に聴き入ってしまっていたら、ノックの音とお母さんの声。音楽を止めて、ドアを開けると。
「甲府に住んでる叔母が、脳梗塞で倒れたらしいの。今、電話があって」
「え……?」
さっきと一変、深刻そうな顔のお母さん。
「それで、お父さんと今夜はあちらに泊まってこようと思うの」
それはつまり、明日まで、わたしと蒼ちゃんが、この家で二人きりになるということ。
「とりあえず、あなたと蒼太の今日の夕食は残ってるわ。明日の分は、これで」
「……すみません。ありがとうございます」
申し訳ない思いで、一万円札を受け取った。わたしと蒼ちゃんを家に残していくことが、お母さんにとって不本意なことであるのも、よくわかっているから。
「
お母さんを呼ぶ、お父さんの声。お母さんのあとについて、わたしも階段を下りる。
「やっぱり、心配だわ。蒼太を置いていくの」
「何を言ってるんだ? 食事の用意くらい、少しの間やってやれるだろ?日菜」
「は……はい」
こんな大変なときに、心配なんかさせちゃいけない。できる限り、普通を装いながら、うなずく。
「じゃあ、頼んだぞ」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
本当は、蒼ちゃんの反応を想像するだけで、体が強張る。蒼ちゃんは、どんな顔をするんだろう?
「ただいま」
「おかえりなさい」
何気ないふうを装って、蒼ちゃんを出迎えた。
「…………?」
そんなわたしを不審そうに見る、蒼ちゃん。
「ご飯、すぐ食べる?」
「え?」
問いかけると、いよいよ、わけがわからないという顔をされる。
「今日、甲府の叔母さんが倒れて、入院されたって。それで……お母さんとお父さん、明日まで帰らないから」
だから、それまで、わたしと蒼ちゃんしかいないの。
「……ふうん」
少しの間をおいて、蒼ちゃんが続けた。
「女でも呼ぶかな」
「あ……」
べつに、昔みたいに楽しく過ごせるなんて、考えてもいない。
「蒼ちゃんが、そうしたいなら」
それでも、蒼ちゃんの顔を直視することはできずに、うつむいて笑うと。
「嘘だよ」
投げやりな感じに、ふっと視線をそらした、蒼ちゃん。
「せっかくだから、日菜の好きな海老名とか呼んで、ミーティングでもするよ」
「蒼ちゃん、わたしは……」
そんなことを淡々と話されても、どうしたらいいのか、わたしにはわからない。
「おかず、何?」
「……すき焼きと、フライドチキン」
「何だ? それ。あ、海老名?今から、出てこいよ。今夜、親が帰ってこないから、
本当に海老名くんに電話しながら、蒼ちゃんは自分の部屋に向かっていった。わたしは、すき焼きの鍋を温めに、キッチンに戻る。この場で海老名くんと顔を合わせることに、最大限にドキドキしながら。
「お邪魔します」
最初に現れたのは、ドラムの山口くん。
「いえ。どうぞ」
夕食の途中だったから、椅子に座ったまま、頭を下げた。見た目的には、いちばん普通っぽい男の子で、なんとなく安心する。
「もうすぐ、食べ終わる。待ってて」
鍵を開けるために、一度テーブルから離れた蒼ちゃんも、再び席に着いた。
「よかったら、つまんでください。山口くんも」
「ありがとね。じゃあ、遠慮なく」
感じよく笑いかけてくれたあと、フライドチキンに手をのばしながら、山口くんが話し出す。
「ん。そういえば、三上も来れるって?」
「ああ。なんか、嫌に渋ってたけど」
「何かあったの? あいつ。最近、機嫌悪いよね」
「さあ。知らない」
……まさか、わたしのせいじゃないよね?
ちらりと、ライブハウスでのやり取りを思い出す。あんなことを言われた直後に、海老名くんにキスされているところを見られてしまった。
女の子慣れしていそうな三上くんが、それほどわたしに固執するようにも思えないけれど、きちんと返事ができなかったことは引っかかっていて……。
「来た。海老名と三上、一緒かな」
二度目のチャイムの音に、わたしの胸もドキリと反応した。
「あ……こんばんは」
先にダイニングに顔を出した三上くんに、立ち上がって声をかけてみたものの。
「家から、ビール持ってきたよ。サワーも」
「いいね」
さりげなく無視された状態で、そっと元の場所に腰を下ろすと。
「コンバンハ」
続いて、海老名くんが顔を出した。
「い、いらっしゃい。どうぞ」
緊張して、出した声が上ずってしまった。でも。
「変なの。何? その改まった感じ」
そう言って、クッと短く笑う海老名くんに抱くのは、心地のよいドキドキ感。
「えっと……じゃあ、ゆっくりしていってね」
そのおかげで、この空間に流れている微妙な空気を、一瞬忘れてしまうほどだった。
誰もいなくなったキッチンで、使った食器と鍋の片付けを済ませると、なるべく音を立てないようにして、シャワーも浴び終えた。
「…………」
ちょっとした安堵のため息をつく。蒼ちゃんの部屋からは、音楽に夢中になっている話し声や、ギターの音。
明日の朝食は、起きたあとに残っているメンバーを確認して、それから考えればいいよね……と、そんなことを考えながら、わたしの部屋のドアに手をかけたとき。
「あ」
蒼ちゃんの部屋のドアが開いて、海老名くんの姿が。
「新しい。眼鏡パジャマ」
茶化すように、つぶやかれた。
「だって、自分の家だし、お風呂上がりだし……!」
つい、ムキになりかけたんだけれど。
「ちょうどよかった。水、一杯もらっていい?」
「うん。もちろん」
そこで、素直に返事してしまう。
「待っててね」
この前のライブのときほどではないけれど、やっぱり飲んでいるのかな。急いで、キッチンに向かおうとすると。
「ねえ。宮前さんの部屋にいてもいい?」
「えっ? わたしの部屋?」
「なんか、酒とタバコの匂いに酔っちゃったみたい」
フワフワした口調で、お願いされてしまった。
「……とにかく、お水持ってくるから」
「うん。待ってる」
綺麗で、可愛らしい笑顔。断られるわけないって、わかっているんだろうな。
「はい」
「ありがと」
戻ってきてみたら、わたしの部屋のベッドに横になっていた、海老名くん。
「冷たい」
渡したグラスを額に当てて、気持ちよさそうに声を上げる。こういうときの海老名くんは、とても無邪気。
「蒼ちゃんの部屋で、どんなことをしてるの?」
ベッドの上で、ゆっくり体を起こして、おいしそうにゴクゴクと水を飲み干した、海老名くんに聞いてみる。
「新曲のアレンジ詰めて、試しにレコーディングしてみたり」
「海老名くんは、いなくていいの?」
このまま、部屋にいられても困っちゃうし。
「……歌入れは、もう済んでるから」
「海老名くん?」
どことなく、寂しそうな海老名くん。
「蒼太とかと違って、曲作りのセンスないんだよね、俺。前から」
「そんなこと……」
そのあたりは、よくわからないけれど。
「だから、そういう作業、実はけっこう苦痛。自信がなくなって」
予期せずに耳に入ってきた、海老名くんの弱音。
「でも、海老名くんは」
そんな海老名くんに、心からの気持ちを口にする。
「あんなに魅力的な声で歌えるんだもん。いくつも同時になんて、
「そうかな」
海老名くんが、まんざらでもなさそうな笑顔を見せて、再びベッドに寝転がる。
「そうだよ」
もう一度、わたしが強調すると。
「ありがとう」
澄んだ瞳で、じっと見上げられた。
「ううん」
目をそらして、首を振る。
「わたしは、べつに……」
心臓の音が、うるさくてたまらない。
「ねえ、宮前さん」
海老名くんが、ふっと柔らかく笑う。
「な……に?」
海老名くんの声が聞こえるように、膝を床についた。
「キスしていい?」
それは、お互いの気持ちを確認し合ってからするものだと思っていたけれど、今は、好きだとか、そんな言葉での確認作業が打算的で嘘臭く感じられた。
「……わたしも」
「ん?」
「キス……してほしい」
そんな言葉が出てくるなんて、自分でも信じられなかった。でも、それが、この瞬間のごく自然な気持ちだから。
「今日は、一口しか飲んでないよ。だから、きっと……いや、絶対に忘れない」
海老名くんの細くて長い指に、ゆっくりと頭を引き寄せられた。心臓が痛いくらいに脈を打つ。
海老名くんの冷たい唇が数回、ついばむように軽く触れたと思ったら、今度は、差し込まれた舌の滑らかな感触にびっくりして……と、そのとき。
「海老名くん?」
顔を離して、閉じていた目を開けた。気がつくと、静かな寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている、海老名くん。
「海老名くん」
何度呼んでも、起きそうにない。まるで、子供みたいな寝顔。クスリと、笑い声が漏れてしまった。
「おやすみなさい、海老名くん」
電気を消して、階段を下りる。そして、居間のソファに寄りかかって、iPod のスイッチを入れた。
きっと、長くは続かない幸せ。それくらいのことは、わたしにもわかる。だけど、今だけは、この海老名くんへの想いを胸に ——————— 。
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