第4話 衝撃
「5時半、か」
目覚ましを止めて、1階の洗面所に向かう。ドライヤーの音で、お母さんや蒼ちゃんを起こしたらいけない。まずは髪を湿らせて、絡まった部分をブラシで根気よく
「蒼ちゃん」
すぐ後ろの足音に、振り返る。
「ごめんね。うるさかったかな」
気まずいのと、恥ずかしいのもあって、手に持っていたブラシと前に置いたヘアクリーム、そして、コンタクトレンズのケースを隠すように、洗面台の前に立った。
「今さら、どういう風の吹き回し?」
「どういうって」
やっぱり、見られていたんだ。洗面台の上のグッズの方向に注がれる、蒼ちゃんの視線。
「高校にも入ったし、髪型とか、もう少しかまった方がいいかなって」
「ふうん」
失笑しながら、相づちをうたれた。
「三上の言うこと、まともに受け取ってるんだ?」
いつもに増して、冷ややかな瞳。
「そういうわけじゃない……けど」
お願いだから、これ以上、打ちのめさないで。幸せだった、蒼ちゃんとの大事な思い出まで、つらいものになってしまう。
「髪も眼鏡も、海老名くんが変だって」
「海老名?」
蒼ちゃんが目を見開く。
「……海老名くんとは」
海老名くんのあのようすでは、わたしとのつながりなんて、蒼ちゃんに話していない。
「学校もクラスも同じで、席まで隣なの。だから、蒼ちゃんにも、少しでも恥をかかせないように」
かえって、こんなに言い訳じみた説明は不自然かもしれないけれど。
「日菜が海老名に入れ込んでるのは、わかったよ」
「ちが……」
こんな状況なのに、顔が熱くなるのを感じた。
「でも」
「でも?」
おそるおそる、蒼ちゃんを見上げる。
「その髪を見て、母さんの機嫌がどうなるかくらい、わかるだろ?」
そうだ。海老名くんのことで頭がいっぱいで、都合の悪いことが全て飛んでいた。だけど。
「その目も」
「え……?」
そこに触れられるのは、予想外だった。
「目が、何?」
「年々、似てくる。父さんに」
「そんな……」
そんなわけ、ないって。わたしから、強く言える立場にはなかった。
「少しは、見てる方の気持ちも考えろよ」
「ごめん……なさい」
自分の部屋に戻っていく、蒼ちゃんの背中に謝る。なんだか、蒼ちゃんまで悲しそうに見えた。
鏡に映る、中途半端に上下左右に拡がった髪と、涙でにじんだ目。冷たい水で顔を洗うと、夢から正気に戻ったような感覚になる。制服に着替えると、いつも以上に、きっちりとゴムで髪を結わいた。
『おそろいだね』と笑い、出勤前には必ず抱きしめてくれた、お母さんも。
『お姫さまみたい』と自信を持たせてくれた蒼ちゃんも、もういないから。
その日の昼休み。
「ねえ」
「あ……は、はい」
動揺しながら、イヤホンを耳から外した。
「えっと、何?」
まさか、海老名くんの方から声をかけてくるなんて、思っていなかった。
「ちょっと」
席を立った海老名くんが、ついてくるように、視線で訴えてくる。いつものように、女の子たちがヒソヒソと話をしている嫌な空気の中、わたしは iPod をしっかり手に取って、海老名くんのあとを追った。
「やめろよ、それ」
「…………?」
あまり人気のない廊下まで来ると、わたしの iPod をにらむように見ながら、言葉を発した海老名くん。
「ごめんなさい。でも、べつに、海老名くんの真似をしてるわけじゃ……」
「え?」
なんだか、ふに落ちない表情。
「あ、音量? ごめん、ちゃんと下げ……」
「そうじゃなくて」
げんなりとしたようすで、大きなため息を吐き出された。
「自分の歌ってる曲を、毎日隣で聴かれてる身になってほしいんだけど」
「それは……」
やっぱり、気づかれちゃってた。でも。
「いいでしょ? それくらい」
iPod を隠すように、握りしめる。
「悪趣味。あんた、本当に蒼太の妹?」
「そんなの……できることなら、わたしが知りたい」
さすがに、笑って返す余裕がない。
「ふうん」
わたしをうかがうような表情。
「よけいなこと、聞かなきゃよかった」
何かを感じとったのか、海老名くんの声のトーンが下がる。
「とにかく、俺には耐えられない。せめて、ライブに来ればいい」
「簡単に言うけど」
つい、ムキになってしまう。
「チケットなんて、そんなにしょっ中、わたしには買えないもん」
一回 2000円以上かかるんだから、高校生の身にとっては、けっこうな大金で……。
「ほら」
そこで、差し出された、細長い紙切れ。
「チケット。明日の」
「あ……ありがとう」
うれしくて、震える手で受け取った。
「だから、二度と教室の中で聴くな。それを」
「約束する」
わたしには、ライブの会場と教室の何がどう違うのかがわからないけれど、とにかく誰にも見られないように、もらったチケットを大切にポケットにしまう。
「あと」
「あ……何?」
窓越しの太陽の光を受ける、海老名くんの髪に見とれていた。綺麗な赤茶色。同じくせっ毛でも、わたしと違って、柔らかそうだった。
「次のライブは、どっちで来んの?」
「どっち? あ」
髪と目に視線を向けられたのに気がつく。
「じゃあ……ギャップ萌えの方で」
「意味、わかってる?」
「海老名くんこそ」
少しだけおかしくなって、わたしは笑った。そして、海老名くんが先に戻るのを見送ってから、もう一度、ポケットの中のチケットを確認して、チャイムが鳴るまで、その場でながめていたの。
「明日?」
「はい。夜、友達と出かけたくて」
夕食の時間。めずらしく、テーブルの向かいの席には、蒼ちゃんも座っていた。
「かまわないけど……」
何か言いたげなようすで、お母さんは蒼ちゃんの方を見た。
「何?」
蒼ちゃんが、表情を変えずに顔を上げる。
「蒼太。あなたも、明日の夜はいないって」
「言ったよ。それが?」
「…………」
黙りこくってしまった、お母さん。この緊迫した雰囲気は、何だろう?
「いったい、何を疑ってんの?」
沈黙を破ったのは、蒼ちゃんだった。
「俺と日菜が、変な関係でも持ってるんじゃないかって?」
「そんなんじゃないわよ」
平静を装っているけれど、お母さんの態度がそれを懸念してのものであることは、明らか。
「……そんな、下世話な心配するくらいなら」
数秒の間のあと、蒼ちゃんが低い声で口を開いた。
「中途半端に目を背けないで、DNA鑑定で最初からはっきりさせておけばよかったんだよ。日菜が、父さんの子だって」
「やめなさい、蒼太」
お母さんの口調が強くなる。
「だいたい、日菜を見れば一目瞭然だけど。こんな自分の父親そっくりな女と、どうしろって?」
わたしは、蒼ちゃんとお母さんのやり取りを、黙って聞いていることしかできない。
「もっとも、こんなわけのわからない家族、何があっても驚かないけど。俺だって、誰の子供なのか……」
「蒼太!」
お母さんが真っ青になって、震えていた。
「何を言うの? どれだけ、わたしが蒼太のことを大事に育ててきたと……」
「……なんて顔してんの? 冗談だよ」
重苦しい空気の中、軽蔑するように短く笑ったあと、何事もなかったみたいに夕食の続きをとり始める、蒼ちゃん。
「タチの悪い冗談を言うのは、やめなさい」
お母さんも我に返ったように、ため息をついてから、スープをすする。
戻れたらいいのに。蒼ちゃんが優しかった、あの頃に。わたしも蒼ちゃんも、何もわからずに無邪気でいた、あの頃に。
「……ごめんなさい」
いたたまれなくなって、途中で箸を置いた。
「わたしも、わたしのお母さんも。ごめんなさい」
蒼ちゃんとお母さんの視線の中、席を立つ。
早く大人になりたい。今だって、強がっていたけれど、深い悲しみに覆われた瞳をしていた、蒼ちゃん。これ以上、自分のせいで、大好きな人に悲しい思いをさせたくない。
「日菜ちゃん!」
「あ……こんばんは」
海老名くんにもらったチケットをライブハウスの入口で切ってもらっていたら、またもや三上くんに見つかってしまった。
「何? 今日は蒼太に聞いたの? 急だから、ライブの情報出てなくなかった?」
「ううん。えっと、海老名くんに」
「海老名?」
意外そうに反応する、三上くん。それも、そのはず。わたしと海老名くんに、つながりがあるようには見えないだろうから。
「海老名くんとは、同じクラスなの。だから」
「えっ? そうなの?」
そこで、露骨に顔をしかめられた。
「あの……?」
「いや、だって」
少しためらいながら、三上くんが口を開く。
「この前、海老名のファンみたいなふうに言ってたじゃん? 本当は、そんな軽い気持ちじゃなくて、本気だったんだ?」
「あ、あれは」
今さらながら、恥ずかしくてたまらない。我ながら、人前で大胆発言もいいところ。
「どうしてもライブが観たくて、つい」
一応、ごまかしてみると。
「そっか。そういうことか」
今度は、ほっとしたような表情を見せる、三上くん。この流れって。
「日菜ちゃん」
三上くんに、真剣な顔で見つめられた。
「な……に?」
男の子に、こんなふうに見据えられることなんてないから、緊張して、うまくしゃべれなくなってしまう。
「ヒトメボレ、なんだよね」
「え……?」
続く三上くんの言葉の意味も、理解するのに時間がかかった。
「いや。こんな言い方すると、軽く受け止められちゃうかもしれないけど、本気だから。日菜ちゃんのことばっかり、気がつくと考えてるんだ」
信じられないけれど、わたしをからかっているようには見えない。
「あ。やっぱり、海老名のことが好き?」
気遣うように、顔をのぞき込まれた。
「ううん! 海老名くんは、そういうんじゃないから」
とっさに、首を振る。毎日、同じ教室にはいるけれど、好きとか嫌いとか、そういう感情とは別のところにいる人のようで。
「よかった。じゃあ、ちゃんと考えてくれる? 俺のこと」
「考える……?」
つまり、つき合うとか、そういうこと?
「やば。行かなきゃ」
いつかみたいに、時計を見た三上くんがあわてる。
「とりあえず、あとで。蒼太には言わないでおいてね」
「あの……!」
慌ただしく去っていってしまった、三上くん。何が何だか、わからない。わたし、あの三上くんに告白されたの?
ステージ上に、メンバーが揃う。ざわついていた会場が静かになったのを見計らって、海老名くんが最初の曲のギターの前奏を引き出す。
歌っている間でさえ無愛想なのに、そんなようすすら魅力的に映るのは、きっと海老名くんだから。
でも、やっぱり、わたしが惹かれるのは、この旋律と詞。目を閉じると、いつでも浮かび上がるのは決まって、蒼ちゃんと庭の花を摘んで作った、わたしのお母さんへの花束。
それを持って、命日には必ず、お母さんに会いに行ったよね。二人で、電車とバスを乗り継いで。いつだって、ためらうわたしを引っ張って、遠くのお墓まで連れ出してくれた、蒼ちゃん。
「…………」
目を開けた瞬間、ステージの上の蒼ちゃんの視線を感じた。
ごめんね、蒼ちゃん。こんなところでまで、わたしの姿なんか見たくないよね。心の中で謝りながら、髪を押さえて、目も伏せる。だけど、今のわたしには、イロイッカイズツの歌だけが心の支えなの。
演奏終了後、熱気を冷ますために、店の外で一息ついてから、覚悟を決めて、もう一度入場することにした。
わたしなんかの、どこを気に入ってもらえたのかはわからないけれど、真面目に想いを打ち明けてくれた、三上くん。返事だけは、ちゃんとしなくちゃ。
三上くんの気持ちは、すごくうれしかった。でも、出会ったばかりの三上くんに対して、まだ同じ気持ちは抱けない。もっとも、わたしは、恋なんてできる立場の人間でもないし……と、そのとき。
「海老名くん?」
通路の壁に寄りかかって、しゃがみ込んでいる人物を確認して、思わず声を上げると。
「あ。ギャップ萌え」
見上げながら、クスクスと笑い声を立てられた。
「海老名くん、酔ってる?」
「どうかな」
いつもと違った緩んだ表情から、お酒を飲んでいるのは明らか。
「やっぱり、来たんだ? ほとんど、ストーカーだね」
「……チケット、もらったし」
なんだか、
「頭が痛い。気持ち悪い」
つらそうに、海老名くんがこめかみを押さえている。
「大丈夫?」
あわてて、わたしも海老名くんの前に座った。
「そうだ。さっき買った、ミネラルウォーターがある。まだ、わたしも口つけてないから……」
と、その瞬間。
「海老名くん?」
いきなり、腕と体を引き寄せられた。
「うん。こっちなら、わりと可愛い」
「え……?」
自分の置かれている状況が理解できなかった。唇に、初めての感触。
「やめて……!」
しばらく、されるがままになっていたあと、はっと我に返って、海老名くんを押し
「なんで、こんな……」
お酒の味。タバコの匂い。そんなものしか感じられない、あまりにあっけない、初めてのキス。
「俺が好きなくせに」
そう言って、クッと笑った海老名くんは、どう見ても、お酒で正気の状態ではない。
「わたし、行くから」
ひどい。こんなの、あんまり。一刻も早く店を出ようと、震える体で立ち上がると。
「あ……」
そこに立っていたのは、蒼ちゃんと三上くんだった。わたしをずっと凝視したままの三上くんと、逆に、わたしを見ようともしない蒼ちゃん。そして。
「海老名、精算。店長が呼んでる」
「ああ」
「今日は、けっこう入ったらしい」
何もなかったみたいに、蒼ちゃんが海老名くんを奥の部屋へ連れて行く。三上くんも、その場にしばらく留まったあと、二人の後を追った。
…………。
わたしが悪いの? 懲りずに場違いなところに来ていた、わたしが悪いだけなの?
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