第3話 接近



 数日後の教室。


「何?」


 海老名くんに、けげんそうな表情で聞かれたの、今日だけで何回目だっけ。


「ううん、べつに……!」


 むやみに見ないようにしているつもりなのに、無意識に視線が行ってしまうのかな。あわてて、首を振って、前に向き直ったんだけれど。


「あ……」


 おっくうそうなため息と共に立ち上がると、わたしを避けるかのように教室を出ていってしまった、海老名くん。気をつけなくちゃ。できるなら、これ以上、誰にも嫌われたくない。


 結局、あのあとも変わりはなくて、蒼ちゃんとは特に口をきかない日々が続いている。聞いてみたいことばかりなのに、あの日、あの場で蒼ちゃんたちを見ていた事実すら、わたしには伝えられるわけがなくて。


 でも……と、初めて自分から欲しいと思って買った、iPodをながめる。ミニアルバムに入っていたのは、全部で5曲。


 学校の行き帰りと自分の部屋で、何度繰り返し再生したか、わからない。聴いた瞬間から、なつかしさを覚えたのは、蒼ちゃんがいるからなのかな。


 でも、わたしの心を捕えて離さない、この声の持ち主がいつも隣に座っているという日常は、まだ現実味がない。


 イロイッカイズツのライブを調べてみたら、前回と同じ場所で、今日もあることがわかった。お小遣を遣わずに取っておいてよかったと、心から思う。だって、またあの歌が聴ける。


 注意していれば、蒼ちゃんには見つからないし、迷惑もかからない。ずっと、押し潰されそうな毎日を静かに送ってきた。そんなわたしが、楽しみをひとつくらい持ったって、許してもらえるよね?





 お母さんには、友達と出かけると伝えておいた。この前みたいに、眼鏡と髪のゴムを取ったら、緊張が解けた気がする。新しい自分の顔にも慣れてきたのか、前回ほどは恥ずかしさもない。


「2000円です。スタンプ、押しますね」


「お願いします」


 もう、だいたいの雰囲気もつかめていたから、入口で今度はスムーズにチャージを済ませて、中の目立たないところに移動しようとしたときだった。


「あ、ちょっと!」


「え……?」


 突然、つかまれた腕に驚いて、振り向くと。


「探したんだよ。ライブ終わったあと」


 この前の、イロイッカイズツのベースの男の子。


「よかったあ。また会えて」


「あ、あの……」


 また、人懐っこい笑顔で声をかけてもらえたのは、ありがたいけれど。普通に目立つ人だから、周りの視線を集めてしまっていて、気が気ではない。


「あのときは、ありがとうございました。でも、わたし……」


 蒼ちゃんも近くにいるはず。もし、見つかってしまったら、どんなふうに思われる?


「日菜……」


「蒼ちゃん」


 ちょうど、視線を横に移した瞬間、その先にいた蒼ちゃんと目が合ってしまった。思ったとおりだった。みるみるうちに、表情が険しくなっていく。


「どうして、こんなところにいるんだよ?」


「ごめんなさい」


 とっさに、謝罪の言葉を口にした。


「え? どういうこと?」


 さっきの男の子が、不思議そうに会話に入ってくる。蒼ちゃんの後ろには、海老名くんまで。蒼ちゃんと、いぶかしげな海老名くんの視線が痛い。


「……妹、だよ」


「え? 蒼太の妹?」


 わたしと蒼ちゃんを交互に見て、驚きの声を上げる男の子。友達の前で、妹だと言ってもらえたことだけは、うれしい。でも、蒼ちゃんの顔は直視できない。


「何、そんな怒ってんの? そっか。身内に無断で来られて、恥ずかしいんだ」


「やめろよ、三上」


 蒼ちゃんを無視して、男の子は続けた。


「この前、イロイッカイズツを観にきたって、はっきり言ってたよね。蒼太は隠してたっぽいけど、どうやって調べたの?」


「それは……」


 うつむいたまま、三上くんと呼ばれた男の子にだけ向けて、答える。


「お父さんが昔よくやってたゲームに、そういう暗号が出てきたから」


 蒼ちゃんは、その単語だけが頭に残っていたんだろう。だって、全部覚えていたら、自分の大事なバンド名になんてするわけがない。


 蒼ちゃんが、家の中にも心の休まる場所のなかった、わたしのために庭の物置の陰に廃材で作ってくれた、二人の秘密基地。そこで遊ぶときに、わたしと蒼ちゃんだけの合言葉として使っていた、『イロイッカイズツ』という暗号。


 大好きな蒼ちゃんと自分しか存在しない、夢の世界。できることなら、その空間に永遠にいたいと思っていた。


「へえ。そういうことだったんだ」


「帰れよ、日菜」


 わたしと三上くんの会話を遮るように、蒼ちゃんが冷たく言い放つ。でも。


「……嫌」


 自分でも信じられない言葉が、口から出てきた。


「海老名くんの歌を聴くまで、帰らない」


「日菜? 何言って……」


「はい。蒼太は、出るとこなし」


 楽しそうに、三上くんが笑う。


「ふうん。日菜ちゃんね。日菜ちゃんは、海老名のファンなんだ?」


「えっ? あ、いえ! そういうわけじゃなくて。わたしは、ただ……」


 海老名くんの前で、わたしはなんてことを言ってしまったんだろう? あわてて、体裁を整えようとしたんだけれど、手遅れだった。


「……何なの? さっきから。重い」


 ため息のあとに吐き出された、心底面倒そうな海老名くんの一言。


「ごめん……なさい」


 海老名くんにしてみたら、当然の反応。


「ごめんねー、日菜ちゃん。こいつら、愛想なくて」


「いえ、大丈夫……です」


 どんな状況も動じず、ニコニコしている三上くんがいなかったら、きっと耐え切れなかった。


「勝手にしろよ。行こう。山口は?」


「山口なら、控室に新しい彼女といたよ。じゃあね、日菜ちゃん。聴いてってね」


「あ、ありがとう」


 三上くんに頭を下げて、蒼ちゃんたちを見送った。


 ほとんど、しゃべらなかった、海老名くん。学校でのこともあるし、なおさら、気持ち悪がられちゃったよね。調子に乗った罰かもしれない。


 ファンだなんて表現も、図々しい。ただ、海老名くんの歌に心が惹かれて、聴いていたいだけなのに。そうする資格すら、わたしにはないのかな。





「あの、おはよう」


 思いきって、登校してきた海老名くんに声をかけてみた。昨日の今日で、知らんぷりするのも変だから。


「この前、ここで妹じゃないかって聞かれたとき、否定してなかったっけ?」


 いきなり、気まずい質問。海老名くんは、どうでもよさそうな表情だけれど。


「否定……は、してない」


「ふうん」


 わたしの中途半端な受け答えに向けられた、あきれたような視線。


「ねえ」


「あっ、何?」


 会話が続いていたことが意外で、思わず反応が大きくなってしまった。


「イライラするって、よく言われない?」


 わたしは、何を期待していたんだろう。海老名くんと、昨日のライブの話ができるとでも思ってた?


「言われる……かな」


 精一杯に自分を保ち、笑顔を作る。


「だろうね」


 それっきり、わたしとはもう一切関わる気もないような態度で、iPod の音楽に集中する海老名くん。


 つらいとか、悲しいとか、そんなんじゃなく、ひたすら自分が情けなくて、涙が出そうになった。





「……ただいま」


 長い一日の授業を終え、沈んだ気持ちで家に帰ると、玄関にそろえてある蒼ちゃんの靴を確認して、緊張が走った。


 気が重い。昨日も今朝も、あいさつすらできるような雰囲気ではなかった蒼ちゃんと、顔を合わせるのが。そんなことを考えながら、靴を脱いでいたら。


「おかえり、日菜ちゃん」


 上の方で、聞き覚えのある声。


「三上……くん」


「あ、うれしい。覚えてくれたんだ? 名前」


 階段のところから顔を出したのは、蒼ちゃんと同じ制服姿の三上くんだった。


「学校仕様だね、日菜ちゃん」


「あ、えっと、うん」


 そうだ、髪と眼鏡。


「何? 学校、結わいていかなきゃいけないの?」


「そういうわけではないんだけど」


 こんな普通に話しかけてくれる人がひさしぶりで、手探り状態の会話。


「あの状態にするまでに、一時間近くかかるから」


「そうなんだ?」


 無邪気な笑顔を向けてくれる、三上くん。


「何から何まで」


「はい?」


「本当に可愛いね、日菜ちゃん」


「…………!」


 社交辞令か、からかわれているのか、そのどちらかだとわかっていても、動揺が顔に出てしまう。


「三上」


 そこで、蒼ちゃんが姿を現した。


「日菜に、かまうなよ」


 わたしのことは見もしない。


「出た。シスコン」


「三上くん。あのね、蒼ちゃんは……」


 面白がって、蒼ちゃんをからかう三上くんを、わたしが止めようとした瞬間。


「俺は、妹だなんて思ったことないし」


 冷たく、蒼ちゃんに突き放された。


「もう、出よう」


「蒼太?」


 ドアを開けて、さっさと外へ出た蒼ちゃんのあとを。


「またね」


 やっぱり、このわたしにも感じよく声をかけてくれてから、三上くんが追っていく。


 妹だなんて思ったことない、か。


「言われちゃった……」


 なぜだか、涙の代わりに、クスリと笑い声が漏れた。そして、現実逃避をするために、iPodのスイッチを入れて、目を閉じるの。





「…………?」


 翌朝、教室に入って、席に着くなり、肌に感じる嫌な空気。


 女の子たちの口から断片的に聞こえてくる、 『宮前くん』と 『海老名くん』という単語から理由はわかる気がするけれど、気にしていてもしようがない。iPodのイヤホンを耳にはめようとしたら。


「海老名くんの真似でもしてるつもり?」


 バカにした口調で、こっちに近づいてきた、数人のクラスの女の子たち。昨日、わたしみたいな目立たない人間が海老名くんに話しかけたのが、気に触ったんだろう。


「……べつに、そんなつもりじゃない」


 どうせ、普段は話しかけてくる友達なんていないんだから、教室の中で一人で音楽を聴くくらい、普通のことなのに。


「聞いたよ、全部。同じ中学だった子から」


 やっぱり、予想どおり。


「しらばっくれてたわけだよね。陰では有名だったらしいじゃん。宮前さん、アイジンの子だって。もちろん、血の繋がりのない」


 さすがに、わたしと蒼ちゃんと同じ学校に通っていたときは誰も口に出さなかったことだけれど、今となっては、格好の話題になる。


「どっちにしても、いい迷惑だよね、宮前くんには。そんな噂が学校中に広まるのも、こんな人が妹だと思われるのも」


 そんなこと、何千何万回と、わたしは考えてきた。今さら、傷つきなんかしない。


「宮前くんも、言ってるらしいよ」


「え……?」


 無視を決め込もうと思っていたのに、そこで反応してしまった。


「毎日顔合わせるの、苦痛だって。一緒に住むなら、可愛い子がよかったって」


「そう……だろうね」


 蒼ちゃんが、それを誰に打ち明けたのかは、わからない。でも、そう思われているのは、明らか。


「ちょっと、人が話してる途中でしょ?」


 さっきから、手の中に握りしめていたイヤホンを、今度こそ耳に押し込む。


『日菜は、可愛いよ』


 どうしてか、イロイッカイズツの曲を聴いていると、あの頃の蒼ちゃんの言葉が聞こえてくるの。


『ぼくが、日菜を守ってあげる』


 そう言って、どんなときでもわたしを守ってくれた、蒼ちゃんの……。


「何なの? その態度」


「あ……」


 ほんの、一瞬の出来事だった。iPodをもぎ取られて、すぐ横の窓から、外の植え込みに投げ落とされたのは。


「それ、やりすぎだって」


「泣いちゃうんじゃん?」


「女子、こわ……!」


 楽しそうに集まってくる、大勢の人たち。外は、ずっと雨が降っている。そのままにしておいたら、壊れちゃう。代わりなんてないのに。


「宮前! ホームルーム、始まるぞ」


 教室を出たところで、担任の先生とすれ違った。でも、何も考える余裕なんてない。とにかく、外へ飛び出そうとすると。


「宮前さん」


 今、ちょうど登校してきたのだろうか。昇降口で、制服についた雨の水滴を払っていた海老名くんに、声をかけられた。


「……おはよう」


 反射的に、一瞬だけその場で立ち止まって、頭を下げた。さっきのひどい話を海老名くんに聞かれないですんだのが、せめてもの救い。


 もっとも、海老名くんの耳にも、とっくに入っていたかな。もしかしたら、蒼ちゃん本人から、“迷惑な同居人”の存在を聞かされていたかもしれないし……。


「だから、呼んでるのに」


「え……?」


 びっくりした。再び外に向かって走り出そうとしたら、海老名くんに腕をつかまれたから。


「これ。上から落ちてきたの、宮前さんのでしょ?」


 海老名くんがわたしに差し出してくれたのは、まぎれもなく、わたしの大切な iPod。


「さっき、ちょっと確認してみたけど、壊れてないっぽい」


「本当?」


 戻ってきた宝物を握りしめて、しゃがみ込んだ。


「よかった……」


 何度も何度も、そうつぶやいた。そして、はっと恥ずかしくなる。


「あ、あの」


 いつもこれで聴いている曲を歌っている本人が、目の前にいるんだった。


「わたし……」


 どうも、海老名くんといると、自分を見失いがちになるような。


「ひとつ、言っておきたいんだけど」


 言葉を探していると、海老名くんに遮られた。


「な……に?」


 わたしにとって、聞きたくないことを投げかけられるに決まっている。そう思って、そっと身構えたら。


「俺の歌じゃないから」


「え……?」


 意味がのみ込めない。海老名くんの顔を、ゆっくりと見上げた。


「宮前さん、イロイッカイズツの曲のこと、俺の歌だとか言ってたけど」


「うん」


 思い出した。ライブハウスで蒼ちゃんに怒られたとき、海老名くんの歌を聴くまで帰らないって、つい口から出てきてしまったこと。


「あれ、違うから。全部、蒼太が作った、蒼太の曲」


「あ……うん」


 あのときは、歌っていた海老名くんの名前をとっさに出してしまったけれど、なんとなく、そんな気はしていた。


「ごめんなさい」


 そういった問題は、メンバー内では重要なことなのかもしれない。


「わたしって、本当……」


 今も、イライラさせてるんだろうな。でも、嫌われたくない。海老名くんに嫌われたくないの。前にも増して、その気持ちが強くなっている。


「とりあえず」


 靴を履き替えながら、口を開いた海老名くん。


「そういう卑屈な態度とるの、やめたら?気にさわる」


「ごめんなさ……あ」


 また謝りかけたのを、途中でのみ込んだ。


「それと」


「あ、うん」


 思わず、姿勢を正してしまう。


「その引っつめた髪と、変な眼鏡。学校でだけ、そんなふうにしてる意味がわからない。ギャップ萌えでもねらってんの?」


「えっ? そ……」


 まさか、そんなふうに思われていたなんて。


「あ。授業」


 ちらりと時計を見て、歩き出した海老名くん。あわてて、わたしもそのあとを追う。


「あの、ありがとう。本当に」


「べつに、宮前さんじゃなくて、濡れてる iPod に同情しただけだし。悪いけど、先行くから」


「あ、海老名く……」


 授業が始まりそうなのに、わたしの足の速度に合わせてもらえるわけはなくて。でも、ついさっき、海老名くんに何気なくつかまれた腕がまだ熱い。外へ飛び出そうとしていた、わたしを止めてくれた。


「海老名、くん……」


 ついさっきまで、わたしといた海老名くんとの会話を回想しながら、そっと名前をつぶやいてみる。


 どんなふうに、蒼ちゃんと知り合ったのか。バンドは、いつから一緒にやっていたのか。蒼ちゃんのことで知りたいことは、いくらでもあるはずなのに。


 今、何よりも気にかかってしようがないのは、海老名くんのことを考えるだけで胸が騒ぐ、わたしのこの気持ちの正体なの。



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