第2話 同級



 どうしても、興味とも好奇心ともつかない気持ちを抑えることができない。


 数分前に、駅の目の前の大きな通りを挟んで、すぐそばの建物の中に、早足で入っていった蒼ちゃん。見つからないくらいの時間と間隔を置いて、その建物のようすを確認しにきてしまった。


 カフェが併設された、小綺麗なライブハウス。WIRE というのが、店の名前なのだろうか。


「イロイッカイズツ……」


 出演バンドの名前が示された入口の貼り紙に、意味のわかりにくい英単語が羅列されている中、一際目を引いた、その不思議な呪文のような名前。直感で、蒼ちゃんのバンドだとわかった。


 高校入試が終わった頃から、音楽に夢中になり始めた蒼ちゃん。その世界をのぞいてみたくないはずがない。


 開場は、6時半だと書いてある。蒼ちゃんのバンドは、多分最後。蒼ちゃんは、どんな曲を演奏するんだろう? 歌も蒼ちゃんが? お客さんは、どんな人たちなんだろう?





「ごちそうさまでした」


 まっすぐ家に戻って、宿題と予習を済ませたあと、一人の夕食と後片付けも終えた。


「6時15分……」


 お友達と集まって楽しんでいる、お母さんの帰りもまだ先。行ってみようか。ううん、行きたい。こんなにも気持ちが突き動かされることなんて、今までになかった。


 だけど……と、鏡に映る自分を見た。いつもどおりの引っつめた髪に、おしゃれさのかけらも感じさせない眼鏡。


 せめて、悪い方には目立ちたくない。その一心で、髪をほどいて、念入りにとかす。眼鏡も外して、苦手なコンタクトを着けた。


 こんなことで、蒼ちゃんに近づけると思っているわけではないけれど、鏡の中の自分は小学生の頃に戻ったみたい。


 知らない世界の扉を開けるようで、不安と楽しみが入り混じっている、そんな心境。再び店に着く頃には、慣れないコンタクトの痛みも全然気にならなくなっていた。


「名前、いただいてます? ゲストさん?」


「すみません。予約とか、してないんです。えっと、ミヤマエ……」


「ああ、けっこうですよ。ドリンク代込みで、2000円です」


 中も想像していたような暗い雰囲気ではなく、安心したものの。


「はい、ちょうどですね。手、貸してください」


「手?」


 要領を得なくて、挙動不審な客に違いない。


「再入場用のスタンプ、押すんで」


「は、はい」


 スタッフの男の人に左手を出して、店の名前のスタンプを押してもらった。こんなささいなことにも、ドキドキする。ロビーには、グループで談笑している、いくつもの輪。この演奏の音は、どこから聞こえているんだろう?


「ホールは、あちらの扉になりますね」


「あ……すみません、ありがとうございます」


 入口のスタッフの人が声をかけてくれなかったら、いつまでも、この場に立ちつくしたままだったかもしれない。


「ん……」


 それにしても、重い扉。なかなか、開かない。まるで、わたしが中に入るのことを、かたくなに拒絶されているような……と、そのときだった。


「大丈夫?」


 扉の取っ手に、同じ年くらいの男の子の大きな手が、ふわりとかけられた。


「この扉、押すんじゃなくて、引くんだよ」


「え……?」


 目の前で容易に開けられた扉に、恥ずかしさが広がる。


「あの、ありがとうございます」


 こういう場所に慣れていないの、見え見えなんだろうな。


「いえいえ」


 ニッコリと、人懐っこい笑顔で対応してくれる、この男の子。少し長めの髪といい、服の着崩し方といい、見るからに音楽をやっている人という感じ。


「はい、ドーゾ」


「すみません」


 わざわざ、開けた扉まで押さえて、わたしを通してくれた。しかも。


「ここ、初めて?」


「はい」


「どのバンド、観にきたの?」


 バカにしたりすることなく、わたしの相手をしてくれる。


「えっと……イロイッカイズツ、を」


「え? うち?」


 うれしそうに、男の子が反応した。じゃあ、この男の子が、蒼ちゃんと同じバンドの人なんだ。


「もしかして、山口の知り合い? あ、蒼太?」


「いえ、その……」


 どうしよう? 蒼ちゃんのこと、どんなふうに説明したらいい?


「ああ、ごめん。戻んなきゃ」


 そのタイミングで、ポケットの携帯が鳴ったらしい。申し訳ないけれど、ほっとした。


「じゃあ、もうひとつ、このドアも開けて入ってね」


「何から何まで、ありがとうございました」


 つい、改まったお辞儀をしてしまうと、男の子はおかしそうに笑いながら、ロビーの方へ戻っていった。その扉が完全に閉まるのを待って、音がする方の扉を開ける。


「…………!」


 すごい音量。扉を一枚隔てただけで、こんなに違うんだ。


 思っていたよりも多くない、まばらなお客さんの間から、ステージに目をやる。ドラムの男の子とギターの女の子、二人の演奏。


「まだ、やるんだ」


「イロイッカイズツ、早く観たいのに」


 曲の合間に、そんな会話をあちこちでされている状況が、気の毒になってしまう。それでも、時間が経つとともに人数が増えて、だんだんと空間が埋まってきた。


 もうすぐ、蒼ちゃんたちが出てくるんだ。緊張が高まる。


 やがて、寂しい拍手が鳴り終えた頃、楽器を持ってステージの脇から出てきたのは、やっぱり、あの男の子と蒼ちゃん。どのみち、向こうからは見えないだろうけれど、さらに機材の陰になるところに移動する。


「蒼ちゃん……」


 さっきの男の子と、奥のドラムの前に座っている別の男の子とも短いやり取りをしながら、蒼ちゃんがギターの準備をしている。


 笑っているけれど、笑っていないような。でも、ちゃんと楽しんで笑っている、蒼ちゃん。なつかしい。女の子たちがよく騒いでいた、蒼ちゃん独特の笑顔。


 支度は、まだかかりそう。押し寄せてくる人の波に静かに抵抗しながら、うつむいたまま、演奏が始まるのを待つ。


 わたしの全てだった蒼ちゃんのことを、少しでも理解できたら ————— そんな気持ちで、歓声が上がるのと、カウントの音と同時に顔を上げると。


「え……?」


 勝手に、蒼ちゃんの歌う姿を想像していたわたしは、面くらう。ステージの左端で、ギターを弾く蒼ちゃん。右の方では、さっきの男の子が、多分ベースを弾いていて。ドラムの人の顔は、よく見えない。


 問題は、蒼ちゃんと同じようなギターを持って、中央に立っている男の子。間違いない。毎日、同じ教室の中で、わたしの隣に座っている、海老名くん。


 でも、そんな驚きがほんの小さなことに感じられるくらい、耳から入ってくる音楽に釘付けになる。体中のありとあらゆる全神経が、耳に集中する。


 海老名くんが淡々と歌い出す、その旋律は初めて聴くものなのに、なつかしいような感覚が甦るのは、どうして? こんな気持ちになるわけが、自分でもわからない。ただ、涙だけが止まらないの。


 呼び起こされるのは、断片的な優しい記憶の数々。


 庭で摘んだマーガレットのかすかな甘い匂い。そして、夕暮れ時に揺られた、心地よいバスの振動 ————— 。


 イロイッカイズツ。


 この瞬間、いろいろな意味で、このバンドの全てが、わたしのひそかな宝物になった。誰にも言えない、わたしだけの大切な。


「一枚、ください」


 帰り際、入口の近くで販売されていたイロイッカイズツの自主制作のCDを、わたしは家に着くまで、ずっと胸に抱いていた。



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