壊れるほどの愛を、君に
伊東ミヤコ
第1話 兄妹
「
それは、先の見えない暗闇の中に、突然現れた光。優しさと同時に力強さを感じる
「え……?」
あまりの
「可愛いね、日菜は」
耳に入ってきたのは、信じられない言葉。
「その髪、お姫さまみたい。目も、宝石みたいに綺麗だね」
「本当?」
驚いて、顔を上げる。
「みんな、ヘンだって言うんだよ。わたしの髪」
それに、宝石みたいに綺麗なのは、目の前の蒼ちゃんの瞳の方なのに。
「本当だよ」
そして、わたしに差し伸ばされたのは、何よりも安心できると感じた、蒼ちゃんの手。
「これからは、ぼくが日菜を守ってあげるからね」
「うれしい」
おとぎ話の中の王子様のような蒼ちゃんに甘えて、幸せだった日々。もう、同級生の心ない言葉も、気にする必要はなかった。
「日菜は可愛いよ。誰よりも」
わたしだけを見て、何度でも繰り返してくれる。わたしは、このままでいいんだって。蒼ちゃんだけにかけてもらえる、自分を好きになる魔法。
「日菜のことは、ずっとぼくが守ってあげる」
出会った日から、変わらない。それどころか、日に日に強くなっていった、蒼ちゃんへの信頼。
「蒼ちゃん、大好き」
「……きっと、ぼくの方が好きだよ」
夢みたいだった時間。ううん、最初から、夢だったのかもしれない。
* * *
制服に着替えて、リビングに向かう途中。
「おはよう、蒼ちゃ……」
ちょうど、隣の部屋から出てきた蒼ちゃんは、いつものように、わたしと視線も合わせないで、先に階段を下りていく。
とっくに、わかっているのに。もう、蒼ちゃんは、わたしと口をきく気なんかないって。あんな幸せが永遠に続くわけがないことも、心のどこかでは理解していたつもり。でも、それでも ————— 。
ダイニングに通じるドアを開ける前に、今日も涙を押し込むように、指でぬぐった。現実を受け入れるため、ガラスに映る冴えない自分の姿をながめながら。
わたし、
突然、わたしを愛してくれていた唯一の人がいなくなり、不安と孤独の波にさらわれ、途方に暮れていたとき、“お母さんが生前お世話になった宮前さん”の家の子供にしてもらえると聞かされて、そのときから、わたしには新しい家族ができた。
新しいお母さんと、初めてのお父さん。そして、ちょうど同じ学年のお兄ちゃん、蒼ちゃん。
目を閉じれば、あの日の蒼ちゃんが、くっきりと脳裏に浮かぶ。今と印象が変わらない、すらりと高い身長に、キリッとした意志の強そうな瞳が印象的だった。
それに対して、くせっ毛と眼鏡という子供が仲間外れにされるのに十分すぎる理由をふたつも持っている、わたし。いじめられ慣れしすぎていたせいで、口をきくまでは、蒼ちゃんのことも怖かったっけ。
でも、そんなわたしのそばに歩み寄って、蒼ちゃんは可愛いとほめてくれた。ずっと消えてしまえばいいと思っていた、わたしの髪と目のことを。でも……きっと、蒼ちゃんは覚えてもいない。
「蒼太、今日の夕食はどうするの?」
「いらない。一回、着替えに戻るけど」
「また、バンドの練習?」
「練習っていうか、今日はライブ。じゃあ」
「
お母さんと短い会話を交わしてから、トーストをくわえて、早々と家を出ていく蒼ちゃん。
「いたの? 日菜」
「あ……おはようございます」
軽くため息をついてから、お母さんが紅茶とトーストを運んできてくれた。テーブルの上には、サラダとヨーグルトがふたつずつ。手をつけなかった蒼ちゃんの分と、わたしの分。
蒼ちゃんが出ていったドアを、ぼんやりとながめる。蒼ちゃんは、わたしと朝食を一緒にとることすら、嫌なのかな。
こんなふうになってしまったのは、わたしたちが中学校に入る少し前から。無理もない。昔から、学校中の女の子の憧れだった蒼ちゃんなのに、わたしみたいな妹がいるなんて思われたくないのは、当然のこと。
でも、理由はそれだけではない。
「本当に、ひどい髪。どうにかならないの?」
「……結わいていくんで」
この、お母さんの大嫌いな強いくせっ毛は、わたしの本当のお母さんから譲り受けたもの。
「あなたは、家で食べるんでしょ?」
「はい。お願いします」
わたしを気遣ってはくれるものの、めったに家に帰ってこない、お父さん。そして、わたしへの嫌悪の感情を必死で押し殺そうとしている、お母さん。
初めに、この家族とわたしの関係を感じ取ったのは、きっと蒼ちゃんの方。蒼ちゃんのわたしに対する態度が変化するまで、わたしは考えもしなかったけれど、誰も口に出さなくても、さすがに今ではわかる。
いつも優しくて、蒼ちゃんに出会う前は、世界でいちばん好きだった、わたしのお母さんは……きっと、お父さんの愛人だったんだろうって。
当時は理解することができなかった 『アイジン』という言葉が、実際に親戚の人たちの口から出てくるのも、聞いた記憶がある。
でも、わたしの本当のお父さんについては、誰にも教えられたことがない。だから、わたしと蒼ちゃんに血のつながりがあるのかどうかも、わからないの。
思い返せば、ずいぶんとのんきだった。それは、蒼ちゃんがわたしの全てだったから。蒼ちゃんが、ずっとわたしを守ってくれていたから。だから、蒼ちゃんが離れていってしまうまで、自分の立場なんて、考えもしなかったんだ。
「いつも、まっすぐ帰ってくるみたいだけど。あなた、クラスに友達はいないの?」
「あ……一緒に、寄り道するような子は」
「そう」
つまらなそうに相づちを打つ、お母さん。
「ごちそうさまでした。行ってきます」
あいまいな笑顔を向け、立ち上がる。高校に入ってから、わたしはさらに、学校の中で空気のような存在になった。蒼ちゃんと学校が離れたことで、蒼ちゃん目当てで近づいてくる女の子がいなくなったせい。
それはそれで、気持ちは楽になった。さすがにもう、髪と眼鏡のせいでからかわれることはないけれど、人と関わることへの苦手意識が残ったままだから。
子供の頃から進歩がない。蒼ちゃんがいないと、わたしの世界は行き場も見えず、ただ霧の中をさまよっているみたい。
一時間目の授業が終わったあとのことだった。
「あ」
隣の席の男の子の消しゴムが転がってきて、わたしの椅子の下に。
「……これ」
少し緊張しながら、拾った消しゴムを手渡す。
「どうも」
「いえ……」
初めて、間近で声を聞いた。この学校で、いちばん目をひく、
そういえば、海老名くんも、蒼ちゃんみたいにバンド活動をしているという
わたしと反対。海老名くんは、この教室にいる周りの人たちの方を空気みたいに思ってるようで、休み時間も自分の席に着いたまま、いつも一人で iPod の音楽に没頭している。
「何?」
「ううん……! 何でもないの。ごめんなさい」
なんとなく、目の前の海老名くんに視線を奪われてしまっていた。
わたし以外の人とも、最初からまともなコミュニケーションをとる気がなさそうな、海老名くん。それにもかかわらず、外見と雰囲気だけで女の子たちに騒がれて、男の子からも一目置かれている感じなのは、逆にすごいと思う。
白くて、透明な肌。顔立ちは女の子のように端正で、それでいて、細いのに貧相じゃない骨格に、蒼ちゃんほどじゃないけれど、高い背。
こういう人の目には、どんな世界が映っているんだろう? いつも友達に囲まれている蒼ちゃんとタイプは違っても、きっと蒼ちゃんと同じように、キラキラしているに違いない……と、そんなことを考えていたら。
「ねえねえ、宮前さん」
「はい?」
後ろから、不意に声をかけてきた女の子に戸惑う。同級生に話しかけられることなんて、めったにないから。
「えっと、何?」
「宮前さんってさ、西高の宮前蒼太くんの妹じゃないよね?」
「あ……」
こういうときに、どう答えたらいいのかが、わからない。
「ああ、ごめんねえ。同じ年の妹がいるって聞いたから、つい同じ名字の宮前さんのこと、もしかしたらと思っちゃって。そんなわけないよね」
ほらね、と言いたげな友達の方に戻っていく女の子。表向き、兄妹として育てられていても、蒼ちゃんに迷惑がられたらと思うと、妹だなんて言えない。
今のお母さんとお父さんの間で、疑いのない蒼ちゃんの妹として生まれてきていたら、どんなによかっただろう? でも、そんなことを考えたら、わたしを産んでくれたお母さんが悲しんでしまう。
「…………」
そこで、隣の海老名くんの視線を感じたから、もう一度、無関係を装うように首をかしげるしぐさまでして見せた。こんな自分も悲しい。
でも、あと少し。高校を卒業したら、きっと家を出て働いて、遠くから恩を返していくの。
お母さんと、お父さん。そして、蒼ちゃんの前にも二度と姿を現さないことが、わたしが大好きな蒼ちゃんにしてあげられる、ただひとつのことだから。
「ただいま」
「緑色の袋? ここにあるけど。
「…………?」
家に着いて、玄関のドアを開けるなり、リビングの方から飛び込んできたのは、電話中のお母さんの声。
「切るわよ。もう、あきらめなさい」
蒼ちゃん、かな。靴を脱がすに、その場でぼんやりと立ったままでいると。
「帰ってたのね、日菜。あなたの分の夕食は作っておいたから。あとで、温めて食べなさい」
お母さんがわたしに気づいて、おかずを冷蔵庫から出して、並べてくれた。
「すみません」
わたしのためだけに用意してもらえた、お母さんの手料理。感謝しなくちゃいけない。
「出かけてくるわ」
「はい 。行ってらっしゃい」
「これ……?」
ふと、足元の緑色の紙袋に、目が留まった。中をのぞいてみると、ギターか何かにつなげるような、いくつかの小さな機械。
やっぱり、電話は蒼ちゃんだったんだ。わざわざ、お母さんに頼んでいたくらいだから、これがなくて、きっとすごく困っているんだ。新代田って、さっき聞こえてきたっけ。
とにかく、行ってみよう。そして、新代田の駅で連絡を入れれば、受け取りには来てくれるはず。気づいたときには紙袋を抱えて、制服のまま、わたしは走り出していた。
新代田の駅の改札を出て、すぐにバッグの中から携帯を取り出した。ここまで勢いで来てしまったものの、やっぱり、怖い。
迷惑そうな顔をされたら、どうしよう? それ以前に、電話に出てもらえるかもわからない。でも……。
「日菜?」
「蒼……ちゃん」
はっとして、顔を上げたら、目の前に驚いた表情の蒼ちゃんが立っていた。
「ああ、それ」
わたしの持っている紙袋に視線を落とす、蒼ちゃん。
「今、取りに帰ろうと思ってたところ」
「あ……そっか」
あわてて、紙袋を蒼ちゃんに差し出す。
「よけいなことをしちゃって、ごめんなさい」
途中で行き違っていたら、大変なことになるところだった。迷惑だけは、かけたくないのに。
「じゃあ、これ」
「……ああ」
ほんの一瞬、触れた指先。
しっかり、受け取ってもらえた。わたしの自己満足にすぎないかもしれないけれど、ここまで届けにきてよかった。だって、必要最小限でも会話を交わすことができたこと自体、ひさしぶり。
「じゃあね、蒼ちゃん」
長居は無用だって、わかっている。すぐに、改札の中へ引き返そうとすると。
「日菜」
そこで、思いがけない蒼ちゃんの声。
「何? 蒼ちゃん」
一瞬、ためらうように視線をそらして、でも、はっきりと。
「ありがとう。助かった」
蒼ちゃんは、わたしに言ってくれた。
「……ううん」
ライブ頑張って、とか。もっと気のきいたことが言えればいいのに、今のわたしには、首をふるのが精一杯だった。
「気をつけて帰れよ」
「もう、わたしは子供じゃないよ」
最後には、蒼ちゃんに笑顔を向けることもできた。見てもらえたかどうかは、わからないけれど。
でも、そんなささいなきっかけで、人間はどんどん欲張りになっていく。幼い頃の記憶と同じように、もっともっと蒼ちゃんに近づけたらって。
わたしの持ってきた紙袋を大事そうに抱え、鮮やかに横断歩道を渡っていく蒼ちゃんの後ろ姿を見て、そう思わずにはいられなかった。
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