第6話 新月のファントム(4)

 アイネスとメイシュエは並んだまま音もなく滑るように路地を進んでいった。


 視界の先にはドローレスと名乗った幼女が頼りないランプの明かりとともに歩いているのが見える。路地は緩いカーブを描きながら数百メートル続いていた。道幅は車一台通るのがギリギリ程度だが、人が歩く分には道幅に不自由はない。両側は民家に混じって飲食店や雑貨店などが並ぶ、典型的な古くからの街道沿いの宿場町の風情だ。初冬のストタニアの夜明けは遅い。午前五時にすらならない街は、どの家もまだ深い眠りの中に沈んでいる。


 幼女はそんな夜明け前の暗がりの路地をトコトコと歩いていく。暗がりを照らすランプの光が揺れている。


「まだ効いてきませんね」

「そうね。個人差はあるけど、大人ならもう効果が出ていてもおかしくない」


 幼女の後方に気づかれないように近づいたメイシュエとアイネスは、周囲に気を配りながら短く言葉を交わした。


「アイネスさん、あそこの路地の出口の影です。あそこにSPが隠れています。細身で背の高いのとマッチョの二人です。どっちも私の好みではありません」

「余計な情報は不要よ、メイシュエ。しかし、ここであの子がSPの手の届く範囲に入るとまったく手が出せなくなるわね。今すぐ行くしか仕方がない。行くわよ」

「了解です。私が前に出てガードします」


 二人は再び音もなく路地を進んだ。幼女まであと数十メートルといったところまで来た。これ以上の接近は、幼女に気づかれるのを覚悟しなければならない。幼女に「自分はさらわれた」という認識が残るのはできれば避けたかったが、背に腹は変えられない。アイネスは腹をくくった。


 すると、前をおぼつかない足取りで歩いていた幼女の掲げていたランプが、地面に落ちカランと音を立てて転がった。ランプの明かりが路上に這う。

 同時に幼女の身体がゆらりと揺れて、そのままこてんと路地に倒れ込んだ。


「効きました!」

「まったく、遅いわね。ひやひやするわ。もう少し効き目が出るまでの時間精度が高い薬にならないかしら。タイミングがシビアになって困るのはエージェントなのよね」

「あまり効きが早すぎても困る場合ありますからね。早くても遅くても、一定の時間で効いてほしいです。あ、SPが来ます! 急ぎましょう!」


 幼女の異変を察知した男が二人、路地の向こう側から猛然と走ってきた。SPというより民間のガードマンなのだろう。黒スーツにサングラスというSP的な姿はしていない。ボアのついたジャンパー姿の男二人が路地の電灯に浮かびあがって、すぐに路地の闇に溶けた。アイネスとメイシュエは路地の端の暗がりを音も立てずに走っている。おそらくSP達からは二人の姿は見えていない。


「私が前に出てSPを押さえます。アイネスさんはあの子を確保して大通りの車へ。キーはつけたままにしてあります。最悪先に車で行ってください」

「馬鹿言わないで。タスクはまだ始まったばかりよ。こんな序盤で離脱するなんて、私が許さないわ。SP達の足止めは一瞬でいいから。銃器の類は持っていないはずよ。この場では駆けっこでSP達に負けなければいい」

「分かりました」


 メイシュエは倒れている幼女の横を通過してSPたちの前にトップスピードで突っ込んでいった。アイネスは倒れた幼女をひざまずいて左手で抱きかかえる。 二人の動きはなめらかで物音ひとつしない。即席のコンビとは思えないほど息が合っていた。アイネス達二人の着る黒っぽいスエットは、暁の紫が差し始めた路地の風景にまぎれていた。


 アイネスは一瞬の早業で、抱きかかえた幼女を左手でかばいながら身をひねった。そしてUターンする、来た道を一目散に駆け戻り始める。

 一方、メイシュエは駆けてきた背の高い方のSPの目の前で、路地端の暗がりから真ん中にひらりと踊り出た。SP達には突然黒い物体が目の前に現れたかのように見えただろう。

 トップスピードでのすれ違いざま、背の高い方のSPの脇腹に肘打ちを食らわせる。ばすんという音ともにメイシュエの肘が男の脇腹にめりこんだ。

 すぐにくるりと素早く身体を反転させると、もう一人のマッチョのSPの脛めがけて回転払い蹴りを一発入れた。

 体重の軽いメイシュエの一撃はいずれも打撃力は少ない。しかし、人体の急所を突かれて、肘打ちを受けた背の高いSPはせき込みながら膝を付き、脛を蹴られたマッチョのSPは足をもつれさせながら頭から冷たい路地の石畳に倒れ伏せてしまった。


 メイシュエは態勢を立て直すと、幼女を抱きかかえるアイネスの背中を追って、数秒前に走ってきた道を再びトップスピードで戻り始める。

 アイネスは幼女を抱きかかえながら、それでもかなりのスピードで走っていく。

 先に走るアイネスにメイシュエはぐんぐんとその差を縮めていった。暗い路地には、二人のかすかな足音だけが鳴っている。メイシュエは前を走るアイネスに声をかけた。


「ひとまず、足止めには成功しました。行きましょう」

「見事だったわ」

「こんなところで失敗するわけにはいきませんから」


 短く言葉をかわす。息の乱れもない。二人は教会へと通じる路地から右手に向かってさらに細い路地へと入り込んだ。人が並んで歩くのも困難な狭い路地を駆け抜けて、パティオ広場へと出た。


「アイネスさん、右です!」


 メイシュエがアイネスに指示を飛ばした。幼女を抱きかかえている分、アイネスの方がスピードに劣る。メイシュエがアイネスに追いついたと思ったとき、 アイネスの鋭い声がパティオ広場に響いた。


「メイシュエ! 左うしろ! 来てるわ」

「はいっ!」


 メイシュエは短くそれに応じると、すぐにアイネスの背後から離れ、左に向かって横っ飛びに離脱した。一瞬のうちにスエットの内側から小ナイフを引き抜いて、復活して二人を追ってきたSP二人の足元に向けて投げつけた。メイシュエは投擲に自信があったのか、戦果を確認することもなく、すぐに再び前を向いて走り出す。軽やかに速力を上げて、一気に幼女を胸に抱いて走るアイネスに追いついた。

 背後でどさりと鈍い音がして、大男が二人とも脛にナイフを受けて地面に転がっていた。大男たちのうめき声がまだ明けきらないパティオ広場に取り残される。

 アイネスは子どもを右手で抱きかかえたまま左手で拳銃をつかみ、振り返りざまに男達に向かって撃ちはなった。

 薄暗いパティオ広場

 そこそこ距離がある標的。

 子供を抱きかかえた無理な態勢。

 とてもまともな銃撃のできる条件ではなかったが、アイネスの放った二発の銃弾は一瞬の閃光とともに糸を引くようなきれいな飛跡を残して一人の脇腹、もう一人の肩に着弾する。ただそれは暗がりのパティオ広場の向こう側の出来事。常人には銃弾が当たったかどうかを判別することすら困難だ。


「アイネスさん、車は右手の大通りです。私が先に行きます」


 メイシュエは一声で呼びかけ、あっという間にアイネスを追い抜いて行った。その後ろ姿をアイネスは子供を抱えて追う。パティオ広場の出口を右に曲がると、少し大きめの通りに出た。この通りはポプラ並木のストタニアのメインストリートだ。しかしその交通量は昼間でも極めて少ない。ましてや朝日もまだ稜線のはるか下にあるこの時間に人通りは皆無だ。音を立てないように走っている二人の息遣いだけがストリートに響く。


 やがてメイシュエは路肩に止めてあったフィアット・アバルト695の運転席のドアを開けて滑り込んだ。ヘッドライトがポプラ並木を照らし、エンジンが目覚める。

 一呼吸遅れて幼女を抱きかかえたアイネスが追いついた。幼女を助手席のシートを倒して、後部座席に寝かせると、車内にあった毛布をそっと幼女にかぶせた。アイネス自身が車内に入ったのは、シートを戻した後だ。後部座席には横になった幼女がこんもりとした毛布に埋もれている。


「いいわよ、出して!」


 アイネスが助手席側のドアをバタンと閉めると、すぐにメイシュエが必要以上にアクセル踏まずにゆるりと車をスタートさせた。

 アイネスは一息ついてふうと息を吐いた。フロントガラスの向こうにはヘッドライトに照らされた峠道。空はだいぶ明るくなってきているが、日の出まではまだ時間がある。


「アイネスさん、すみませんでした。もう少し静かに片付けるべきでした」

「あれぐらいは仕方ないわ。多分誰も気づいていないでしょう。それよりもSPが二人だけだったのはラッキーだったわね」

「殺しちゃったんですか?」


 気がかりな様子でメイシュエは問うた。さすがに訓練生の身で殺しの場面には慣れていないようだ。


「忘れてもらっただけよ。無駄な血は流さない主義なの、私は。撃ったのは強力な麻酔作用のあるトランキライザー弾。まる一日は意識が戻らないし、意識が戻っても三日分の記憶がなくなっているわ」

「どっちにしろ私のタイプじゃなかったんで。殺してしまってもよかったんですけどね」

「メイシュエ、余計な情報は不要と言ったはずよ。それに」


 少し気を緩めてハンドルを握るメイシュエにアイネスが諭す。


「今回は上手く行ったけど、いつあなたや私が殺されることになるか分からない。それを忘れてはいけないのよ。私たちエージェントは」

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