第5話 新月のファントム(3)


「前もって教えておいてほしかったわね」


 電話口でアイネスは不満をぶつけた。窓から見えるのは漆黒の闇。部屋の明かりもすべて落としてある山奥の粗末な木小屋は、おそらくブナの森林の中に完全に埋没し、暗闇と同化してしまっていて、よほど近づかなければ建物と認識することすら困難だろう。


「おや、私は『現地でアシスタントを用意してある』とはっきりキミに伝えたはずだが」


 携帯電話の向こう側でキリアムはさらりとうそぶいている。アイネスはため息をついた。


「たしかにそう言っていたけどね。でも、それだけしか言わなかったじゃない。さすがに情報伝達不足だと思うわ。最初に接触してきたときに勢い余って彼女にケガさせていたりしたらどうするつもりだったのよ。最悪殺してしまったかもしれないのに」

「それも訓練の一環だよ、アイネス。キミに殺されるなら、その程度の人材だったということだ」

「相変わらずヒューマンリソースの重要さがわかってないみたいね。いい加減エージェントを捨て駒みたいに使い捨てにするの、やめてくださらない? 私がやられてしまうことだってあり得たのよ?」

「彼女はまだエージェントではない。訓練生だ。それに相手がキミなら万が一にも訓練生にやられてしまう危険性はない。それどころか、高い確率で相手に害意がないことまで見抜いて行動するだろう。そう考えたのは、私の買いかぶりではないと思うがね。キミとの模擬戦闘は訓練生の能力を測るのに最適なんだよ。九十六期生の中では抜群のクロースコンタクター接近戦闘担当だと評判の娘だ。で、どうだったね」

「そんなところで評価されてもあまり嬉しくないわね。でも、彼女、……悪くはないと思うわ」


 キリアムの問いかけに対して一瞬の間が空いた。絶賛の言葉が飛び出すのを期待していたキリアムが肩をすくめた様子が電話越しに気配で伝わってくる。


「随分辛口だな。上層部からは極めて高い評価を得ているのだが。すぐに実戦投入できるとね」

「辛口だったかしら? 十分褒めたつもりだけど。どちらにしても、今回のような特別にややこしいタスクの最中に、訓練生の検定なんか混ぜないでほしいわ。検定なら検定で時間を取ればいいだけの話じゃない」

「今は人手不足なんだよ。それに時間もない」

「それは知っているけど。……キリアム、言っておくけど、今回のタスク、私は全力で取り組むつもりなの。だから余計な手間を増やさないでほしかった、というのが本当のところ」

「頼もしい。それでこそアイネス・ゼステンブルグだ」

「茶化さないでくださる? 全力で行かないと、こっちがやられるじゃない。ボーナスと休暇をはずんでもらうわよ?」

「前向きに検討しておく。それよりも、一つ言い忘れたが」


 キリアムが持って回った言い方をするときは、およそろくでもない情報を伝える時だ。アイネスは嫌な予感を飲み込んだ。


「……明日は、ファントムだ。確定情報が届いたんでね」

「え? というと、作戦は延期して、しばらく待機しろということなのかしら?」

「いや、タスクスケジュールには変更はない。既に伝えてある計画のとおり、ミッションにかかってくれ」


 今度こそアイネスが目を剥く。ろくでもないどころじゃない。今回のタスクの前提すら覆すようなことをサラリと言ってのけている。


「それって、つまり……」

「アイネス、私はキミが聡明で怜悧な女性だと信じている」

「……これ以上聞くな、ということね」


アイネスは窓の外の暗闇に向かってため息をついた。窓ガラスに映った黒髪が揺れる。


「エージェントは知る必要のない情報は聞かないのが鉄則ね。分かったわ。当初の計画通りの手順で進行する。適宜情報は流してくださる?」

「それでこそトップエージェントだ、アイネス。武運を祈る。では、こちらからの次のコンタクトはベリル島到着後だ」

「了解よ」


 アイネスは画面をフリックして通話を終了した。山奥の静寂が押し寄せてくる。

 肩をすくめて、スマホをテーブルの上に置いた。山奥の一軒家は、元はおそらく林業者の作業小屋みたいなものだったのだろう。質素な作りだが、冬の寒さにはある程度耐えられるように作ってあり、見た目に反してすきま風で悩まされることはない。


 アイネスは、長い髪を揺らしてコーヒーを一口すする。


「しかし、ファントムと分かっていてタスクスケジュールに変更なしって、どういうことかしら。つまり、ターゲットはどっちでもいい、ってこと? まったく、情報を小出しにするのもたいがいにしてほしいわ。キリアムに文句を言ってもどうせ何も教えてくれないことが分かってるから言わないけど」


 ◇


 翌朝午前四時前。


 街の中心にある教会前の広場の物陰にアイネスは身を隠していた。月の光もない新月の夜、山奥の田舎に小ぢんまりとした尖塔を持つ教会前の広場の周囲は、ちょっとしたマルシェになっている。昼間は町の人たちが集うが、未明の暗がりに静まり返っている。人々はまだ眠りの中だ。


 教会の扉がゆっくり開き、中から数人の子供が出てきた。牧師がそれを見送っているのが見える。子供たちは三々五々広場を横切って各々の自宅へ戻っていく。子供たちだけで夜明け前の教会で祈りを捧げるこの地方特有の宗教儀式、アドラクシオンだった。

 イスラム教の深夜礼拝に微妙に影響を受けているらしい。そのあたりにも、この地方特有の歴史を感じさせる。アドラクシオンの礼拝の前後は、子供たちだけでなく皆、終始無言でなければならないという戒律が今でも厳格に守られている。そんなところにもイスラムの名残が感じられる。二十一世紀の現代においてもここストタニア公国では、テレビやラジオもアドラクシオンの礼拝のある日の日の出前は放送が休止になっていた。


 教会の入口の後ろでちらっと赤い光が見えた。ペンライトでメイシュエが送ってきた合図だ。アイネスは無言かつ無音ですべるように走り出した。時刻はちょうど午前四時ゼロヨンマルマル。秒針の狂いもない、正確なタイミングだった。


「時間に正確なのはいいことね」


 アイネスは低くつぶやいて広場の奥の教会扉に目を向ける。

 アドラクシオンの礼拝を終えた一人の幼女が暗闇の中をランプを下げてとことこと歩いていた。懐中電灯を使わずにクラシックでアンティークなランプを下げて歩くのも伝統のうちなのだろう。アドラクシオンは三ヶ月に一度、季節の変わり目の新月の夜と決まっていた。月明りはなくて当然、周囲は純粋な暗闇だ。教会の前の小さなパティオを抜けて路地に入ると、引き込まれるような暗さに足がすくみそうになる。


 アイネスはわざと足音をたてた。そして、目の前にランプをかざして歩いていく幼女に近づいていく。幼女はアイネスの足音に気が付いて、振り向いて手提げランプ越しに見上げた。人を疑うことをまだ知らない瞳で視線を向けてくる。年のころ十歳になるかならないかの幼女は、暗闇を怖がることもなく慣れた様子だった。


マドモワゼル小さなお姫様、よかったら道に迷って困っている私を助けてもらえないかしら?」


 アイネスは低い声で、優しく話しかけた。幼女は少し戸惑った後、ふるふると首を横に振る。その仕草に気が付かないふりをして、アイネスがごく小さい声で囁き続けた。


「ああ、アドラクシオン中はおうちに帰り着くまでお話ししたらいけないのね。私、この宿屋に戻りたいんだけど、このあたり細かい路地が多くてわかんなくなっちゃったの。場所分からない?」


 アイネスが出したガリ版印刷の簡単なパンフには、ここストタニアの町で数少ない宿屋の一つの名称が書かれていた。幼女はそれを受け取り、手に持ったランプをかざしてパンフの字を追っている。少し考えるそぶりを見せている。

 やにわにぱっと明るい笑顔を見せると、にっこり目を細めた。どうやら心当たりが見つかったらしい。路地の先を指さして、アイネスの手を取って走り出した。さすがにこれはアイネスも想定していなかった。幼女に引っ張られて暗い路地を進んでいく。


 二筋目の角で幼女は立ち止まり、右手の路地の奥を指さした。口の動きで「こ、っ、ち、だ、よ」と指し示している。このあたりは路地が入り組んでいた。同じような建物が並んで観光客は迷いやすい。宿屋と言っても、立派な建物があるわけではない。看板が出ているだけで民家と見分けがつかないものが多い。


 アイネスは幼女と目線の高さが合うまでしゃがみこんで、優しく微笑む。

「ありがとう、マドモワゼル小さなお姫様。よかったらお名前教えてくれない?」


 手帳とペンを差し出すと、幼女は微笑んでペンを受け取り、さらさらと字を書いていった。


 ドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシア


 年頃に似合わないしっかりした筆跡の字を確認すると、アイネスはポケットから飴玉を取り出して幼女に渡した。


「ありがとうね。これでもなめて家に帰ってね、マドモワゼル小さなお姫様


 飴玉を幼女の左手に持たせ、アイネスの両手で包み込むように握らせた。幼女はアイネスの手が離れるとすぐにぽいっと飴玉を頬張る。白いほっぺたが球形に膨らんでにこりと微笑んだ。そしてアイネスに向かってひらひらと手を振ると、ランプを揺らしながら元の道へと引き返していった。


 アイネスはその後姿を手を振って見守る。幼女との距離が十分離れたのを見届けて、ポケットからペンライトを出し、路地奥に向かって腕を丸く回した。

 音もなくアイネスの横にメイシュエが姿を現す。アイネスは今しがた幼女が名前を書いた手帳をメイシュエに見せながら、小声で話しかけた。


「確認は取れたわ。あの子がターゲットよ。あと二分ぐらいで効いてくるはずよ」

「了解です。アイネスさん、この先の路地にSPらしい男が二人隠れています」

「SPと合流されるとまずいわね。穏便に済ませたかったけど、行くしかないわね」

「ですね」


 二人は目線を交わすと、アイネスが先になって音を立てずに走り始めた。


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