第4話 新月のファントム(2)

「まったく、キリアムもひどいわね。なにが『キリアム・ヴァルデンストレームの名にかけて、現地までのルートは確保する』よ。目的地の手前にこんな障害物がセットされているなんて。全然聞いてないわよ」

「ごめんなさい。でも、ですね、あの、その、障害物扱いするのは、ちょっとひどすぎると思うんです。私、泣いちゃいます。キリアム卿からの命令だったんです。『こうやってアイネスの実力を確認しておきなさい。きっと以後の業務遂行に役立つから』って言われて。それが、障害物って言われて、傷ついちゃってますー!」

「物理的な傷じゃなくてよかったんじゃないかしら? それぐらいは我慢してちょうだい。ま、でも、あなたは悪くないわね。悪いのはキリアムよ」


 アイネスはアウディのハンドルを操って黄金色の小麦畑の中の一本道を走っている。見通しはよく、交通量は極小だ。ひたすら長い直線の道路が数キロ先までまっすぐ伸びている。助手席で先ほどの少女が微笑んでいる。ショートカットの栗色の髪の少女は屈託のない明るい表情で、快活に話していた。


「でも、アイネスさん、さすがでしたね。あの至近距離からの私のナイフ投擲をノールックでかわされるとは思いませんでした。というか、あの距離から投げてかすりもしなかったの、初めてですよ。びっくりしちゃいました」

「あなたね、一目見た時からただの通行人じゃないのが丸わかりだったわよ。私が背中を向けた時点で何か投げてくるだろうなと思っていたから。あれでやられるのは三流エージェントだけよね。まあ、でも、あなたに落ち度はないわね。仕方ないと言えば仕方ない。悪いのは私に無断でそういうタスクをあなたに課したキリアムだわ」


 アイネスがこの少女を最初に見かけた時からの違和感の正体は分かった。身元が判明した今、特に疑わしいそぶりは見られないが、まだすべて信用したわけではない。疑ってかかるのもエージェントに必要な資質の一つだ。ただ少女はすっかり気を許したように明るく話しかけてくる。その表情を見る限り悪意や殺意といった負の感情は感じられない。


「あの有名なアイネス・ゼステンブルグさんとご一緒に仕事ができるなんて身に余る光栄です。とーってもうれしいです」

「それは光栄ね。でもね、この仕事で有名になるのはいいことばかりでもないのよ。ところで、そういえばあなたの名前を聞いてなかったわね」

「わたし、メイシュエ・エリアル・チェンといいます。よろしくお願いします」


 少女はあっさりと本名を口にした。アイネスはハンドルを操りながら苦笑する。やたらと本名を口にするのは、時に自分の首を絞めることにもなる。アイネスも訓練生だったころ、タスク中にうっかり本名を告げて教官に厳しく叱責されたことがあった。その時と今はシチュエーションがまるで違うが、少なくとも少女にアイネスのことは微塵も疑っていない様子だ。


―――まあ、この子には今はまだそれでいいわ。敵と味方がはっきりしているから。


―――敵のような味方、味方のような敵がいずれ現れてくる。


―――その時、生き残れるかどうか。エージェントの資質の差はそこに出る。でも、この子にそれを教えるのは私じゃない。


 アウディは短いトンネルを抜けた。広大な農村地帯は終わって、目の前の道は山の中へと進んでいる。先ほどよりも勾配もカーブも強くなってきていた。


「その名前、あなた中国系かしら?」

「ええ、祖母がハルビンの出身です。父方はアイリッシュ系です」

「メイシュエってことは漢字で書くと美雪かな。日本語ならミユキさんね」

「すごい! 日本語ですか? かっこいい! ミユキってわたしのコードネームにします! アイネスさんは日系なんですか!」

「……ふふふ、まあね。エリアル? メイシュエ? どっちで呼ぶ方がいいかしら?」

「コードネームはミユキにします。作戦中はミユキと呼んでください。普段はメイシュエでお願いします」

「あら、その名前、気に入ってもらえてなんだかうれしいわね。あなた、私のアシスタントに駆り出されているってことは、訓練生の最終課程なんでしょう? 私はあなたを訓練生扱いしないから。覚悟しておいて。すべての行動は自己責任よ」

「はい。心得ています。たとえこのタスクで死ぬことになっても、後悔しないように全力を尽くします」

「実地は始めてかしら?」

「いえ、細かい実地は何度か。でもバウンダリーアウト域外任務は初めてです。パスポートも初めて支給されました」


 坂道を登って大きなカーブを曲がると、眼下に数刻前に走ってきた一面の小麦畑が広がっていた。ゆるいカーブを何度も描いてアウディは坂道を登っていく。港町のカステル・プラナとストタニア公国の標高差は二千メートルを超える。

 収穫前の小麦畑は黄金色を輝かせているが、峠を登るにつれて季節は冬になっていく。今のところまだ路肩に雪はないが、それも時間の問題だ。もう半月もすればストタニアの峠道は雪に覆われるだろう。アイネスは少しスピードを控えてアウディを操った。


「初めて? 初めてなのに、とびきりややこしいタスクを当てられるて、災難ね。キリアムに文句言ってもいいわ」


 メイシュエの実戦経験が意外に少ないことにアイネスは目を丸くした。訓練だけであのナイフさばきと身のこなしができるようになるとはかなりのものだ。メイシュエが経験を積めば相当上位のエージェントになれる素質があるだろう。

 アイネスはキリアムが無謀とも言える実地訓練をメイシュエに命じた理由が分かった気がした。


―――現時点でエージェントとして彼女に足らないのは経験だけだ。ならばそれを強制的に積ませればいい、ということね。いかにもキリアムの考えそうなことだわ。


「でも、いいナイフ・アクションだったわ。あなたクロースコンタクター接近戦闘担当なのね」

「ありがとうございます。でもですね、本当はわたしもアイネスさんのようなロングレンジャー遠隔戦闘担当になりたかったんですよ。ただ、私、銃やクロスボウみたいなロングレンジ遠隔武装には適性がなかったみたいで。あ、でも人並み程度にはロングレンジ遠隔武装もこなせますよ」


 二人が車内で話しているうちにもアウディは峠道を登り続けた。すでに標高は千五百メートルを超えている。稜線の向こうの空がだんだん広がってきた。最後の上りを登り切るとそこから先は一旦下り坂となり、そしてストタニア公国との国境だった。山の斜面の向こう側には牧草の広がる中に小さな町が見える。それが山脈の峠道沿いのわずかな平地にできた、ストタニア公国の首都ストタニアだ。町の中心にある尖塔を持つ教会が首都ストタニアの、そしてストタニア公国のシンボルでもある。


「アイネスさん、今晩はひとまず首都ストタニアから東へ十キロほどの村に民家を押さえてありますのでそちらへ向かいます。決行は明朝四時」

「分かったわ。そこまでナビお願いね。いくつか聞いておきたいのだけど。ストタニア公国ではエストリア語かフローレンシア語、どちらの言葉で話せばいいのかしら」

「現地の人は二つの言語が混ざったストタニア語を話しています。表現の使い分けとかが独特なので、ネイティブかそうでないかはすぐばれちゃうと思います。むしろアイネスさんは旅行者を装っていただいた方が自然なんじゃないかと」

「なるほど。じゃあフローレンシアからの旅行者ということにするわ。あなたと私は姉妹ということにしましょう。それでメイシュエ、今回のタスクは二段階になっていることは聞いてるわね?」

「はい。まず第一段階が終わったらすぐ出国します。フローレンシア共和国経由で船に乗ってべリア島へ。下手に漁船をチャーターするよりも安全な方法を確保してあります。車は港で乗り捨てることになると思います。あ、こんな真っ赤なアウディでは目立ちすぎるので、明日は別の車を用意してあります。雪道対応にしてありますけど、まだストタニアもフローレンシアも積雪はありません。フローレンシア共和国内は私が運転します。べリア島までたどり着けば、そこでクライアントに接触できる予定です。そこまでが今回の私のタスクです」

「ああ、クライアントに接触できた後にも、あなたにはもう少し手伝ってもらうかもしれないわ。一応そのつもりでいておいて」


 アイネスはそこで言葉を切った。車は国境を越えてストタニア公国内に入った。山中の小国のストタニア公国は峠道沿いの二十数キロしか領土がない。このまま走れば三十分ほどですぐに領土を突き抜けて、反対側のフローレンシア共和国の国境に行きついてしまう。その間にはいくつかの小さな集落しかなく、町らしい町は首都のストタニアだけだ。ストタニア公国の人口は数万人。そのおよそ半分強が首都ストタニアに暮らしている計算になる。


「しかし、まったく厄介なタスクよね。今までのタスクの中でも一二を争う厄介さだわ」

「アイネスさんにも、厄介だと思うタスクがあるんですね。意外です」

「当り前よ。こんな厄介なタスク、最初は断るつもりだったわ」

「そうなんですか。訓練生はタスクを選べませんからね。どんなタスクでも全力でいきます」

「いい心がけだわ。私も請けたからには全力でいくわ。一つ言っておくけど」


 アイネスはハンドルを握りなおして助手席のメイシュエを横目でとらえた。


「メイシュエ、死んでもいいと言ったわね。ダメよ、死んだら。必ず生き残りなさい。私たちはそうやって生きてきたし、これからもそう」

「はい」

「状況次第では、私を殺してでも生き残るのよ。私も、私自身が生き残るために必要であるならば……」


 アイネスはそこで言葉を切った。数秒の間、上り坂にあえぐエンジン音だけが車内に張り付いている。峠の頂上まで来たアウディの車内に、西日が差し込む。眼下にはここまで走ってきた道と遠くにエストリアの小規模な街並み、そしてはるか遠くに青い海が輝いている。西日の朱色に横顔を照らされたアイネスはいかにも事務連絡だという風体で、淡々と言葉をつないだ。


「……あなたを殺す。躊躇は一切しないから」


 メイシュエはアイネスの迫力に息をのんだ。これがトップエージェントの凄みなのか。


「分かっています。覚悟もしています」


 ◇


 メイシュエは森の中の一軒家までアウディをナビゲートをした。

 夕方まで一軒家の中でタスクのブリーフィングをした後、メイシュエはアウディに乗って一人でストタニアの街の中へと向かって行くと言った。一軒家の玄関先でメイシュエはアイネスに緊急呼び出し用のコインスィッチを手渡す。


「何かあったらこれで呼んでください」


 ただの十セント銅貨にしか見えないコインには感圧スイッチが仕込まれている。これをある程度の強さで押し込むと、すぐにスマホに緊急発信が流れるようになっている。

「では明朝、教会前の広場で待機していてください。ゼロヨンマルマルに行動を開始します」と言い残して、漆黒の森の闇へとアウディをごく低速で走らせて去っていった。


 そのテールランプが闇に消えるのを見届けて、アイネスは小屋の軒先で一人呟いていた。


「訓練生、か。……彼女はこれからどういう人生を歩んでいくのかしらね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る