第3話 新月のファントム(1)
「ファントム」は、英語で幻や亡霊などを表す言葉であり、実体が見えないものや実在するかすらわからないものに対して使われている言葉である。
(中略)
ゴーストとの違いは、ファントムに亡霊や幻影、幻などのぼんやりとしているものという意味合いが含まれるのに対して、ゴーストは死んだ人の魂を指すことである。特に人間に対して悪意を向ける怨霊などを表現したい場合にはゴーストを使用するほうが望ましい。
どちらも実体のないものを指す英単語であるが、はっきりと死者の霊を意味するゴーストに対して、ファントムには亡霊かもしれないがもしかしたら幻の可能性もあるといったニュアンスが含まれている。
(実用表現辞典より)
◇
岸壁に横付けされたフェリーから続々と車が吐き出されていく。エストリア共和国の西の端、カステル・プラナは古い港町で、中世の大航海時代から船とともに歴史を歩んできた。レンガ造りの倉庫街と着岸した船から降ろされた荷物、行き交う旅人、荷下ろしに走り回る作業員とセーラー服姿の船員、そして艦橋に連なる自動車たち。どれも晩秋の港町の日常の風景だった。
アイネスは船員の誘導で船首に向けてゆるくアクセルを踏んだ。
鉄の艦橋の上を轍に沿って車を進め、ゆっくり岸壁に上陸する。フェリーで二十時間、カステル・プラナ港までしばしの船旅だった。リガ・ダナウとの時差は一時間あり、今は昼の十二時だ。ここから国境の高い峠の中腹にあるストタニア公国まで二百キロメートルほど、高速道路のルートから外れた国道を走る。順調に走って三時間強の道のりだ。タッチパネルを操作してカーオーディオからラジオを改めて選局しなおす。白い指で画面をなぞると周波数帯を一回り走査して、ある局にチューニングが合った。途端にスピーカーからガットギターの音色に乗せてイストリア語の歯切れのいい曲が流れてきた。温暖で乾いた大地を彷彿とさせるメロディと物悲しさを含んだ女性の歌声が車内に響いた。
「暗くなる前には着けそうね。キリアムはアシスタントを手配すると言ってたけど、どこでピックアップするのかしら」
アイネスはひとり呟くと、ハンドルをきって軽くアクセルをふかす。北欧からはるばる海を渡ってきたアウディは岸壁をするすると離れていった。
空はエストリア・ブルーと呼ばれる抜けるような紺碧だ。
港からしばらく走るとカステル・プラナの市街地を抜けた。ここからしばらく一面に畑が広がる農村地帯に、交通量の少ない道が続く。この道は山脈を超えて北欧まで続く幹線道路だったが、今は山脈を迂回して作られた高速道路に通行量のほとんどが移ってしまっていた。長閑な風景の田舎道として時代の流れから取り残されている。時折くたびれた建物がぽつぽつとまばらに現れる。
はっきり冬に差し掛かっていたリガ・ダナウとは違って、ここはまだ実りの秋の真っ只中だ。深い紺青の青い空と小麦畑の黄金の穂波のコントラストが視界に広がる。アイネスはダッシュボードに腕を伸ばすと慣れた手つきでサングラスを取り出した。ここではまだ日射しを防ぐ必要がある。
サングラスをかけようとした瞬間、道路のものかげから人が飛び出してくるのが目に入った。とっさにハンドルを切ってブレーキを強く踏む。
「クッ」
アイネスはしまった、油断した、と瞬間的に思った。開放感だらけの田舎道だと甘く見ていたのがいけなかった。派手な音を立ててアウディはなんとか停車する。対向車も後続車もいない田舎の道だったのが幸いした。
サングラスをセンターコンソールに投げ捨てて、勢いよくドアを開ける。道端で立ちすくんでいたのは、澄んだ瞳の栗色の髪の少女だった。少女に向かって声を上げる。それはアイネス自身が自分で驚くほど少女を刺し貫く鋭い叱責となっていた。
「なにやってるの、あなた! 飛び出して来たら危ないじゃない! ケガで済まないわよ!」
少女はしばらく呆然と目を開く。そして、しばし呼吸を止めた後、堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
「うえーん」
こうなると困るのはアイネスだ。はた目には、と言っても道行く車もなければ通行人もいないこんな田舎道で第三者の目にはそうそう留まらないのだが、やはり泣いている少女とそれを叱っている大人では、誰が見ても構図として不利なのは大人の方だ。
「さあ、そんなに泣かないで。ケガはなかったでしょ?」
かがんで目線を少女と合わせるように腰をかがめてアイネスは落ち着いた声に戻って話す。少女は泣き止まない。冷静になったアイネスは考える。
――慌ててしまってとっさにリガ・ダナウの言葉で話しかけてしまったわ。しゃべる言語を間違えるなんて、私もまだまだね。
これは何度も訓練の場で練習したところだ。昔大戦中にこやかに雑談している相手をいきなり殴る、という極めて荒っぽいやり方で相手がスパイかどうかを見分けたと教わった。その場合、だいたい殴られた方は「なにするんだ!」と自らの母国語で叫ぶらしい。
――あんなクラシックな方法でも、今でも十分通用するのね。気を付けないと。
反省しながらアイネスはエストリア語で同じことを聞きなおした。
「泣かないで。私の言葉が分かるかしら? ケガはないわね?」
栗色の髪の少女はぐすぐすべそをかきながらもうなづく。どうやら驚いただけのようだ。転んでもいない。しかし、どう見てもこの少女は東洋系だ。アイネスもどちらかというと東洋系の顔立ちで黒髪だが、碧眼なのでぱっと見ではなかなか東洋系とは気づかれにくい。しかし、この少女は間違いようがない。黒い瞳で栗色の髪のショートヘア。
「ところであなた、こんなところで何をしていたの? 誰かといっしょなのかしら?」
「ううん、私一人だけです」
少女は小さな声で答える。この少女は身なりは普通で手ぶらだ。学校帰りにも見えない。もっとも、ここまでの道で学校ぽい建物はカステル・プラナの街はずれで見たきりだ。そこからゆうに車で一時間は走っている。
―――この少女、何か気になる。どう見ても東洋系の少女がこんな南欧の田舎道に一人でいるなんて。
アイネスは心の中に膨らんだ疑念を表情には出さないで、ひとまず少女の両腕を押さえてゆったりと話しかけた。
「田舎道だからって不用意に飛び出しちゃだめよ。あなた、このあたりに住んでいるの? と言っても、住宅っぽいものはほとんど見当たらないんだけど」
「ごめんなさい。私、この先の集落に住んでいるんです。ちょっと用事があって麓まで行こうと思って」
少女は素直にそう答えた。アイネスは少女の両腕を押さえたまま、その瞳をみつめてやさしく語りを続けている。少女の腕を押さえていることに、動きを拘束する意図が加わっていた。
―――この子は、油断できない。
アイネスの疑念は少しずつ明確な形をなしてきた。そもそも、あのスピードで走る車に向かって飛び出してきて、なおかつかすり傷一つなく身体をかわすなんて、訓練されたエージェントでもない限りできないはずだ。
―――しかし、この子にはまったく敵意とか害意が感じられないわ。それが不思議。
「そうなのね。乗せて行ってあげたいけど、私は今からストタニアに行くところなの。麓の町とは逆方向ね。麓の町まで随分あるけど、このまま国道を歩いていくのかしら?」
「はい、少し距離があるけど大丈夫。慣れてますから」
「気を付けてね。じゃあ、私は行くわね」
少女の腕を離すと、アイネスは踵を返して少女に背を向け、道に斜めに止まったアウディのドアハンドルを握ろうとした。
ビシッ!
アイネスが背を向けた途端、背後から何かが投げられて、アウディの窓ガラスに当たった。
アイネスはまるで背後が見えていたかのように、最小限の動きでそれをかわしていた。小型のアーミーナイフが運転席側のウィンドウに当たって田舎の頼りないアスファルトの上に乾いた音を立てて落ちた。
ナイフが地面に落ちる音よりも早く、アイネスは身を翻して駆け寄り、再び少女の腕をつかんでいた。
少女は驚愕の表情を浮かべたまま硬直する。この至近距離で、しかも背後からの投擲をかわされるとは思いもよらなかったらしい。あっさりとアイネスに腕を取られてしまった。
アイネスが声を低くしてドスを効かせて少女に話しかける。
「気配を消すのは上手いみたいだけど、もう少しアタックポイントを考えた方がよかったわね。こんな田舎道にあなたみたいな東洋系の娘が一人で出歩いているだけですでに怪しいわ」
「痛い! あんまり強く掴まないでください!」
「誰に頼まれて私を狙ったのかしら。穏便に済ませたいから、正直に答えてくれるとうれしいんだけどね」
時間のないタスクの、それも着手前だ。こんなところで貴重な時間を使いたくないし、変に目立ってポリスに介入されたらせっかくリスク回避のために遠回りのエストリア経由で潜入しようとしたのが台無しになる。
「いやいや、誰に頼まれたというわけじゃないんです。離してください!」
「ナイフの扱いには慣れているみたいだから、迂闊に手を離すのは危険すぎるわね。先に答えなさい。それとも腕を折られたいのかしら?」
アイネスはさらに少女の腕をつかみ上げて逆手に絞る。
「痛い痛い! やめて! 離して! 腕がちぎれる! 分かりました分かりました! 話します! だから離して!」
少女の悲鳴がいよいよ高まった。
「これ、は、仕事、なんです!」
「は?」
さすがのアイネスも少女の答えに虚を突かれた。締めていた腕の力が緩む。
「はー、痛かった。もう、乱暴すぎます。手加減してくださいよ、アイネスさん」
――― この子、私の名前を知っている!
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