第2話 どこかの街角のため息(2)

 アイネスはコートの裾を翻して、石畳の歩道の角をまがる。

 リガ・ダナウは中世から貿易の拠点として発展してきた町で、大きな川の蛇行の内側に市街地の大半が収まっている。石造りの中層の建物が並ぶ街並みが、初冬へと向かう季節の中でくすんだ色合いの落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 しばらくコツコツと響く靴音とともに歩みを進めると、街角にたたずむ一軒の古い石造りのマンションが見える。それがアイネスが拠点している部屋だった。世界中を飛び回っているアイネスにとっては珍しいことではあったが、ここを拠点としてからもうかなりの年月が経っていた。


 扉を開けてリビングの電気を点ける。初冬のリガ・ダナウの午後は短い。既に陽は傾いて夕方の気配が漂うが、時計の針はまだ午後三時を指している。コートを脱いでダイニングの椅子にぽんと引っかけると、アイネスはスーツケースを取り出して荷造りを始めた。

 機内持ち込みのできる小型のキャリーに、最小限の着替えと身支度用品を詰めて、ものの十五分後には再びコートを羽織っていた。電気を消して部屋を出る。この部屋に戻ってくるのがいつになるのか、それはアイネス自身にも分からない。ひょっとしたらもう二度と戻って来ないかもしれない。

 北欧の一角にあるリガ・ダナウの町に住むようになって数年、アイネスにとっては、始めてといってもいいほどの長い逗留だった。


「そろそろこの街を離れる時が来る気がしていたのよね」


 ひとり言で感傷をひねりつぶす。一カ所に長くとどまることは、アイネスのようなエージェントにとっては危険を孕んでいる。世界中を渡り歩く、それがアイネスの仕事であり、アイデンティでもあった。

 一カ所に想いを留めるなんてあってはならない。そんなものはリスクしか生み出さない。だから一つの街を捨てて、また次の街に潜む。それが正解だ。アイネスの職業的潜在意識はそう告げていた。

 階段を降りながらスマホをコートから引っ張り出してタップした。1コールでキリアムの声が聞こえる。まるで私から電話がかかってくるのを待っていたみたいね、とアイネスはそっと肩をすくめた。


「キリアム、今から出かけるわ。まずはどこへ行けばいいのかしら?」

「行くと決めたら行動は早いな。さすがだ、アイネス。車を中央通りのパーキングメーターに用意しておいた。それに乗ってエアポートに向かってくれ」

「車のキーはどこにあるの?」

「キミのマンションのポストに入っているはずだ」

「マンションの部屋はこのままでいいかしら?」

「そのままにしておいてくれ。こちらで片づけておくし、ご希望とあれば荷物は保管しておく」


 アイネスは一瞬だけ間を置いて答える。アイネスは器用にスマホを肩で耳に挟みながらスーツケースを持ち上げて階段を下っていった。エレベーターなんて上等なものはこの古いマンションには付いていない。それでも特段不満に思うことはなかった。

「残らず処分しておいてもらって結構よ」

「……そうか、分かった。アイネス、簡単にアイテネレラリーを説明する。まずは明日の夜までにストタニア公国に行ってもらう。アシスタントとは現地でキミに接触するように伝えておく。最初のタスクは明後日。これは限定日程だ。必ず明後日の決行でなければならないからそのつもりで。そうでないとスケジュールが大幅に狂う。必要な装備やスケジューリングなどは現地でアシスタントに聞いてくれ。十八時二十分発のマルーシェリ行きのフライトを確保してある。マルーシェリエアポートからは別の車を待たせておく」


 アイネスはマンションのポストから車のキーを取り出して外に出た。すでに夕焼けが空を染めている。石畳の歩道を、スーツケースを転がしながら歩いていく。


「待って、キリアム」


 淡々と説明するキリアムからの通話をアイネスが一声遮った。外は夕暮れ時の寒風が吹いていた。ダナウ・ボレアシウスと呼ばれる冷たい北風だった。もう二週間も経たないうちにこの街には雪が舞い始めて、そして圧倒的なモノトーンの冬に突入していくことだろう。アイネスは首をすくめて冷たい北風をしのぐ。


「随分風が冷たくなってきているわね。キリアム、私、ストタニア公国には中央埠頭からのフェリーで行くわ。今から乗れる一番早い便を手配しておいてくださる?」

「……ほう。フローレンシア南端の国境の山奥にあるストタニア公国に、わざわざ南まわりのエストリア共和国経由でフェリーで行くのかね。いつからキミはそんな酔狂になったんだ。二十時間ほど余分にかかるが、それでいいのか? 現地で活動日数が減ることになるが」

「どのみち決行は明後日でなければならないんでしょ? だったらフライトで急いでストタニア公国に着いても丸一日待機時間が増えるだけじゃない。それにエストリアのカステル・プラナ港から行った方が車を運転する時間が短くできるわ」

「ドライブは嫌いかね」

「好き嫌いで言えば好きよ。でもプロのエージェントはリスクを避けるのが鉄則だと習ったわ。耳にタコができるぐらい訓練所で教わったことだわ」


 この季節にストタニア公国に通じる山の峠道を通るのには積雪のリスクがある。まして山脈の真ん中にあるストタニア公国に対してマルーシェリからのアプローチは、山脈の北斜面にもろに突っ込んで、豪雪地帯を突破していかなければならない。この季節、すでに雪が降っているのは間違いないし、一メートル近く積雪していても不思議ではない。南のエストリア共和国経由で行く方が、雪に関わる心配事は、ゼロにはできないがかなり低減できる。それにこの時間から行くと峠道を通るのは深夜だ。何が起こるか分からない。できればタスクの現場には明るいうちに到着しておきたい。アイネスはそう頭を巡らせていた。


「なるほど。それは気遣いが足らなかったな。言った通りに手配しておく。今からなら十六時四十分発のフェリーに乗れるだろう」

「お願いね」


 キリアムに短く例を言ってアイネスは腕時計に目を落とした。いつのまにか中央通りまで歩いて来ていた。後ろ手に引っ張るキャリーケースががらがらと音を立てる。石畳の歩道とキャリーケースはあまり相性がよくない。歩きにくいし、何より音が目立ってしまう。


「フェリーの出航まであと一時間ね、上等だわ。ここからなら高速道路を使えば四十分で行けるわね。それじゃ、行ってくるわ。あとはよろしく」

「分かった。無事を祈る。しかし」

「なにかしら? まだなにかあるの?」

「いや、なんでもない」


 スマホの通話を切るとアイネスは一つため息をついた。いつしか町の中央を貫く中央通りまで来ていた。特に指示されてはいなかったが、いつものパーキングメーターにハザードランプを付けたまま止めある赤いアウディが目に止まる。アイネスは慣れた足取りでアウディの後ろに回り、トランクにスーツケースをしまうと、その運転席に乗り込んだ。


「また目立つ車を使わせるのね。キリアムは車選びのセンスをもう少し磨いた方がいいわ」


 赤い車体がぶるんと震えて、ハザードランプがウィンカーに切り替わった。するりと動き出したアウディが中央通りを流れる車列に合流する。西陽がアイネスの目に入るが、北国の太陽の光は力を既に失っていて、運転を妨げるほどのものではない。


「……しかし、まったく、無理難題もいいところ。このタスクが終わったらまとめてバカンスでも取ろうかしら」


 テールランプの赤い輝きを残して、アイネスの運転するアウディは夕暮れ迫るリガ・ダナウの中央通りを、港に向かって走り出していった。


「リガ・ダナウの町とも多分これでお別れね。特に見所もない小さな町だった。……でも、嫌いじゃなかったわ」

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