プルシアンブルーのレクイエムに枯れた花束

ゆうすけ

第1話 どこかの街角のため息(1)

「今度のタスクだ。これを見てくれ」


 キリアムはデスクから資料をもって立ち上がると、ソファテーブルの上にばさりと置いた。三つ揃いのスーツのベストについた糸くずをつまんで灰皿に放り投げる。


 ソファの向かいに座る長い黒髪のアイネスは、切れ長の瞳で書類を黙って見つめていた。その端正な横顔が徐々に険しくなっていく。常に冷静沈着に仕事をこなしてきた彼女にしては、目に見えて表情が変わるのは珍しいことだった。

 アイネスは一通り資料を見終わると、固い口調で言葉を発した。


「これ、正気なのかしら? とてもそうは思えないけど」

「まあ、キミの言いたいことは分からなくはない。しかし、それが今回のタスクだよ」

「冗談もたいがいにしていただけない? そのタスク、まるで意味がわからないわ。二つに分けた方がいいのではなくて? 前半か後半か、どちらかだけならまだ請ける気にもなるのだけど」


 長い黒髪を振ってふうとため息をつく。ここリガ・ダナウの街では珍しい艶のある長い髪に碧眼の瞳。その容姿は異国情緒にあふれている。むしろ東洋人の旅行客にしか見えないが、その発する言葉は明らかに北欧に位置するこのリガ・ダナウのネイティブのそれだ。

 アイネスは父親が日本人のハーフだと周囲には告げている。その真偽はキリアム自身も確かめたことはないし、興味もない。エージェントに必要なのはスキルと実績だ。その出自情報自体にはなんの価値もない。

 逆に、スキルと実績にかけては、調べるまでもなくアイネスは北部ヨーロッパでは随一だった。そんなアイネスだからこそ、このような複雑怪奇で、奇妙な制限事項だらけのタスクの指名なのだろうとキリアムは考えていた。


「パスポートは用意してある。キミにとっては前半も後半も特に難しいタスクだとは思わない。引き受けてもらえないかね」

「それぞれ別々に時間を取ってくれるなら、喜んで引き受けるわよ。ただ、それを一度に、一人で、一ヶ月以内にやれ、なんて無茶もいいところだわ」

「それがデューティーリストの筆頭項目なのだよ。理由は開示されていないし、開示されていたとしてもキミに話す気はないのだが、今回のタスクは二つのアクションが一連のものだと割り切ってほしい。それに一人で、とは言っていない。現地ではとびきり優秀なアシスタントを付けられるように手配しておくつもりだ」


 長いまつげに憂いを含ませてアイネスは窓の外に顔を向ける。緯度の高いここリガ・ダナウの街では午後のティータイムはもう夕暮れ寸前だ。四階建ての古いオフィスからは枯れた街路樹とコートをまとって歩く通行人が見える。今年は暑い夏が続いたと思ったら急に初秋を飛び越して晩秋、いやもう初冬といってもいいぐらいの気候になっている。つい二週間前まで半袖で汗をかいていたとは思えない。

 街行く人々は思い思いの服を着込んで、澄んだ青空にレンガ造りの建物が並ぶストリートを行き交っている。日射しはすでに朱に染まってきていた。


「私がアシスタントなんて欲しがると思って? いらないわよ。むしろ邪魔。でもこのタスク、私が引き受けなかったとしたら、どうなるの?」

「……アメリカあたりから適当なエージェントを見繕って、至急呼び寄せることになるだろうな」

「その方法だと、どんなに急いでも準備と訓練だけで一ヶ月を使い切ってしまうじゃない。優秀なアシスタントってリディアのことかしら? まあ、彼女とコンビでなら、できないことはないわね」


 キリアムは意外な名前をアイネスが口にしたので、思わず肩をすくめて両手を広げる。


「リディアなら優秀なアシスタントなんて言い方はしないさ。そもそもキミの口からリディアと組んでもいいという言葉が出るとは思わなかったよ。うちのエース級を二人まとめて投入できればそれが一番だったのだが、残念ながらリディアはまだ前のタスクにかかりきりだ」


 アイネスとリディアと言えば業界では知らないものがいないと言われた最強のコンビだ。一時期華々しい戦果を矢継ぎ早に挙げていた。たしか二人は訓練所で同期生だったと聞く。ただ、この業界では目立つことは必ずしもプラスになるとは限らない。場合によってはマイナス、それも極めて大きなマイナスとなることも多かった。事実、ここ数年、二人はコンビを組んでタスクに関わることはしなくなっていた。コンビで仕事をさせなくなった、と言った方が正確かもしれない。


「しかもリディアには次のタスクがもう決まっている。リディアだけじゃない。今は北部ヨーロッパのエージェントはみな長期で出払っているか、担当するタスクが決まっている。手が空いているのは使い物にならない三流エージェントとタスク明けのキミだけだ」

「厄介なタスクを嫌なタイミングで投げ込んでくれるわね。いいえ、厄介というレベルじゃないわ、これは」

「キミの指摘は最もだ。否定も反論もできないし、する気もない。ただ、キミも分かっているだろう。我々がタスクの中身を評価することはできないし、それは許されないんだよ」

「キリアム、念のため確認させてくださらない?」


 アイネスはそこで言葉を切って、キリアムを見つめた。


「これは、なのかしら?」

「いや、残念ながら依頼ではない。だ」

「業務命令、ということね」

「そういうことだ。仕事は待ってはくれない。これは緊急に着手しなければならない最重要タスクだ。三流のゴロツキもどきには任せられないのだよ。一連のタスクを至急最後まで片付けないと、事態がさらに悪化するのは想像に難くない」


 キリアムはソファーテーブルのコーヒーカップを手に取って口を付けた。まだ湯気の立ち上るアイネスのコーヒーカップは、手付かずのままだった。コーヒーを口に含んで、ささやくように声をひそめる。


「このままだと最悪、戦争が始まってしまうかもしれない。ただの戦争じゃない。街がまるごと吹っ飛ぶレベルの戦争だ。我々に残された時間は一ヶ月」


 視線で飲まないのか? と問いかけるキリアムを放置して、アイネスは立ち上がった。


「……そこまで煮詰まっていたのね。どうも最近少しずつ情勢がかみ合っていない感じがしていたのよね。まあ、煮詰まっているからこそ、こんな無茶なリクエストになったということかしら」


 壁のハンガーからコートを手に取り、ふわりとひるがえして袖に手をとおす。両手で長い黒髪をふりはらってキリアムに向き合った。


「分かったわ。とても不本意だけど、どちらも私がやるしかないのね」

「分かってくれて嬉しいよ、アイネス。このキリアム・ヴァルデンストレームの名に賭けて、現地までのルートは確保する。細かい手順は追って連絡する。これを使ってくれ」


 キリアムが投げたスマホを無表情に片手でキャッチすると、アイネスはオフィスの出入り口になっている木造の扉をゆっくりと開けた。振り向いてソファーに座るキリアムに小さくうなづく。キリアムは軽く手を上げて応えた。それがいつもの別れの挨拶だった。

 扉のきしみ音を残して揺れる黒髪が閉まる扉の向こう側へと消える。


 一人オフィスに残されたキリアムは、テーブルの上のシガーケースから紙巻たばこを取り出した。斜めに咥えてジッポーで火を点ける。かすかなオイルの匂いとともにたばこの先から白い煙がゆらめいて、白い漆喰の天井に同化していった。


「アイネスが怒るのも無理はないな。こんなの、普通なら私の段階ではっきり断る」


 立ち上る白煙をしばし見つめて、改めて一息吐き出す。そして手元の資料に目を移すと、そこには身長百三十センチぐらいの笑顔の幼女が映っていた。


「子供を誘拐して所定の場所に護送、そしてクライアントに引き渡す。それだけなら、まあ割とよくあるタスクなんだがな」


たばこを吸いこんで紫煙をため息とともに吐き出す。


「ともかく、アイネスならなんとかしてくれるだろう。この狂ったタスクは彼女にしか任せられない」

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プルシアンブルーのレクイエムに枯れた花束 ゆうすけ @Hasahina214

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