第7話 新月のファントム(5)


「しかし、アイネスさん、すごい早業でしたね。あの距離で子供を抱えた無理な態勢から一撃でしたもん。マジ尊敬します!」


 ハンドルを握るメイシュエは、興奮気味だった。


 狭い市街地を車はしばらく低速で進む。不自然でない程度に右左折を挟んで、すぐには国道には向かわない。幸い追手はいないし、街の人々はまだ眠りの中だ。それでも慎重に監視カメラをかわしながら進む。


「そう? 誉めてもらえて光栄ね。でも、エージェントとしては当たり前の身のこなしよ。できて当たり前、むしろそれができない人は生き残れない」


 アイネスは特に難しい技を披露した気はなかったが、その無駄のない身のこなしは期せずしてメイシュエに大きな感銘を与えていた。


「いえいえ、そんなことないです。謙遜しないでくださいよ。さすがトップエージェントは全然違うなあって感心したんですよ、私。とにかく第一段階がうまく行って、よかったです。なんだかほっとしました」


 メイシュエはハンドルを操作しながら器用に片手ずつ肩を回して身体をほぐした。アイネスは後部座席で毛布をかぶって眠る子供をちらっと視線を流しながら、メイシュエに諭した。


「ターゲットが子供で、未明の暗がり。宗教儀式アドラクシオンの直後で大人の目も少ない。うまく行って当然だからね。それにまだまだタスクの序盤よ。国境を越えてベリル島に着くまでは油断しちゃダメ。もちろんその後も。私たちが緊張しなくてもよくなるのは……」

「休暇の時ですか? 私、休暇が取れたら日本に行ってみたいです!」

「残念ながら休暇の時こそいろいろと気を抜けないわ。むしろ狙われやすいからね。私たちが本当に心の底から気を緩めてよくなるのはね……」


 助手席で黒髪を揺らしながら、さらっとアイネスは言葉を続ける。


「死体になった時よ」


 メイシュエはぶるっと身震いして、無言で姿勢を正した。フロントガラスをまっすぐ見てハンドルを握りなおす。


 ◇


 十五分ほど街中を低速で走って国道の峠道に出ると、東の空が少しずつ明るくなってきた。アイネスの言葉どおりであれば、先ほど銃撃で倒したSP二人は、街の人が動き始めるまであの場所でのびたままだろう。


 明け方の峠道。

 紫色が赤くにじみ始めた空に向かって、くねくねと曲がりながら黄色のフィアットが登っていく。フィアット・アバルト695は短い車体に強力なエンジンを積んだ南欧で人気の小型車だ。このような狭い山道の上り坂を得意中の得意としている。メイシュエのハンドルさばきもどんどん軽快さを増していった。


「しかし、本当に平地の少ないところですね、ここは」


 メイシュエの感想のとおり、ストタニア公国に平地はほとんどない。

 山脈の南斜面のわずかな平地にできたこの小さな町は、地理的な条件に助けられたこともあり、南隣のエストリア、北隣のフローレンシアという二つの大国に挟まれつつも古くから独立国家として存続してきた。

 峠道のカーブに慣れてきたのか、メイシュエは車速を少し上げてハンドルを握る力を緩めた。アイネスが窓の外を見ながら独り言のようにつぶやく。


「ストタニア公国が独立国でいられたのも、この地理条件のおかげなのよ。時として山は最強の砦になるわ。それに山脈のこっち側は日当たりがいいから作物がよく育つ。昔からこのあたりは飢えることと無縁。そして、……あんな風習が残ってしまったのも、その地理条件のせいかもね」


 アイネスが漏らした最後の言葉をメイシュエはとっさに理解できなかった。


「風習? アドラクシオンのことですか? 確かに変わっていますけど、ストタニアだけじゃなくてエストリア北部からフローレンシア南部の山岳地帯に広く見られますけど」

「そうね。ストタニアには他にも独特の風習があるのよ。必要になればレクチャーするわ」


 アイネスさん、あまり話したがっていないな、とメイシュエはそれ以上突っ込むのを避けた。エージェントは知らなくていいことは聞かない方がいい、とアイネスの横顔が語っていた。

 ひとまず、アドラクシオン――子供だけで未明の教会で礼拝するというこの地方特有の宗教儀式――からの帰路の子供を誘拐するという最初のミッションは上手くいったようだ。リアシートで、飴玉に仕込まれた麻酔薬で幼女がぐっすり眠りこんでいること以外は、快適な早朝ドライブでしかない。


 車はひたすら峠を上って行く。高度が上がるにつれて、木々の葉が少しずつ減っていくのがヘッドライト越しの暁の空を背景に見える。峠の頂上は標高二千メートルを超えている。森林限界を超えると、そこは一面の草原地帯になっている。もう半月もすれば白い雪原へと姿を変えるだろう。


「この車、子供乗せるのが分かってるはずなのに、3ドア車を手配するなんてセンス疑います。しかも今時クラッチ付きの3ペダルなんて、信じられない。アイネスさんのリクエストなんですか?」

「いえ、機材の手配は基本キリアムにお任せしている。あの人、そういうところだけは、抜かりないからね」


 そういうところだけは、にアクセントを置いてアイネスは話した。


「メイシュエ! 前!」


 唐突にアイネスの鋭い声が響いた。その声にメイシュエはハンドルを握りなおした。車内の空気が一瞬にして緊張に包まれる。

 フロントガラスにはライフルを持った制服の男達が立ちはだかり、検問を敷く光景が朝日の中に浮かび上がっていた。メイシュエはアクセルをゆるめた。静かな山あいの上り坂をすいすいと登っていた車はスピードを落とす。声をひそめてアイネスに尋ねた。


「なんか、反応早すぎません?」

「そうね。さすがにおかしいわね。まだ二十分も経ってないし、フローレンシアの国境線はもう少し先のはずなんだけど」


 教会前でSPの男たちを振り切ってからまだ半刻も走っていない。アイネスが言ったとおりならSPたちは半日は目覚めないはずだ。


「とりあえず、様子見ですよね」

「ここでドンパチ始めるわけにはいかないわ」


 ライフルを持った男たちの前に、メイシュエは素直にフィアットを停車させた。アイネスは腰のベルトに忍ばせたナイフを右手でそっとさわって確かめる。メイシュエも身体の位置をずらして、分からないように武器を確認しているのが気配で伝わる。


 制服の男の一人が近寄ってきて運転席の窓ガラスを叩いた。メイシュエはなにかしら? という表情でパワーウィンドウを操作した。いかにもバカンス中の旅行者の雰囲気を出す。軽い動作音を立ててウィンドウが開いた。メイシュエはいつでもナイフで応戦できるように指先に力を入れていた。


「やあ、お嬢さんたち、朝からすまないね。フローレンシアに行くのかい?」


 思いのほかフレンドリーな様子で制服の男が聞いてきた。黒いコートの下にポリスの制服を着ているのが見える。それはそれで面倒だな、とアイネスの表情にほんの少しだけ翳った。


「ええ。朝四時のフェリーでカステル・プラナの港に着いたの」


 メイシュエがわざと少したどたどしく聞こえるエストリア語で答えた。


「悪いがパスポートを見せてもらえるかい。そっちの助手席のお姉さんも。ああ、ありがとな。ああ、お二人は姉妹なのか。えーと、なんて読むんだ、こりゃ」

「ああ、中国系の名前だからお兄さんたちには発音しづらいかもね。ところで、お兄さんたち、ボーダーガード国境警備隊の人なの? 国際協定でフローレンシアへの入国にパスポートコントロールは不要だったはずだけど。そもそも国境までまだ十キロぐらいあるんじゃないの?」

「いや、これはイミグレじゃないんだ。俺たちも詳しく聞かされていないんだけど、ただのストタニア公国内の検問なんだ。お姉さん達、わりいけどちょいとだけ協力してくれよな。しかし、まったく嫌になるぜ、突然夜中に検問敷けとか命令で言われてよ。一晩立ち続けてたったの五台だよ、五台」


 大男はぼやきながらぞんざいにパスポートをめくると、雑に目を通しただけでアイネスの分と二冊合わせてメイシュエにぽいっと投げ返す。このパスポートは極めて精巧に作られた偽造品だ。万が一にもばれる心配はないし、今まで何百回もこうしてパスポートチェックをくぐり抜けてきたアイネスは、平然と微笑みながら助手席に座っていた。


「お姉さんたち、四時に港に着くクリスタリシア島行きのフェリーで来たんだろ? リゾートアイランド行きのセレブばっかり乗っているっていう。途中で降りるなんてもったいないな。俺ならそのままクリスタリシア島まで乗って行くけどな」

「残念ながら、私たち、フローレンシアに住んでいるいとこの結婚式に行くのよ。もういいかな? 早く行かなきゃ、後部座席に積んであるパーティードレスに着替える時間がなくなっちゃうわ」

「おう、悪かったな。気を付けて行きな。もう十分も走ればフローレンシアの国境だ」


 メイシュエはにこりと笑って手を振ると、パワーウィンドウを閉めてフィアットをスタートさせた。


 ◇


 ゆっくり見えなくなっていく黄色のフィアットを眺めながら、制服の男は口笛を鳴らした。


「まったくアジア系のお姉ちゃんはきれいで、目の保養にもってこいですね。特に助手席で一言もしゃべらなかった黒髪の方、断然俺好みですぜ、先輩」


 話しかけられた方の制服の警官は帽子の奥の目を光らせる。

「おい、ポンセ、お前少し口が滑りすぎだ。任務をぺらぺらしゃべってどうする」

「先輩だって運転席の若い方のおねーちゃんの太ももに目が釘付けだったんじゃないですか。俺は気づいてましたぜ、先輩が視線で舐め回してんのを」

「ちょっと目についたから不審物がないかチェックしていただけだ。しかし、……なんかあの二人、気になるな」

「何がですか?」

「いや、分からんが、あの助手席の黒髪の女、一言もしゃべらなかったけど、何か気になる。運転席の若い方の女もだ」

「やっぱり先輩も楽しんでるじゃないですか。一晩寒い中検問した甲斐があったってもんですね。で、先輩はどっちが好みなんですかね」

「うるさいぞ、ポンセ。職務に集中しておけ」


 二人は再び道路に仁王立ちになってストタニアからの峠道に立ちはだかった。


「合点承知ですぜ、ヤーブス警部補どの。しかし、先輩、あんまりちっちぇーこと気にしすぎるとハゲますぜ?」

「ポンセ、お前はちょっとお仕置きが必要だな。署に戻ったら報告書書けよ。一台につき二十枚な」

「先輩! それパワハラっすよ、パワハラ!」

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