第8話 新月のファントム(6)
メイシュエの運転するフィアットは、ストタニア公国の国境線に到着した。以前は国境にイミグレーションがあったが、二十年ほど前から往来は自由になっている。「ここよりフローレンシア共和国」というカントリーサインだけの国境を難なく踏み越えて、驚くほどあっけなくフローレンシア共和国内に入った。
周囲に人家のない国境線の前後にやけに広大な駐車場があるのが、かつてそこで往来を監視していた名残だった。今はさびれたチェーン脱着場としてしか利用されていない。ただ広いだけの空間を持て余している。山の中に現れる冷えて霜のおりたアスファルトの地面は、寂寥感をいたく刺激して仕方がない。
峠道はフローレンシア国道A9号線へと名称は変わったが、山中の景色は先ほどとは変わらない。山脈の最高地点標高二千百メートルを越えて、道は下り坂になった。ここからは山脈の北麓を下っていくことになる。道端にちらほら雪が目立つようになったが、まだ路上に積雪はなかった。
ストタニア公国とフローレンシア共和国は時差があるので、国境を越えた途端時計が一時間進むことになる。それでも時刻はフローレンシア標準時でようやく午前六時を回ったところだ。
フィアットはカーブの多い下り坂を時にタイヤをきしませながら下っていく。安全運転と、できるだけ早く山岳地帯を突破したい気持ちのせめぎ合いの中、メイシュエはぎりぎりの速度を保って峠の下り坂でハンドルを操っていた。
山脈は北麓のフローレンシア側の方が切り立っている。南麓エストリア側を約二百キロの道のりで登ってきた峠道は、三分の一の八十キロ弱の下りで海まで一気に駆け下りていく。フィアットは軽快にエンジンブレーキを効かせながら坂道を下って行った。
◇
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください、どういうことなんですか!?」
下りのカーブを鼻歌まじりで運転していたメイシュエは、ハンドルを投げ出す勢いで身を乗り出してアイネスに詰め寄った。
「だから言葉のとおりよ。昨日の夜、あなたが帰ってからキリアムから連絡があったのよ。この子はファントムだわ」
黒髪をなびかせて涼し気にアイネスが応じた。まるで悪びれていないし、焦ってもいない。あたかもそれが当然のような態度にメイシュエはますます混乱する。窓の外はようやく明るくなってきた。今日も山脈の空の色は、晩秋の、いやもう初冬と言っても十分な季節の、吸い込まれるようなプルシアンブルーだった。
「つまり、簡単に言えば、この子は影武者よ」
「えええ? さっぱり分かりません。アイネスさんは最初から分かっていて間違った子どもをさらってきたってことですか!?」
「最初から分かっていて、この子をさらってきたのよ。何も間違えていない」
アイネスは平然と助手席に腰かけている。長い黒髪が車の振動に合わせてふわりと揺れている。峠の頂上からは二百メートルほど標高が下がった。それでもまだ標高千メートルを超えている。窓の外は冬枯れの木々が寒そうに立ち並ぶ冬景色だ。峠の北斜面のフローレンシア共和国側は日当たりが届きにくい。
「間違えていないって、そんな。影武者なんですよね? つまり、本物じゃないってことですよね? どうするんですか? アドラクシオンの行き帰りの間だけしか、この子が一人で外を歩くことはないんですよ? 次のアドラクシオンは三か月後です。今から戻っても、正しいターゲットを見つけてさらってくるなんて到底無理です! それこそ特殊部隊が必要です」
「この事態も織り込み済みなのよ、メイシュエ。落ち着いて予定どおりに行動すれば、なにも問題はない」
「そんなことって……。ファントムなんかをさらってきたなんて……。最悪ですよ。ターゲットの同定を間違えて、無関係な一般市民をさらったなんて、私たちの凡ミスじゃないんですか? あり得ないです!」
「メイシュエ、タスクは引き受ける前に全体の情勢をよく見ておかなきゃならないの。そのうえで私たちに課せられたミッションは何なのか。それは、上長に聞いても教えてくれないし、ひょっとしたら私たちの知らなくてもいいことかもしれない。そういうものなのよ。今回、私たちのミッションの第一段階の作戦司令は、どう書いてあったか、正確に覚えている?」
「アドラクシオンの夜明けに、一人で礼拝に来ているアルフォンソ公の長女ドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシアを拉致して、ベリア島まで護送すること、です」
「それは少し違うわ。司令事項を一つ見落としているわね。正確には『一人で礼拝に来ているアルフォンソ公の長女ドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシアと名乗る八歳の娘を拉致して』だったはずよ。教会近くの路地で私がちゃんと確認したのをメイシュエも見ていたでしょ?」
アイネスは助手席から身体を少しひねって後部座席の毛布のふくらみに目を移す。もぞもぞと毛布が少しうごめいた。
不満そうな表情でメイシュエはブレーキを踏んでスピードを緩めた。峠の下り坂はようやく朝日が射し始めたばかりだ。冬場あまり天気がよくなることはないこの山脈の北側も、今日はいい天気らしい。朝の日差しが道路の夜露を照らして輝いている。
「でも、それ、同じことじゃないんですか?」
幾分尖った声でメイシュエが問う。フィアットは峠道の路肩に寄って停車した。眼下に蛇のようにうねるつづら折りの道が続き、その向こうにちらりと海が見えている。
「違うわ」
即答するアイネスはあくまで冷静だった。
「うーん」
フィアットが停車するのにさほど衝撃があったわけではなかった。しかし、後部座席の毛布がもそもそと動いて、幼女がむっくりと起き上がってきた。眠たそうに目をこすり、もう一度うーんと唸って両手を付き出して伸びをする。
「あれー? あたし、寝ちゃってたのかな?」
だんだん幼女の目の焦点が合ってきた。助手席で平然と佇むアイネスと、ハンドルに腕をついて困惑した様子のメイシュエを交互に見やる。
「お姉さま方、おはようございます。なんだかあたし、アドラクシオンの帰り道で、すっごい眠たくなって寝ちゃってたみたいです。ここはどこですか?」
幼女はきっちり躾けられた上層階級らしく、運転席と助手席の二人に丁寧にあいさつをする。
「おはよう。マドモワゼル・ドローレス。お目覚めはいかが?」
アイネスは落ち着いた声でやさしく幼女に語りかける。水筒を手に取り「オレンジジュースですが、お飲みになりますか?」と後部座席の幼女に手渡しながら、横目でメイシュエにそのまま運転を続けろと合図した。メイシュエはいまだに得心のいかない表情で黙って再びフィアットをスタートさせた。自転車程度のスピードでノロノロとフィアットが動き出す。
「なんか、ちょっとふらふらしてるけど、平気です!」
幼女が弾むような声で快活に答え、水筒のふたを開けて一口ジュースを口にした。
「あ、このジュース、おいしい!」
「ふふふ、エストリアのカステル・プラナの港で買ったオレンジを絞ったジュースですからね。マドモワゼル、手荒なことをしたことをお詫びいたします。我々はあなたをこれから、べリア島、現地で火の島と呼ばれている島にお連れします。マドモワゼルに危害を加えることは、一切ございません。ご安心ください」
アイネスの幼女に対する態度が妙に慇懃だな、とメイシュエの脳裏に疑問が横切った。この女の子は
「あ、わたし、まだおうちに着いていないからお話ししちゃいけなかったんだ! どうしましょう。掟を破ったら罰が当たるって言われてるの!」
「マドモワゼル、ご心配には及びません。ほら、もう太陽が昇っているでしょ? アドラクシオンで話すことが禁じられているのは夜明けまでですよ。おうちに帰るか、太陽が昇るか、どちらかしたらもうお話しても大丈夫です」
「そうか。よかったー。ローラ、牧師様に怒られちゃうかと思っちゃいました。あ、申し遅れました。わたしはドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシア。ローラと呼んでください。お姉さま方のお名前は?」
幼女は太陽のような笑顔を見せる。その笑顔にアイネスも目を細めた。一人、メイシュエだけが憮然とハンドルに手を置いたままむくれていた。
「私はアイネス・ゼステンブルグ。運転しているのは……」
「メイシュエです! メイシュエ・エリアル・チェン!」
アイネスがあっさり本名を名乗った。メイシュエは仕方なくと言った感じでアイネスに続く。
「さ、行きましょうか。火の島、ベリア島へ」
「よろしくお願いします。お姉さま方。ところで、わたしベリアに行けるんですか? お船に乗るんですか! 泳げますよね? わーい!」
ローラと名乗った幼女はにこにこと満面の笑みだった。不承不承スタートさせたフィアットのハンドルを操るメイシュエは、ローラに聞こえないようにアイネスに小声で話しかける。
「アイネスさん、教えてください。私のタスクはベリア島到着までです。その後に誰が、何を、どうしようとしているのか、まったく知りません。聞く気もありませんし、興味もありません。ただ、課せられたタスクを依頼通りに達成できなかったことにだけは、我慢できません。なんでファントムをさらってきて間違いでないのか、教えてください!」
「メイシュエ、あなた第二段階のタスクの内容は聞いていないのね? 知りたいかしら?」
「教えてください!」
メイシュエは力を入れて低く呻くような声をあげた。後部座席のローラに聞かれるとまずいという意識に、自然と低い声になる。
「ふふふ、分かったわ。後でゆっくり話してあげる。この狂ったタスクのすべてを、ね。ただし……教えたからには最後まで手伝ってもらうわよ。それとも、ベリアの海で溺死体にでもなってみる?」
「アイネスさんが言うと冗談に聞こえません! もうっ! 全然分からないけど、分かりました! どうにでもなれ!」
今すぐ答える気のないアイネスの受け答えに、メイシュエは半ば開き直るしかなかった。
「お船に乗って♪ ベリアのビーチ♪ 青い海はどこまでもー♪」
べリア島と聞いて一気にローラのテンションが上がる。前席二人の若干緊迫したやり取りの合間に、リゾート気分満開のローラの歌声が場違いにのん気な空気を挟み込んだ。
「ふふふ。港までは快適なドライブ、その後は快適なクルーズ。メイシュエ、くれぐれもスピード違反でポリスに捕まらないようにドライブしてね」
「わかってます! もう、やけくそですっ!」
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