第9話 火の島が吠える(1)

「アイネスさん、ただいまですー」

「やほー、ローラ、帰ったよー」

「あら、お帰りなさい。ローラ、どうしたのかしら? おんぶしてもらって」

「泳ぎすぎて疲れちゃったー。崖上るの大変だから」


 メイシュエがストタニア公国のアルフォンソ公の長女ドローレスを背中に負ぶって戻ってきた。


 ここは大西洋の火山島、べリア島。赤道に近い絶海の孤島だ。フローレンシア共和国やストタニア公国は晩秋あるいは初冬だったが、ここベリア島には季節は二つしかない。「夏」と「真夏」だ。今はこの島では比較的過ごしやすい「夏」の季節だ。そんなベリア島に三人が到着してからすでに一週間が経っている。


「そうなんですよ。もうまいっちゃます。朝からずっと泳ぎっぱなしです。この子、水泳選手にでもなる気なのかしら」

「あなた、ずっとローラをおんぶしてビーチからの階段を上がってきたの? 超人的な脚力ね」

「ふふーん、体力と脚力には自信ありますから」

「あー、メイシー、盛ってるー。途中までローラ自分で登ったよー」

「なによ、最初の二十段ぐらいしか自分で登ってないじゃない。ローラ、そんなんで威張ってたらエージェントになれないよ?」

「えへへ、ごめんなさいー。でも、ローラもエージェントになりたい!」


 ローラもメイシュエも水着の上にラッシュガードとパーカーを羽織った軽装だ。ベリア島ではコートのたぐいは必要ない。サンダルとTシャツと短パンで一年を過ごせる。

 海食崖の上の海に面したログハウスに、ローラを含めた三人は潜伏していた。ログハウスの建つ崖の上から急な階段を四十メートルほど下ると、白砂の入り江になっている。陸地に半円形に入り込んだ入江の海は格好のビーチだが、実は海上からも陸上からも見つかりづらくアクセスも極めて困難で、隠れ家にするには絶好の場所だった。


 この絶海の孤島では、キナ臭い政治抗争や血の臭いで満ちた国際紛争とはまったく無縁だ。この南の島は絵にかいたように温和で平和な場所だった。

 島の人々は、のどかに半農半漁の自給自足の生活をしている。それで不満を感じることはまったくなかった。他人と対立するということを知らない島の人々は、日々を緊張の中で過ごすアイネス達とは物の見方や考え方が根本的に違う。


 ベリア島はかつて大植民地奴隷主義が横行した時代にフローレンシアに征服され、今はフローレンシアの海外領土の一つとなっている。あまりの僻地さにリゾート開発もされずに放置されていた。

 島には緊急輸送用のヘリポートがあるだけで、空港はなかった。通常、週三便のフェリーに四十時間乗る以外に渡航手段はない。まさに隔離された別世界だった。


 メイシュエは背中にもたれかかっていたローラをソファにおろした。

「いつまでも背中に乗ってないでよ。でも、ローラを背負って階段上るのはキツかったです」

「ローラ、そんなに重くないもん! メイシーはレディに対して失礼なんだから!」


 ローラの抗議の声にメイシュエは肩をすくめる。


 ローラはメイシュエという中国語風の発音が苦手で、「難しすぎる! もうメイシーでいい?」と言ってメイシュエのことをフローレンシア風にメイシーと呼ぶようになった。「おお、そう呼ばれると、なんだか私もお嬢様になったみたいだね。いいわ、私のことはメイシー。でも、せっかくなら日本語風にミユキと呼んでくれない?」とメイシュエはミユキという呼び名を提案したのだが、日本語風のミユキもローラが発音するとミユーキーとかミューキとかになってしまう。「ダメ! ミ・ユ・キ。発音できないならメイシーでいいわ」とローラの怪しい日本語を断固拒否して以来、メイシュエはローラにメイシーと呼ばれている。


「身体が鈍るから、ちょうどいいトレーニングね。ふふふ。今、お水入れてあげるから、二人とも座りなさい」


 アイネスはにこやかに答える。白いアオザイ風の服を着たアイネスも、この平和な南国の島では表情も声も穏やかだった。


「ハードすぎます! トレーニングは嫌いじゃないですけど、スポーツ科学的に意味がないです! うさぎ跳びとかやりませんよ、私は!」

「ふふ、誰もそこまで要求してないわよ。それにうさぎ跳びは腰を痛めるから現代では非推奨にされているわ」


 メイシュエとローラはダイニングチェアーに腰掛け、日焼けした腕にローションを塗り始めた。メイシュエはローラの首筋にローションを塗りながらアイネスに話しかける。


「アイネスさん、ここで泳いでいるとめっちゃ日焼けしますよね。しかし、どうします? 狂いましたよね、スケジュール。フェリーが二便連続で欠航になっちゃうなんて」

「ただでさえ便数が多くないのに、困ったもんよね。でも本部もなにか考えるでしょ。私たちは待つだけだわ」


 アイネスは立ち上がってキッチンの冷蔵庫からポットを持ってきて、ダイニングテーブルにコツンと置いた。テーブルの上のグラスににポットを注ぐ。ログハウスのすぐ脇を流れる小川から採った水を冷やしたものだ。


「しかし、ここは平和ね。うっかりするとタスクを忘れちゃうくらいに」


 グラスに注がれた水が氷とぶつかって澄んだ響きを奏でる。メイシュエはありがとうございます、と口にするや否やぐいっと煽った。ローラも勢いよく「ありがとー!」と叫ぶとぐびっと飲み干した・


「おいしー! アイネス、ローラおかわりほしい!」

「んー、冷たくて美味しいです!」

「お口に合ってよかった。この島は火山島だから軟水が採れるのよね。私は軟水の方が好き。イストリアもフローレンシアも硬水ばかりだったから」


 一見リゾートに遊びに来た三姉妹、というにはローラの年が離れすぎているし、見た目もいかにもアングロサクソンの幼女のローラと、オリエンタルビューティな雰囲気のアイネスではかなり無理があるが、島の人はそんな細かいことは気にしていなかった。事実ここまで誰一人三人のことを訝しむ様子は見られない。ここはそういう島なのである。


「それよりもメイシュエ、あまり緩んじゃダメよ。あくまで私たちはタスクの遂行中なんだから」

「分かってますけど、どうしてもリゾート気分が盛り上がっちゃいますよね」

「そうなってしまうのは仕方ないわ。ベリア島の魔力なのよね。ここに住むとあらゆる感覚が緩んでくる。気を付けないといざというときに動けなくなるから、注意しておきなさい」


 メイシュエはアイネスの口ぶりに若干の違和感を覚える。まるで彼女はある程度の時間をこの島で過ごしたことがあるかのような口ぶりだ。


「ひょっとして、アイネスさん、この島で暮らしたことあるんですか?」

「ふふふ、どうかしらね」


 曖昧な言葉でアイネスは話を終わらせた。その表情がすっと引き締まったのを見てメイシュエは慌てる。


 ―――やばい、エージェントの過去の話を問うのはご法度だったわ


 しばらくこの話題には触れない方がよさそうだと思ったメイシュエだったが、アイネスに緊張を与えたのは別のものだった。


 ガチャガチャと鍵を回す音に続いて、ログハウスの玄関扉を雑にノックする音。

 メイシュエの顔にも緊張が走る。


「アイネスさん、誰か来ました。ローラ、ほら、後ろの部屋に隠れなよ」

「えー、メイシーのいけずー。ローラ、もう少しお水飲みたかったんだけど……」

「そんなこと言ってないで早く!」


 ローラはあくまでここにかくまわれている身だ。どこの誰とも分からない来訪者にその姿を見せるわけにはいかない。メイシュエは必死にローラを奥の部屋に押し込もうと急かした。


 そこへアイネスのひたすら冷静な一声がかけられた。


「メイシュエ、大丈夫よ、玄関を開けてあげてちょうだい。ローラもそのままでいいわ」

「……大丈夫なんですか? 開けちゃって」

「開けたくないけど、しょうがないわ」

「???」


 アイネスの態度にどこか妙な感覚を抱きながらメイシュエは玄関を開けに行った。


「どちらさまですか?」


 扉を開けるとそこには背の高い男がローラと同じぐらいの幼女をおんぶして立っていた。幼女は男の肩に頭をのせてぐっすり眠っている。


「ひどいじゃないか、アイネス。勝手に鍵を替えるなんて。お? お嬢ちゃん、初めて見る顔だな。アシスタントかい?」


 扉を開けた男は、まず文句を言ったが、そこにアイネスでなくメイシュエが立っているのに気が付いて話題を変えた。

 メイシュエは男がアイネスの名前を告げたことで警戒レベルを下げていた。少なくともこの男はアイネスが誰なのか、なぜここにいるのか、を知っている。つまり、喫緊の敵ではないはずだ。


「別にあなたに断る必要性を感じなかっただけよ」


 しかし、予想に反してアイネスの第一声は異常に冷たく尖っていた。


「アイネスに冷たくされる心当たりは俺にはないが」

「どの口が言うのかしら。冗談もほどほどにしておいてくださる? 私、意外とキレやすいの」

「それは、知ってる」

「なによ、そんなことばかり覚えているなんて、趣味悪いわね。やっぱりあなたには死んでもらった方がよかったわ」

「それは一緒にくたばった方がよかったってことじゃないのかな?」

「やめてくださる? 選ばなかった未来の話なんか聞きたくもないわ」

「それは違うな、アイネス。起こり得る現在の話だぜ」

「ナンセンスね。死んでも願い下げだわ。とにかく、私たちは怒っているの。時間厳守が守れないエージェントなんてあり得ないわ」


 男の第一声も謎だったが、アイネスの返答もまったく意味が分からない。妙に親しげともいえるし、妙に挑戦的でもある。

 メイシュエは狐につままれた気分で緊迫感のある二人のやり取りを見ていた。


「泣く子とお日様には逆らえなかったんでね。不可抗力ってやつだ。海軍のヘリを借用してきたよ」

「それで私たちの活動日数が削られているのを、あなたが知らないはずないのだけど。さっさと用事を済ませて消えていただけないかしら? 忙しいのよ、私たち」

「おーおー、相変わらず怖いよな。ほら、この子だ」


 男は背中に背負った幼女を、その粗雑な言動からは想像できないほどそっと丁寧にソファに降ろして、そばにあった肌触りのよさそうなクェットをかける。


「じゃあ、そっちの子をもらって、俺はとっとと退散するか。あまり歓迎されてないみたいだからな」

「ちょっと待ちなさい、ブライソン。ローラを連れて行くなんて話は、聞いてないわ。そもそもローラを連れて行っちゃったら第二段階のタスクができないじゃない! もともと、三週間の猶予があってその後にローラを引き取りに来ることになっていたはずよ。それを一週間も遅れてきて、しかもすぐローラを連れて帰るなんてどういうことよ!」

「いや、またフェリーが欠航になったりして期限に間に合わないと大事になるじゃないか」

「冗談じゃないわ。そんなのあなたの都合。そっちの子を連れてくるのが遅れたのもあなたの都合。どうしてそれを私たちがかぶらないといけないのよ!」


 珍しくアイネスが声を荒げる。男はアイネスの剣幕に押されて両手のひらを前に出して降参のポーズをした。


「わかったわかった、怒るなよ、アイネス。じゃあ、二週間後に迎えに来るから。じゃあな」


 そう言ってブライソンと呼ばれた男は扉を閉めて帰って行った。


「なんなんですか? あの男? エージェントっぽいですけど」

「メイシュエ」

「はい」

「あの男、殺してしまってもいいわよ。私のタイプじゃないから」

「はい??」




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