第10話 火の島が吠える(2)

「メイシュエ」

「はい」

「あの男、殺してしまってもいいわよ。私のタイプじゃないから」

「はい?? どういうことですか? 私にあの男を殺せってことですか? いや、命令とあればすぐにでもぶち殺してきますけど。あの男、なんなんです? エージェントですよね?」


 メイシュエの問いは至極当然のものだった。アイネスは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。


「……ブライソン、相変わらずだわ。メイシュエ、あの男、あなたが殺さなくてもいいけど、すぐにでも死んでほしいわ」


 いつも冷静なアイネスが毒を吐くように感情的にセリフを投げつけている。メイシュエはアイネスの真意を測りかねてひたすら困惑していた。アイネスがブライソンと呼んだ男は、水平線に落ちた太陽がわずかに残した光を頼りに、崖の小道に溶けるように消えて行った。その後ろ姿はもう視界の外だった。


 ―――アイネスさん、私にはそういうことは軽々しく言うなって言ってたのに。それにあの男との会話、メタファーだらけで全然意味が分からない。


 ふとログハウスの中のソファに目をやると、ローラがブライソンの連れて来た幼女のほっぺをつんつんとつついていた。


「アイネスー、この子がわたしの代わりの子なの? めっちゃ寝てるよ? ぜんぜん起きないね」


 アイネスが振り返った。ローラとソファーで寝ている子を見比べて、ため息ととともに薄く笑う。ソファーの幼女は背格好こそローラと似ているが、顔立ちはかなり違う。目が大きくて色白のローラ(今は連日の海水浴でかなり日焼けしているが)と比べると、下がり眉で金髪の大人しそうな寝顔だ。身近で見ている人ならば、見間違えることは絶対ないと断言できるくらい、はっきり違っていた。


「あんまりわたしに似てないと思うんだけど、大丈夫かなあ?」


 幼女の寝顔をまじまじと見つめていたローラがごく当たり前の疑問を口にする。アイネスは幼女のひたいの髪をかき分けた。


「ローラ、顔が似てるかどうかは、あまり問題にならないのよ。自分はドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシアだと自信を持って名乗ることができるかどうかにかかっている」

「うん、そうだよねー。ローラ、お屋敷では自分の部屋から出ちゃいけなかったの。アドラクシオンの時しか、お外に行けなかったの。お屋敷の使用人の人と家庭教師の先生としかお話したことない。あと牧師さんかな?」

「そうね。ローラの顔と名前をセットで知っている人は、ごく少ない。それがストタニアの闇の歴史、二十一世紀にまで残ってしまった時代錯誤の風習。ローラもこの子もその風習の犠牲者……。その子、あと数時間は目覚めないわ。そして、目覚めても何も覚えていないはず。自分の名前すらも」


 そばでアイネスの仕草を見ていたメイシュエは現実に立ち戻って、ローラの手を握った。


「ローラ、覚悟はできている? あなたはこれからドローレス・アルフォンソ・デ・キャッセルシアの名前を捨てることになるのよ。永遠に。それでもいいの? 今ならまだ戻れるよ?」


 ローラは表情をきりっと引き締めた。その横顔はとても八歳の女の子には見えないくらい大人びている。瞳に強い意思の光が灯っていた。この子はきっと強い子になる、メイシュエはうっすらとそう感じていた。


「わたしは、もうあのお屋敷の部屋で一人で過ごすのはやめるの。たしかに、あの部屋で生きていると不自由ないの。けどね、お外にはこんなに広い空と海があるでしょ? ローラ、もうあのお部屋には戻らない」


 アイネスがローラの肩に手を置いた。


「分かったわ、ローラ。私たちはあなたの決断を尊重する。では、この子が目を覚ましたら始めましょう。この前の夜、打ち合わせたとおりに」


 ◇


 時はアイネスたち三人がベリア島に到着した最初の日の夜に遡る。


 二日間の船旅を終えて、べリア島の小さな港から一時間ほど悪路を粗末な車で走り、その後さらに一時間ほど徒歩で小道を歩いてたどり着いた崖の上のログハウス。そこがアイネス達三人の潜伏場所だった。

 崖からは、見渡す限りの大海原にこれでもかというほど大きな夕陽が沈むのが一望できる。せっかくの夕陽のショーを鑑賞することもなく、ローラは到着するなり、メイシュエもすぐにシャワー浴びた後で、ベッドルームに行って眠ってしまった。

 アオザイ風の服に着替えたアイネスは、ダイニングチェアに腰かけてコーヒーを飲みながら、スマホをスピーカーフォンにして話していた。


「どうだい、アイネス。南の島の空気は」

「暖かいわね。むしろ暑いぐらい」


 スマホ越しのキリアムの声はいつものかすれた声だった。リガ・ダナウの乾いた冷たい空気を感じさせている。いや、キリアムが今現在リガ・ダナウから電話をかけてきているとは限らない。アイネスがトップエージェントであるように、キリアムもまた北ヨーロッパで指折りのトップオーガナイザーだ。いつでも、どこでも、世界中のあらゆる街が彼の居所になりうる。


「あたりまえだ。誰もそんな話は聞いていないよ。何年ぶりだね、べリア島は?」

「どうだったかしらね。もう覚えていないくらい。少なくともメイシュエが訓練所に入る前ね」

「私も行く機会があるのであれば、もう一度行ってみたいものだよ。なんなら何年か過ごしてみたいとも思っている」

「ここの夕陽は相変わらず大きいわね。私は、……仕事でなかったら来る気はなかったわ。でも、まさか生きてこの島にまた来られるとは思わなかった」


 アイネスは少し湿り気を帯びた声で返事をした。スタンドに立てかけたスマホを見つめる目にうっすら感傷の色がにじむ。それを振りほどくように首を振ると、いつもの張りのあるアルトを響かせ、勢いを付けてキリアムに問いかけた。


「それよりもキリアム、この後のスケジュールを教えていただけるかしら?」

「おお、そうだな。キミと昔話をしていては、ただの電話代の浪費でしかない。しかし、その前に。事情は話したのかね、ドローレス嬢に」

「まだよ。あの子、船の中のプールがいたくお気に入りで、航海中はほとんどプールで泳いでいたわ」

「ほう。ファントム・ソラールらしいな。キミは私がメールしたストタニア公爵家の裏の歴史は読んでもらえているな?」

「ひととおりね。でも、ファントムを誘拐して別の子とすり替えろなんて、あまりにも狂ったタスクよ。二十一世紀のこの世の中で、公爵家の跡取り争いになんの意味があるのか分からないわ」

「それは他人には分からないお家事情ってものがあるのだろう。ただ、少なくとも経済的には桁違いのベネフィットがもたらされるのさ。たとえファントムであっても、な。しかし我々は、依頼の理由や目的には興味がないのだよ。そこに依頼があれば、どんな依頼でも引き受けるのが我々の方針だ。たとえそれが人さらいであっても……」

「人殺しであっても、ね。それは重々承知している」


 アイネスはため息つきながらスマホの向こうのキリアムのしたり顔を想像する。キリアムの何を考えているのか相手に悟らせない表情を思い浮かべて、伝え忘れていたことを想いだす。


「キリアム、伝えていなかったことがあったわ。ここでのアシスタントは引き続きメイシュエにやってもらうことにしたのよ。もう話は付けてあるから」

「おお、そうか。ちょうど適当なアシスタントが見つからないことをキミに言わなければならなかったんだ。助かったよ」

「メイシュエは数か国語が話せるし、体力もある。ローラともうまくやってる。そこらの下手なエージェントより適任だわ」

「キミが言うなら間違いないだろう。実はリディアを送り込もうと思っていたのだがね、タスク明けから連絡が取れなくなっていて、こちらも困っているところだ」

「リディアに限って殺されたってことはないでしょうから、心配はいらないでしょう。むしろ派手に殺しすぎて現地のポリスから逃げ回っているのではないかしらね」


 アイネスはリディアと組んで仕事をしていた昔を思い浮かべた。接近戦の暗殺術には滅法強いリディアと、遠隔から一撃必殺の攻撃を放つアイネス、そのコンビの暗躍で公にはできないような歴史の大変革となった事件もいくつかあったことは、業界の公然の秘密でもあった。


「おそらくそんなところだと思う。リディアについては、特に私も心配はしていないがね。アイネス、ついでだから、二つほどキミの耳に入れておきたいことがある」

「なによ、キリアムのその言い方は経験上、九割方ロクでもない話だわ」

「一つ。昨日ポルト・スキリアを出るはずだった代わりの子を載せるフェリーだがな、エンジントラブルで欠航になったんだ。代替便を手配しているが、到着が三日ほど遅れる」

「……ロクでもないわね。代わりの子をローラ、つまりドローレス嬢そっくりに仕立てるための準備期間はもともと三週間しかないのに、二三日削られるということね。もう一つは?」

「代わりの子をキミのところへ連れてくるエージェントなんだがね、ブライソンにお願いすることにした」

「なによ、それ! 嫌がらせなのかしら!?」


 二つ目のキリアムの言葉はアイネスにとって本当にロクでもない話だった。古傷をつつかれるような、しかしどこかしら甘味のある疼きを感じて、アイネスにしては珍しく身震いをした。


「おや、その反応は予想外だ。喜んでもらえると思ったのだが。キミを知っている、キミが知っている、ベリア島を知っている、このタスクに必要なスキルがある、スケジュールが空いている、この五つの条件をクリアする最適な人物だと思ったのだがね」

「最初の二つはこのタスクとは全然関係ないでしょう。今からでも変えていただけないかしら」

「そのリクエストが通るとはキミ自身も思っていないのだろう? 私の知っているアイネス・ゼステンブルグは私情を仕事に持ち込むような愚かな女性ではなかったはずだが」


 無理とは分かっていてもアイネスは聞かずにはいられない。しかし、予想通りキリアムはあっさりと、しかしきっぱりとアイネスのリクエストを拒否した。


「……仕方がないわね。その代わり、もし私が彼を殺してしまっても文句言わないでいただくわよ」

「そういう事態にはならないと私は確信しているがね。ああ、あと一つ」

「なによ。まだあるのかしら? ロクでもない情報が」

「これは不確定情報なのだが、FSPM、つまりフローレンシア陸軍特殊秘密部隊が妙な動きをしている。ベリル島とは関係ないかもしれないが、注意しておいてくれ」

「あなたの教えてくれる情報の中では一番まともだったわね。注意しておくわ」

「そうか。じゃあ、ベリア島での生活を楽しんでくれたまえ。これでリディアがいればいい同窓会になったのだがね。久しぶりにブライソンと旧交を温めることを期待している」

「……キリアム、あなた本気で私に殺されたいの?」


 アイネスは乱暴にスマホの通話を終了させた。


 ◇


 翌朝、ダイニングテーブルに並んだ朝食を前にして、アイネスはメイシュエとローラに厳かに語りかけた。


「メイシュエ、ローラ、これから私が話すことをよく聞いて。特にローラ、今から私はあなたのこれからの人生に関わる話をするわ」













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