第4話 常闇の脅威

 俺、斎藤康二。御歳三十二歳、独身サラリーマン。人並みに結婚願望はあるし、貯金もそこそこある。顔だって、自分でいうのもなんだが悪い方ではないと思う。あ、あと賭け事もしないし、家事は大体できる、もちろん、結婚したら家事は折半。

 できもしない空想の想い人との未来を思い描いて、俺は夜におっさんのため息をプレゼント。


「大体、世の中の女は見る目ねーんだよ……! なんだよ、韓国アイドルってよォ!    俺だって、本気になって日の丸アイドルで売り出せば一躍世界のスターだぞ!」


 虚しい。ただただ虚しくて、ワビしい。

 こんな時、いつも思う。今が旬の『異世界転生』とやらが、俺に訪れないものかと。

 非現実的で益体もないことを考えながら歩けば、ふと十字路の影で何かが蠢くのが目にとまる。

 その何かは街頭に照らされてはいるものの、この十数メートルの距離ではよく見えない。

 ——何かが、おかしい。今まで、霊のような非科学的な存在は見たことがなかったし、信じていなかった。超能力とか、念能力とかも、並びに。

 だから俺は、生まれて初めて感じるこの奇妙な感覚に、どう結論を出せばいいのかわからない。


「お、おい、誰かいんのか……?」


 恐る恐る、その『何か』に躙り寄る。

 心臓の鼓動が高鳴るのがわかる。冷や汗は頬を伝って落ちて、ひんやりとしたコンクリートに染みを生む。


「け………けて……」


 ——けて? けて、とはなんだ? 俺は必死に思考を巡らせる。けての後に続く言葉、けての前にあるかもしれない言葉。

 巡って巡って、考えて、思案して、熟考して——。


「助けて、って言ってんのか?」


 結論が、出た。助けて。文字通りならば、助けを求める言葉。


「——あんた!大丈夫か!」


 こんな俺だが、別に人情が枯れ果ててるわけじゃないんだ。道端で困っている人がいたら手を貸すし、子供にぶつかられても笑顔で許す。早朝の出勤でも、込み合った電車の中、立ってる老人が居たら迷いなく席を譲るさ。お天道様が常に見てくれていると、信じてるから。

 瞬発的に、俺は影へと駆け寄る。困っている人を助けるため。


「けてけてけてけてけてけてけてーーーー」

 

 影に辿り着いて、声をかけようと思ったんだ。


「——は?」


 そこにいたのは、子犬ほどの大きさの、可愛らしいフランス人形。

 可愛らしいフランス人形が、とぼけた顔で「けてけて」と機械仕掛けの口を開いて、喋る。


「うわっ!」


 その気持ちの悪い仕草に驚いて飛び退けば、背中に何かがぶつかった。


「あらあら、うちのこが、ごめんなさいね?」


 背中から聞こえるのはとても穏やかで、上品な声。俺はこんなわけのわからない状況で、声に聞き惚れた。

 だけど、声のする方へと振り向けない。振り向いたらダメだと、身体中の細胞という細胞が危険信号を発する。


「ばぁ!」


 子供みたいに言う声がしたかと思えば、俺の視界がグルンと回転。目の前には——童女が立つ。


「——あぇ?」


 遅れて、ベキバキと鈍い音。その音が、自分の首が折られた音だと理解する前に。


「びっくりした?」


 可愛く笑う、嗤う童女の姿に、見惚れていた。


「も、そんなにみちゃって。ろりこんさん?」


 自由の効かなくなった首が、何かに齧られる。ぐちゃっぶしゅ、齧られる、齧られる。


「ま! ばっちいからめ!よ」


 おいおい、失礼なお嬢さんだ。でも、そんな失礼なお嬢さんも、将来は立派な、綺麗なお姉さんになってるだろう。

 その頃になったら、俺のお嫁さんになりにきてくれないもんかな。

 思ってもないことを脳に吹き込まれる。

 そうしてる間にも、俺の体は齧られる。

 回らない思考の中で考える、これで異世界転生でもするのか? そうでもしなきゃ、俺が必死に今までに詰んだ徳ポイントと割に合わない。

 異世界はどんな地かな。ドラゴンが空を世界を我が物として、モンスターは何も考えず人類を襲う。俺は、そんな世界に現れたチート救世主勇者様——。


「あぁ……え」


 声にならない声が、助けを求めて発した声が、形を持たずに消える。

 ——死ぬのか?

 死ぬ、怖い、怖い、嫌だいやだいや——。


「またちゅうとはんぱにのこして! ごめんなさいね、おじさま」


 かくして、俺、斎藤康二のちっぽけな人生は、得体の知れない化け物に襲われて幕を下ろす。

 残念ながら、夢に見た異世界転生も叶いそうになく、なんの面白みにも欠けた俺の人生の、レッキとした終幕であった。



 ***



 ——変だ。変なのだ。先刻、一志を襲った一つ目の蛇。あれを倒してから、奴らは一向に姿を現さない。


「妙だ……」


 前後左右、どこを見回しても、何もいない。だが、明らかに凶悪な気配は付近に漂っている。

 その気配の元を探して、走る。


「待ってよ、お兄さん」


 ——走れば、正面には、人影があった。

 原因はわからないが、辺りを一層濃く覆う暗闇が、人影の顔を映させない。が、構わない。


「ッ! 喰らえ妖面!」


 咄嗟に急ブレーキ、からすぐさま妖面を呼び、自然、顔を狐の面で覆って臨戦体制に入る。

 警戒はしていたはずなのに、まるで瞬間移動でもしたように眼前に現れたこの人影に、一志は最大限の緊張を抱く。



!」


 今、一志にできる最善策で、最高出力で、こいつと戦う。こいつをここで、確実に仕留めるために。


「あれ、やる気満々。違うんだ、俺は話をしにきて……」

血爪切チヅメギレ


 狐と唱えれば、一志の体は従来の重さの三分の一ほどとなる。となれば必然、速度が増す訳だ。

 なんだか相手が喋っていた気がしたが、いちいち耳を貸している余裕はない。一志はしかと敵を見据え、地面を強く蹴って急接近、左手に携える血で出来た長い爪で相手の喉笛を狙う。

 狙い澄まして切り付けて——ザクッ。奪った。


「ぎゃー危ない! ちょっ、待ってって!」


 ——確実に仕留めたはずの相手、爪に感じた感覚は紛うことなく人の肉。しかし、挨拶代わりに聞かされたのと同じ声が、再び一志の耳を打つ。


「————」


 一瞬、一志は混乱した。その混乱が、十分な隙であることを理解していながらも、愚かに。


「いやー危なかった! 君速い! 危うく俺の首が取られちゃうところだった!」


 その隙を、相手は見逃さない。もはやどこから聞こえていたのかもわからなかった相手の声は、今や一志の真後ろから聞かされる。

 聞かされて、一志の首に手を回す。


「——らぁ!」


 それに動じず、振り向きざまに攻撃しようと、腕と一緒に体を強引に左回し。

 すれば、今度こそ確実に爪は相手の体の芯を捉えた。


「ひゃあ、大人しくしてよ」


 ——されど、またしても感覚だけ。今度は足元から声がする。


「——死ねッ!」


 一志は躊躇わず、地面に爪を突き刺す。その攻撃は相手の体をも貫通し、コンクリートでできた地面にも刺さる。


「うーん、しょうがない。手荒な真似は避けたかったんだけど……」

「舐めてんじゃ、ねぇよ!」


 それが感覚だけなのは、もう理解した。理解したから、すぐにコンクリートを荒々しく削りながら手を抜いて、飛び退く。


「参の尾!」


 今、一志が出せる全力だと、この相手を打ち取れない。——だから、今を見ることに専念することに決めた。

 一志が意識して使わずにいた奥の手、この先を考えれば使えなかった奥の手。

 それを、今ここで使うことを、強いられた。


「うわっ!」


 ——参の尾、それは、使用後に激痛を伴う代わりに身体能力の向上を可能とする能力。

 唱えれば、狐の面の左目を、蒼い炎が立ち昇る。

 その炎が、一志に限界を越えさせた。


「お、らぁぁぁっ!」


 強い能力の反動で文字通り血を吐きながら、一志は左手を正面にカザして、飛びつく。それで、相手の首に穴を開けて。


「いったぁぁ……! もう、いい加減にしてよ!」


 ——しつこい、幾度、感覚のみの雪辱を味わえばいいのだ。

 しかし、今までとは確実に違う点が一点。それは、一志の血の爪から赤黒い液体が滴っていること。

 気づいて、思う。この調子で攻めつぶせば、勝てる——。


「ごぼっ」


 ——血。力の反動、一志の口から血が吐き出される。

 その血を拭って、構え直す。

 今、一志に死ぬ選択肢などないし、死なない。

 勝て。


「しっ!」


 繰り返し、芸もなく同じ技を放つ。それをまた掠められた相手が「痛いって!」溢す。

 足を止めるな、技を絶やすな、芸がなくてもいい、殺せ。

 生きるために、己がために、殺せ。


「——えぁ、ダメだってば!」


 ——刹那、目にも止まらない速度で何かが近づいてくる。それに驚いて静止する声も聞こえるが、そんなものは意識に介入させる余地もない。近づく何かは、確実に一志の息の根を止める何かをしようとしていることを、魂で感じ取る。

 アクションを起こさなければ、死ぬ——。


「ッ捌の——」

「孤神のコシンノジ


 瞬間、視界が、世界が、暗転した。


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