Route16
祐里
1.生
『いつか迎えに行くからね』
六歳のとき。窓から入る日差しがキラキラ浮いている亀の水槽の水面を見ていたら、金色の光の中にママが現れ、そう言ってすぐに消えてしまった。いい子にしていないと見捨てられてしまうかも。迎えに来てくれなくなってしまうかも。そう思ったあたしは、わがままを言わないようにしようと決めた。
お父さんが釣りに行って、連れて帰ってきた大きな亀。首を伸ばしているところはかわいかったけれど、それほど愛着が湧く生き物でもなかった。水槽の水換えや餌やりをするあたしに媚びることなく、いつも光の差す方へ逃げたがっていたからかもしれない。首も手足も、全部引っ込めて隠せる甲羅がうらやましかったからかもしれない。亀はある日、水槽から逃げ出してしまい、二度と戻らなかった。
九歳の夏祭りの前日、お母さんから「お兄ちゃんのは買ったんだけど、女の子の浴衣は見てこなかったわ」と、ペラペラのくせに固い生地のTシャツを渡された。着てみたらタグが肌に当たって痛かった。
祭り当日は「これで適当に遊んできなさい」と、お小遣いを多めにもらえた。あたしはそのお金で夜店のひよこを二羽買った。お父さんとお母さんは「そんなもの買ってきて」と呆れていたけど、ひよこたちを飼うことは許された。空気に溶けてしまいそうな繊細な産毛と、家族以外の温度を持った命が家に存在し始めたことがうれしかった。
二羽は大きくなっても、家族の中で一番あたしに懐いていた。毎朝早く起きてキャベツをみじん切りにし、
十歳の春にしては暑い日に、鶏たち――大きくなったひよこたち――が殺された。二羽とも細い喉に強い力で爪を立てられたらしく、首がおかしな方向に曲がり、白い羽と血が飛び散っていた。毎晩小屋を覆うように設置していた板は、強風のせいで外れてしまっていた。小屋の格子部分からの攻撃だったようだ。沸騰しそうな怒りと、凍りつく思考を同時に感じた。隣家の黒猫のしわざかもしれないと、あたしはお隣に文句を言いに行った。お母さんが慌ててあとを追いかけてきて、「すみません、すみません」と謝ってばかりいた。お隣のおばさんは「本当にうちの猫なの?」とは聞かなかった。きっと心当たりがあったのだろう。その代わり「ごめんなさいね、でも猫のすることだから」という言葉だけ放り投げ、さっさと玄関を出ていってほしいと無言で訴えた。
「あんたが殺したのよ」
家に帰るなり、お母さんが言った。
「風が強くなるってわかってたのに。あんたのせいだからね」
驚いてお母さんを見上げると、嫌そうに歪められた口から「お兄ちゃんはあんなにいい子なのに」という言葉が降ってきた。さすがに泣きそうになったが、ぐっとこらえた。泣いたらすごい勢いで叱られてしまう。
「あんたは本当に何考えてるかわからなくて嫌だわ」
それもそのはずだ。だってあたしの中には、機嫌の良いときだけ話しかけてくるお父さんとも、お兄ちゃんのものばかり揃えようとするお母さんとも違う、パパとママがいるのだから。そんなことを考えていたなんて、外に出せるわけない。
「はぁ……。もういいから、買い物行ってきてちょうだい。キャベツはいらないから買うんじゃないわよ。ええと、今日は炊き込みご飯だから人参と油揚げと……」
翌日からもあたしはそれまでどおり早起きした。お母さんはあたしより三十分遅く起きてきて、心底嫌そうな顔で「何で早起きしてるのよ……」と言った。
二学期が始まると、急に成績が下がった。テストでいい点を取れなくなり、A評価だった科目がC評価にまで落ちた。お父さんは仕方ないというふうに大げさなため息をついて、「これからは一緒に朝ご飯を食べよう」と言った。起きるのはあたしが一番早かったから、朝ご飯も別々に食べていた。でも、一緒に朝ご飯を食べたところで、何になるのかわからなかった。あたしがクラスの女子から嫌われて、「テストでいい点取ったらまたひっぱたくからね」と脅されていることへの解決になるのか。もしかしたら、ひよこたちが死んでしまったことに関係していると勘違いしているのかもしれないと思ったが、言わなかった。だって本当の原因はお父さんだったんだもの。お父さんが、リーダー格の女子に偶然会ったときに「うちの子はぼんやりしてるからな! もっとビシビシやってくれよ!」なんて笑顔で言わなかったら、そんなことになっていなかったのに。
あたしの中にいるパパとママは、ぼんやりしていないと現れてくれない。緊張していたり考え事をしていたりするとだめ。だからあたしはよく机に向かって本を読むふりをして、ぼうっとしていた。するとパパとママが現れる。金色の光の中で、二人は優しく声をかけてくれる。
『昨日熱出しただろう。もう大丈夫か?』
『うん、もう大丈夫』
『自転車の鍵、見つかってよかったわね』
『ほんと、見つからなかったらどうしようかと思っちゃった』
『お兄ちゃんには、今も無視されてるのか』
『……あたし、つまんない子だから……」
『この間クラスの子にひっぱたかれたの、痛かっただろう』
『……うん』
『ひどいわね、悪いことなんて何もしていないのに』
『う、んっ……』
心の中では、あたしはおしゃべりになれる。泣いても叱られることはない。いつも笑顔でいろと、無茶を言われることもない。
あたしの中の、大好きな二人。いつか迎えに来てくれると、このときは信じていた。
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