一組の果実を収穫しよう

なぎねこ

一組の果実を収穫しよう

 あの日、私の心は朝から浮き足立っていた。

 空が、今よりずっと高かった日。

 私の魔法が、悪い魔法――「悪いことをするための魔法」だと頭でだけ分かっていたころ。

 優しい先生たちが、まだ一度も悪さをしていない私の魔法を、「本当は、こんなに綺麗な魔法はないのにね」と、慰めるように朝も夜も語りかけてくれた日々。

 素直だった私は、その言葉を鵜呑みにして、銀色に耀く私の魔法を磨き続けた。

 

「あのさ、特別な儀式があるんだ。君の魔法を、善い魔法に変えるために、僕が見つけた方法なんだけれど」

「特別、ですか?」

「うん、特別。僕が、君の魔法を預かって、変換して返す。そうすれば」

「悪いものが、全部いなくなっちゃう?」

「昔風に言えばね。よくそんな言い回しを覚えていたね」

「覚えているに決まっているじゃないですか。だって、私はあの日」

「そうだったね。あの日、君のもう一つの魔法を善いものに変えたのも、僕だったものね。もっとも、あれは僕の師匠がいたからこそだけど」

 もう目を覚まさない相手のことを、懐かしむように、(もしかしたら、慈しむように?)彼は言った。

「その方法には、代償はないの?」 

「理論上はね」

 その口調に煮えきらなさの影を感じた私は、少しだけ心配になる。

「大丈夫だよ。そんな不安そうな顔をしないで。この方法は、君が自信を持って臨むのが一番肝心なところなんだ。君は、大丈夫ってただ思っているだけでいいよ。難しい術式は、僕が全部引き受けるから」

「どんな術式なんですか?」

「見る?」

「やめておきます。だって、難しいんですよね?」

「まあ、そうだけど。もっとも、今の君なら簡単にとは行かなくても、どうにか理解できると思うんだけどな」

 言葉とともに、術式を中空に書き始める彼。彼の指先に現れた透明なボードに、次々と複雑な文字と数字たちが踊っては、行儀よく並んでいくのが反対側にいる私にも見えた。

「これが、初列風切の式。あと二十五の式を連ねて、君の魔力を頭から終わりまで通せば、変わるはずだよ」

 確かに、反転を命じる配列から始まった式は、変換式の体をなしている。私は、裏側からそれをじっと眺めるも、数秒もしないうちに目をそらした。

「難しい式ですね。やっぱり見るのはやめときます。それより私……」

 彼の指先を、きゅっと握って、私は目配せをした。唇を少しだけ突き出す。

 そのあと、望み通り私を散々甘やかしてくれた彼は、いつものように最後に私の頭を撫でて、おやすみを言った。

 半分以上、夢のなかに沈みかけていた私は、シーツの海に横たわりながら、返事をして、身体の力を抜く。

 耳の後ろの窪みから、端だけが飛び出している私の魔法に、指をかけられた。

「明日、この魔法を預かるからね」

 想像するだけで、胸がドキドキした。この悪い魔法が、変わるなんて……、そんなことが本当に可能だなんて。

「明日でなくても、今夜でもいいですよ」

「積極的だね。煽っているわけ?」

「そんなこと……あったらどうします?」

「親をからかうなんて、なんて不良娘だ。ふしだらで、はしたない子。僕にそっくりだ」

「そりゃあそうですよ。私は、あなたの弟子であり、雛でもあるんですから。もう、寝ますね。おやすみなさい」

「おやすみ、アリア」

 二回目のおやすみなさいを言って、彼は扉の向こうに姿を消した。

 私は、心のなかで返事をすると、安心して意識を手放した。

 きっと、明日は最高の一日になるはずだ。


「気合、入ってるね。儀礼服を持ち出してくるなんて」

「魔法は形から。あなたの教えですよ」

「子ども向けのね。今じゃ、どんな形でも対応できるだろうに」

「でも、私はこれがいいんです。特別な日には、特別なものを女の子は着たがるものなんです」

「師匠とおんなじことをいう。女心というものかな」

 師匠――カレンデュラ様。眠り続ける彼女の長い金茶色の睫毛が、心に浮かんだ。

 彼女が目を開けたままじゃなくて、よかったと思ってしまい、ちくりと胸が痛んだ。その思いを、私の中の一番強い感情で押し流すと、私は彼の目をじっと見つめた。

「お願いします」

 目を閉じて、俯く。

 結い上げた髪のせいで剥き出しになっているうなじに、彼の視線が注がれているようで、むず痒い。

 エーテルに浸したらしく、少しだけツンと香った冷たい指が耳元に触れた。


 あたまから、おわりまで。

 魔法を全部取り出すのは、初めてだった。

 声をあげないですめば、いいけど。がんばろう。

 そんな私のささやかな決意は、あっという間に崩壊してしまった。

 心の一番奥底に連なる魔法を、指で扱われるのは、キスなんかよりもずっと刺激的で、私の喉からは何度も勝手に高い声がほとばしってしまう。

 彼は、慣れているのか、何にも言わなかったけれど。


「よし、これで全部だ。ここからが本番だよ」

 さりげなく、恐ろしいことを言われた。

 ここからがって、じゃあさっきまでのあれは、何だったのだ。あと少しでも刺激を受けたら、この身体が弾けてしまいそうなのに。

「つらいなら、ベッドの上に行く?」

 冗談めいた口調で尋ねられる。私は、いやと首を振る。

 明るい時間に、そんなことまっぴらごめんだったから。

 あくまでも、これは魔法の儀式なのだ。

 私は、乙女だし、どんなに嬌声こえを上げたとしても、これはそういうことじゃない。

 がまん、がまんしなきゃ……。昨日の晩だって、キスの先にあることはしていないし、私ははしたなくなんて、ない。

 唇に、指を這わせて、そっと噛む。

 彼が立ち上げた術式が、剥き出しの魔法に触れる。

 指よりもさらに冷たすぎる人工の魔力が、心と身体の奥底へ一気に流される感覚に、私は歯を食いしばった――。

 

 取り出された、赤と青の一組の丸い木の実形の錠剤。

 彼はソレを指で摘み上げると、満足そうに小瓶の底へ放り込んで、しっかり捻って蓋をする。

 

 あくまでこれは、人助けだ。

 表向きに言えば、彼女は、何も喪っていない。尊厳も、純潔も、魔法も。

 もっとも、目覚めるかどうかは運次第だけど。

 大体はすぐに目覚めるんだけど、たまに長く眠る子もいるのだ。

 変換の儀式の代償は、磨き抜かれた魔力、言い換えれば命の輝きそのものだ。

 彼女も、式をきちんと見れば気づいただろうに。

 人生のかなりの時間をかけて、研ぎ澄まされた魔法が、これ以上磨けなくなっていることに気づいた時、彼女がどんな顔をするか、彼は少しだけ楽しみになってほくそ笑んだ。 

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