第32話 かつての想い人 弐
「それで、私に話って何かしら?」
蘭花は
蘭花は身体を硬直させる。――あんなに大好きだった男の抱擁だというのに、衣越しに伝わる
蘭花は両手の拳を強く握りしめて、離して、と硬い声で言った。
「嫌だって言ったら?」
「大声で叫ぶわ」
蘭花の言葉を冗談だと受け取ったのか、明杰はおかしそうに軽快に笑った。――首にかかる吐息が不快で鳥肌が立つ。
(明杰のことは憎くない。恨んでもいない。でも、)
「もう好きじゃない」
「え?」
自然と口から出てきた言葉に、蘭花の喉の奥を塞いでいた塊がスッと消えた。
蘭花は両腕にめいっぱい力を込めると、明杰の腕の中から勢いよく抜け出した。――今まで大人しく抱かれたままでいたので、今更拒絶されるとは思っていなかったのだろう。
背後から動揺する気配が感じられた。
蘭花は後ろを振り向いて、濃い藍色の瞳をひたと見据える。何の感情もこもっていない目を向けられて、明杰は目に見えて
「……
そう言って後ずさった明杰に、蘭花はすかさず口を開く。
「逃げないで!」
蘭花の強い言葉に、明杰はピタリと動きを止める。
「明杰。あなたは
「っ、」
明杰は傾けていたつま先を真っ直ぐ元の位置に戻すと、不安げに揺れる瞳を、ようやく蘭花に向けてきた。――そう。それでいい。
蘭花は、スーハーと深呼吸をして、乾いた唇を舐めた。そして――
「明杰。私はもう、あなたのことは好きじゃない」
明杰の目が驚愕に見開かれていく。蘭花は藍色の瞳から目を逸らすことなく言葉を
「私には、他に好きな人がいるの。その人のことを心から愛してる。……だから、明杰。今度からは、幼馴染として……ううん。兄弟子として、私に接して欲しい」
二人の間に沈黙が落ちる。
言葉を交わすことなく、ただ見つめ合う二人の間を、水面をなでた冷風が過ぎ去っていく。そうして、先に視線をそらしたのは明杰の方だった。
明杰は蘭花から顔をそむけ、震える拳を握りしめた。
「――君は。君はもう、私を好きじゃない?」
明杰の静かな問いに蘭花は、ええ、と短く答えた。それに対して明杰は、そうか、と言って黙り込んでしまった。
――話は終わった。
(……このままここにいたって、気まずいだけだわ)
蘭花は静かに
「――君が好きなのは、
そう問われて、蘭花はピタリと動きを止めた。今度は蘭花が驚愕に目を見開いて、ゆっくりと後ろを振り返る。
明杰は片手で顔を覆って、ハハハッと乾いた笑い声を上げた。
「嘘だろう? よりにもよって、君の想い人があの白軒虎だなんて」
「明杰……」
「……どうして分かったんだって顔をしているね。分かるさ。だって、幼い頃からずっと君だけを愛してきたんだからね。第二王子殿下が容易に足を掴めない相手で、君が硬く口を閉ざす人物。そして君が呼んだ『シェン』という名。そこから導き出せる相手は、白軒虎しかいないだろう?」
そう言って、明杰は纏う雰囲気をガラリと変えた。突然、別人のように表情を無くした明杰に恐怖を感じ、蘭花は思わず後ずさる。しかし、蘭花が後退した分だけ、明杰がじりじりと距離を詰めてくる。
気づけば、蘭花の背後には大木がそびえ立っていた。
「きゃっ」
蘭花は、地面を這う太い根に足を取られて、太い幹に背中を打ち付けた。反射的に閉じた目を開けると、すぐ目の前に明杰が立っていた。
「っ、」
咄嗟に逃げようとした蘭花の行く手を明杰の腕が遮る。そうして、明杰の両腕に囲われた蘭花は、怯えた顔で明杰を見上げた。
「……君が愛する相手が、第二王子殿下なら、私も諦めがついただろう。けれど、君の想い人があの白軒虎だなんて。――納得できない」
その言葉に、カッとなった蘭花は、先程までの恐怖心を忘れて口を開いた。
「
言って、蘭花は明杰を睨みつける。すると明杰は、憐れむような表情で蘭花を見てきた。
「……小蘭。可哀想に。君はあいつに騙されているんだね」
「な、なにを……」
「君は優しい人だから。私が側にいてあげなければ、すぐ悪いやつに騙されてしまう」
「み、明杰……?」
「っ!」
諦めずに、明杰の胸を強く押した蘭花だったが、いとも容易く腕を拘束されてしまう。手首をひとまとめに握られ、幹に縫い止められた蘭花は、もう片方の手で顎を掴まれた。
蘭花は恐怖にぶるりと震える。
「な……なにをする気……?」
明杰は光の消え失せた瞳で、うっそりと笑った。
「こうするんだよ」
言って、明杰の顔が近づいてくる。蘭花が必死に顔を背けようとしても、顔を押さえつける手はびくともしない。手足をばたつかせても逃げられず、蘭花は目尻に涙を滲ませて強く目を閉じた。その時、
蘭花の鼻先を嗅ぎなれた香りが掠めた。蘭花は咄嗟に叫ぶ。
「助けて……っ、軒……!」
すると強風が巻き起こり、小さな竜巻が明杰の身体を宙に浮かばせ、フッと消え失せた。明杰は空中から地面に叩きつけられ、うめき声を上げる。
蘭花は、ホッとして全身から力が抜けるのを感じ、木の根本にズルズルとへたり込んだ。その目の前に、空中からゆっくりと人影が降りてきた。
「……っ、軒……っ」
蘭花が泣き笑いを浮かべると、地面に着地した軒虎が顔を半分だけ後ろに向けた。
「
軒虎らしいぶっきらぼうな言葉に、蘭花はくしゃりと笑う。
「そうよ。だからあなたがずっと側にいてくれないと駄目なの」
その言葉に軒虎は、フッと表情を緩ませた。
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