第33話 決別

「ん」


 と、ぶっきらぼうに差し出された軒虎シェンフーの手を取ると、蘭花は一瞬で引き上げられ、トンと地面に着地した。


「ありがとう、シェン


 蘭花は軒虎に微笑みかけたあと、衣についた土汚れをはたき落とす。その様子を黙って見ていた軒虎が、弾かれたように後ろを振り向いた。


「どうしたの? 軒」


 首をかたむけながら軒虎の視線の先を見遣みやると、そこには地面に倒れていたはずの明杰ミンジェがよろよろと立ち上がる姿があった。


「……明杰」


 蘭花は顔から血の気が引くのを感じて、軒虎の後ろに隠れ、彼の外套がいとうをぎゅっと握った。その姿をチラッと一瞥いちべつした軒虎は、蘭花の身を隠すように右腕で庇う。そして改めて視線を明杰に戻すと、明杰はハッと冷笑を浮かべていた。


「悪名高いあの白軒虎バイシェンフー気取りかい?」


 嘲笑ちょうしょうされた軒虎は、表情を変えることなく「うるせぇよ」と言った。


 明杰は俯いてクックッと含み笑うと、ギラついた瞳で軒虎を睨みつけた。


「……白軒虎。よくも僕の小蘭シャオランたぶらかしたな」


 「はぁ?」と、軒虎は片眉を上げて、蘭花を振り返った。


「何言ってんだ、アイツ」


 蘭花は困惑しながら、


「普段はこんなに言葉が通じない人じゃないのよ」


 と言った。軒虎は、ふーんと興味なさげに返事をして、蘭花の頭にぽんと手を置いた。


「逃げるか」


 「え?」と、蘭花が言った瞬間、華奢な身体は横抱きにされ、軒虎の腕の中に収まっていた。「え? えっ?」と、蘭花が顔を真っ赤にして動揺していると、軒虎の足元にぶわりと風が渦巻いていく。


「歯ぁ食いしばっとけ。舌を噛むぞ」


 そう言って、軒はトンッと地を蹴った。途端、二人の身体は一気に宙へ浮かび上がる。地上で明杰が何かを叫んでいたが、風の音にかき消されて聞き取ることは出来なかった。


 蘭花は、すでにゴマ粒のように小さくなってしまった明杰を見下ろして、悲痛に顔を歪めた。


(明杰……どうしてこんなことになってしまったの……?)


 ――こんな風に最悪な形で決別することになるならば、あの日の四阿あずまやで、明杰の背を見送った時のままでいたかった。


 蘭花の目尻からポロリと涙が一粒こぼれ落ちた。それはすぐ風にさらわれて、空中で弾けて消える。


「……大事な奴だったのか?」


 軒虎の静かな問いに、蘭花はこくりと頷いた。


「とても……とても大切で、大好きなお兄様だったの」


 「そうか」と言って、軒虎はそれ以上何も聞かずに、蘭花を連れてその場から離れた。


(……また一人。大切な人を失ってしまった)


 ――それでも、生きていてくれるだけ、まだマシなのかもしれない。


 蘭花はこのまま、軒虎と二人でどこかに逃げ去ってしまいたい気持ちを押し殺して、たくましく温かい軒虎の胸に頬を寄せたのだった。






 蘭花は、軒虎に横抱きにされたまま、空中を移動していた。温かい腕の中で大事に守られながら、黄昏時たそがれどきの薄暗い中で黄金色に輝く夕日を、ぼうっと眺めていた。すると軒虎が、


「どこへ行く?」


 と訊ねてきたので、蘭花は少し考え込んだあとで、フフッと微笑んだ。


「そうねぇ。ここからずーっと遠くがいいわね」


「ずっと遠く?」


「そう。……例えば、水の都で有名な甦州そしゅうなんてどうかしら?」


 人差し指で、軒の顎先をくすぐりながら、そう提案してみる。慶虎は、気持ちよさそうに目を細めて、うーんと言った。


「そこがどんなとこかは知らねーけど。小蘭と二人なら、どこへ行っても楽しそうだ」


 そう言って、ニッと白い歯を見せて笑った軒虎が愛おしくて、蘭花は「私もそう思うわ」と言って微笑んだ。それから満たされた気持ちのまま、軒虎の胸板に頬を擦り寄せた。


 ――二人共、この会話の内容が夢物語であることは分かっている。


 その証拠に軒虎は、真っ直ぐ秋宮しゅうぐうを目指していた。


「軒。このまま秋宮に向かうのは目立ちすぎるわ。一度どこかに降りましょう」


 言って、蘭花は眉をひそめて、軒虎の交領えりを握りしめる。すると軒虎は、不敵な笑みを浮かべて蘭花を見つめた。


「挨拶しとかなきゃなんねーヤツが秋宮にいるんだ」


「挨拶……?」


 蘭花が首を傾けると、軒はフッとかすかに笑みを浮かべて、蘭花の額に口づけを落とした。蘭花は軒虎の交領を掴んでいた手を離して自分の額に触る。顔を真っ赤に染めて、金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる姿を見て、軒虎は珍しく声を上げて笑った。


「――随分と楽しそうだな」


 地上から掛けられた低い声に、二人はハッとして足元を見遣った。そこに立っていたのは、数十人もの影を引き連れた慶虎ジンフーだった。


「お兄様。一体いつから……」


 蘭花と軒虎を取り巻く風の影響で、匂いを察知することが出来なかった。――このまま下に降りると、軒虎の身が危ないかもしれない。


 蘭花は「逃げて」と言おうとしたが、その言葉は、軒虎の口腔内に消えていった。軽く舌を絡め、どちらかともなく唇を離す。


 蘭花が呆気にとられていると、軒虎は蘭花を抱き直して、慎重に地上へと降下を始めた。軒虎が地に足をつけた途端、影達が攻撃態勢に入る。


 蘭花はその様子をハラハラと眺めながら、軒虎の腕からするりと降りて危なげなく地上に着地した。


「? 蘭花、どうした。こちらに来なさい」


 いつもの優しい慶虎の声音だが、だからこそ油断はできなかった。それに、慶虎に聞きたいことがある。蘭花は「大丈夫だから、ここにいて」と言うと、軒虎はこくりと頷いて、蘭花に望まれるがまま己の右手を差し出した。


 蘭花は「ありがとう」と言って、軒虎の手に自分の左手を絡ませた。その様子を見ていた慶虎が、ハハッを冷笑する。


「流石はバイ一族一番の遊び人。さすがの我が妹も、お前の毒牙にかかったか」


 その嘲笑ちょうしょう侮蔑ぶべつに腹を立てたのは蘭花だった。


「お兄様! 軒の悪名を真に受けて、私の愛する人を侮辱しないで!!」

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