第31話 かつての想い人 壱

 騒動が起こった翌日も、蘭花の日常はいつもと変わらず、春宮傅しゅんぐうのふから授業を受けることに始まった。それから、乗馬や弓の稽古に励み、剣術を習う。


 そうして一日の予定が終わると、蘭花は自室にこもって、母――シェン氏を弔うためにひたすら写経をした。


 写経に集中できるようにと、小梅シャオメイが焚いてくれた白檀の温かい木の匂いに癒やされながら、蘭花はようやく筆置きに筆を置いた。


小菊シャオジュ。小菊はいる?」


「はい。ただいま参ります」


 と言って、小菊は書簡の棚の奥から現れた。


「他にも仕事が山積みなのに、書簡の整理をお願いしてしまってごめんね。負担になってないかしら?」


 小菊は表情の乏しい顔に控えめな笑顔を浮かべる。


「いいえ。大丈夫です。他に御用がおありでしょうか?」


「あっ、そうなの。これを白露寺はくろじに納めに行ってもらえるかしら?」


 蘭花は手元にある写経の束に手を置いた。「かしこまりました」と、小菊は首肯し、蘭花から束を受け取るとすぐに部屋を出ていった。それと入れ替わりに、点心と蓋碗がいわんを盆に乗せた小梅が入室してきた。


「蘭花様。お茶と点心をお持ちしました。少しご休憩なさってはいかがです?」


 小梅は卓子たくしに皿を置きながら言った。


 蘭花は軽く伸びをして、そうね、と言って立ち上がる。


 椅子を引いてくれた小梅に礼を言って席につくと、蓋碗を手にとって蓋をずらし、茶葉の香りを吸い込んでから飲み口に口をつけた。それから何気なく窓の外を眺めて、ふと御華園の四阿あずまやを思い浮かべる。


「……良い天気だし、御華園を散歩でもしようかしら」


 ポツリと呟いた言葉を耳にした小梅が、いいですね、と笑顔で頷いた。蘭花はフッと微笑んで、飲茶ヤムチャの後は散歩に決まりね、と言って小梅に笑いかける。小梅はぴょんと小さく跳ねて、お供いたします、と言った。


 蘭花は再び窓の外の景色を眺めながら、静かに午後のひとときを過ごしたのだった。






 元宵節げんしょうせつが過ぎて、降雪が落ち着き始めてから、御華園を散歩する妃嬪たちが増えた。


「王太女殿下、ご機嫌うるわしゅう」


「こんにちは。良い午後をお過ごしになって」


 蘭花は妃嬪たちと挨拶を交わしながら、目的地である四阿を目指す。小梅が供をしたい、というので連れてきたが、花を鑑賞しない蘭花に小梅が不満を口にした。

 

「蘭花様。せっかく御華園に来たのに、何も鑑賞されないのですか?」


「うーん、そうねぇ。お花を見るよりも、池の鯉を眺めようかなと思って」


「ああ! それも風雅でいいですねっ」


「でしょう?」


 小梅の素直な気性に内心でホッとしながら、蘭花はふと四阿の方を見遣った。するとそこには人影が。


シェン……?」


 そう呟いた瞬間。蘭花は足だけ白虎に転変して、凄まじい脚力で走り出した。背後で小梅が静止を呼びかける声や、強風に吹かれた妃嬪たちの悲鳴が聞こえたが、それらを無視して足を動かす。


 四阿の目前まで近づくと、蘭花は強く地を蹴って舞い上がり、くるりと一回転して四阿の敷板の上に着地した。


「軒!」


 しかし、蘭花の呼びかけに振り返ったのは、軒虎シェンフーではなく明杰ミンジェだった。蘭花はあからさまにがっかりと肩を落として、急に色褪せて見える景色をぼうっと眺めた。


「……どうやら先客がいたようね。私は帰るから、ゆっくりしていってちょうだい」


 言って、そっけなく背を向けた蘭花の手首を、明杰ががしっと掴んだ。蘭花は明杰の手から逃れようとしたが、思いの外力が強く、拘束を解くことができない。


 力ずくで逃げることを諦めた蘭花がため息を吐くと、明杰はようやく手首から手を放し、蘭花の目の前に立った。


「……久しぶりに会ったんだよ? 小蘭シャオラン。少し話でもしていかないかい?」


 ――復讐を手伝うよりも、君子くんしであることを選んだ相手と、いまさら何を話すというのか。


 蘭花は、明杰からフイッと顔を背けると、


「何を話すことがあるの?」


 と冷たく言い放った。「それは、」と明杰が言いかけたところに、ようやく追いついた小梅が姿を現した。


 小梅は肩で息をして呼吸を整えると、目ざとく明杰の存在に気づき、パパッと身なりを整えた。


「明杰様っ! お久しぶりですねっ。お元気でしたかっ?」


 そう言って、明杰に近寄っていく小梅の頬は桃色に上気し、顔は喜色に満ちていた。


 「ああ、そういうこと」と、蘭花は納得する。軒と出会い、本当の恋や愛を知った蘭花は、小梅が明杰に気があることにようやく気がついた。


(小菊は侍女という身分だけれど、私が後ろ盾になれば明杰との婚姻も難しくないはずだわ)


 ――ただし、婚姻を成立させるには、国王の許可が必要だが。


 蘭花が一人で考えにふけっていると、明杰が焦った様子で小梅から距離をとった。


「小梅。すまないけれど、私は蘭花に話があるんだ。少し席を外してもらえるかな?」


 「えっ」と、小梅は不満そうな声を上げたが、身分差があるので、明杰の言葉に従うしかない。――蘭花は特に話すことはないので断っても良いのだが。


 初恋の相手――それも、宮中一の美丈夫を相手にするとなると、御華園では非常に目立つし、万が一にもこの光景を軒虎に見られたくない。


 蘭花は額に手を当てて、長い溜息をついたあと、くるりと踵を返した。


「あっ、小蘭! 待っておくれ」


 静止の声に、蘭花はピタリと歩みを止める。それから顔を半分だけ後ろに向けて口を開いた。


「……私に話があるのでしょう? ここでは目立つわ。場所を変えましょう」


 そう言って再び歩き出す。


 明杰は、ああ、と了承して、蘭花の後ろをついてくる。


 二人は口を交わすことなく、無言で歩き続けた。そうして、玄武げんぶ門近くにある北海池ほっかいちの畔にたどり着くと、蘭花はようやく足を止めた。

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