第30話 慶虎と明杰
夜が更けた頃。
明杰は
「第二王子殿下にご挨拶いたします」
「
「ありがとうございます」
明杰が視線を上げた先には、
「久しいな。
「おかげさまで」
慶虎と明杰は形式的な挨拶を交わす。その間、明杰は目を軽く伏せたまま、慶虎と目を合わさなかった。すると慶虎は、明杰に向かって空の酒杯を放り投げた。それを視界の端に捉えた明杰は、片手で酒杯を受け止める。
「おお。やるじゃないか」と、楽しげに手を打った慶虎に向かって、明杰はようやく真っ直ぐな視線を向けた。
「……第二王子殿下。以前も申し上げましたが、ご自身が
「あー、うるさい。うるさい。酒が不味くなるだろう」
「相変わらずの石頭め」と、慶虎は
「……
「はい。なんでございましょう」
「明杰と二人で話がしたい」
「かしこまりました」
言って、明全は頭を下げたまま、スススと後ろに後退し、
パタン、と部屋の戸が締まり、思い沈黙が落ちる。すると衣擦れの音がして、明杰は伏せていた顔を上げた。
寝台から降りた慶虎は、靴を履いて、右手に持った酒器をクイッと上に持ち上げた。
「なぁ、明杰。久しぶりに飲まないか?」
そう訊ねてきた慶虎には、かつて幼馴染としてつるんでいた際の気安さがあって、明杰の口角は自然と上に上がっていた。
「喜んで」
*
暫くの間、無言で酒を酌み交わして二人だが、慶虎が空になった酒杯を卓上に置いたのをきっかけに明杰は口火を切った。
「……
「ん?」と、慶虎は首を
慶虎の言葉を聞いた明杰は、頭にカッと血が上るのを感じて、勢いよく椅子から立ち上がった。
「殿下! なんてことをなさったのですか!」
明杰の剣幕にひるむことなく、慶虎は再び手酌で酒杯に酒を満たす。
「何か問題でも? そもそもお前は、この戦いに自ら背を向けて逃げ出したじゃないか」
明杰は、バン! と、右手で卓上を叩いた。
「
「まぁ、そういきり立つなよ」と、慶虎は酒杯をあおった。それから酒杯を卓上に置くと、未だ立ったままの明杰に向かって、クイッと顎をしゃくる。
『椅子に座れ』と、暗に指示された明杰は、渋々椅子に座った。明杰の酒杯に、なみなみと酒が注がれていく。第二王子殿下の手ずから酌をたまわったというのに、明杰は礼をするどころか、
慶虎はフンと鼻を鳴らして、
「蘭花を愛しているからこそ、押さえつけていた激情が溢れ出し、思わず口づけてしまったのだ。それの何が悪い。……お前は事あるごとに『君子』と口にするが、それは愛する蘭花を見捨ててまで守らないといけないものなのか?」
「僕には到底理解できない」と、慶虎は自分の酒杯に酒を注ぐ。
明杰は暫し黙る。それから乾いた唇をひと舐めして口を開いた。
「私は私のやり方で、正々堂々と――」
慶虎は明杰の言葉をさえぎって嘲笑する。
「正々堂々と? 卑劣な手段を使ってくる相手にか? 笑わせるな。馬鹿馬鹿しい」
そう言って、慶虎は酒をあおる。その姿を、明杰は鋭い目つきで見遣った。そして、両膝の上に置いた拳を強く握りしめる。
「……結局、
慶虎は、酒杯を思い切り床に投げつけた。パリーン! と陶器が割れる音が室内に響き渡る。
慶虎はゆらりと椅子から立ち上がると、明杰の胸ぐらを掴んだ。お互いの鼻先が触れそうな距離で、べっ甲色の瞳が射殺さんばかりに濃い藍色の瞳を見つめてくる。その瞳孔は。捕食者であることを体現するかのように鋭く収縮していた。
「その言葉。蘭花に言うでないぞ」
そう言って低い声で凄まれた明杰は怯むことなく、自分の胸ぐらを掴む慶虎の手を叩き落とした。
「……こんなこと、
「お前。命が惜しくないのか?」
「この
慶虎は、ハッと冷笑した。
「骨の髄まで国王に飼いならされているな。……まあ、そんなことはどうでもいい。本題に入るぞ。……まったく。お前と話していると疲れてかなわん」
「それはお互い様だろう」と、明杰は
椅子に座るなり、酒器から直接酒を飲みだした慶虎の姿に、明杰は内心でため息をついた。――これが自分のかつての主の姿だと思うと泣けてくる。
慶虎は酒器の注ぎ口から口を離し、唇の端からこぼれた酒の残滓を。左手の甲で雑に拭った。
「明杰。お前。蘭花の想い人が誰か知っているか?」
明杰は、突然何を言い出すのかと口を開こうとした――が。慶虎に勢いよく手のひらを向けられたことで口をつぐんだ。
「……何をする」
明杰は眉根を寄せて、自分に向けられたままの慶虎の手をどかした。すると慶虎は、もう片方の手で顔を覆いながら、指の隙間から明杰を一瞥してきた。
「……いや、なに。お前の性分をすっかり忘れていてな。もしかすると、馬鹿なことを言い出すんじゃないかと思ったんだ」
明杰は、ムッと眉間のシワを深くする。
「馬鹿でも阿呆でも構わない。君こそ何を言っている? 小蘭の想い人は私に決まっているだろう」
そう言った瞬間。慶虎は哀れな生き物を見る目を、明杰に向けてきた。それから深いため息を吐いて、慶虎は首を左右に振る。その姿を見た明杰は、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「うそ……だろう……? まさか私の小蘭に、別の想い人が……?」
愕然として慶虎に視線をやると、慶虎は真顔で首肯してみせた。
「そ、そんな……」と、言葉を無くす明杰の肩に、剣だこでゴツゴツとした慶虎の手が乗った。
「僕が知らない相手を、お前が知るはずがなかったな。夜中に呼び出してすまなかった。もう帰っていいぞ」
あらかじめ用意されていた台詞のように、すらすらと詰まることなく言い切った慶虎は、労わるように明杰の肩を叩いて寝台に向かおうとする。明杰はその腕をガシッと掴んで、縋るような目で慶虎を見上げた。
「……いったい……一体、その相手は誰なんだ?」
慶虎は明杰から視線を外し、フゥと息を吐いた。慶虎は、自分の腕から明杰の腕を外すと、
「それをお前に調べてもらいたいんだよ。明杰
「は?」と明杰は間抜けな声を上げて、にんまり笑う慶虎の顔を見つめた。
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