第29話 溢れた想い

「――やはり、こうなったか」


 慶虎ジンフーは、ぐっと眉間にシワを寄せて、忌々いまいましげに酒杯をあおる。それから、空になった酒杯に酒を注ぐ蘭花を見遣った。


「……お前の言う通りになったな、蘭花」


 慶虎は傷ついた表情を浮かべて、なみなみと注がれた酒を再びあおった。その際、飲み下せなかった僅かな酒が、形の良い唇の端からこぼれ落ちた。


「あ」


 と、声を上げた蘭花は、酒器を卓上に置いて、手巾を取り出し慶虎に駆け寄る。そして、唇から顎先、顎先から鎖骨へと手巾で酒の残滓を拭き取っていく。


 甲斐甲斐しく、愛らしい蘭花の姿をぼうっと見つめていた慶虎は、濡れてしまった交領えりを開いた白くほっそりとした手首を掴んだ。


「お兄様?」


 「どうなさったの?」と、無垢な瞳を剥けられて、慶虎の心の中にくすぶっていた感情に火がついた。


(……普段の自分なら、絶対にこんなことはしない。だが……だが、蘭花……僕は……っ)


 慶虎は、ギリッと奥歯を噛み締めると、無防備な蘭花を掻き抱くように抱きしめた。


「!」


 突然のことに、蘭花は驚いたようだったが、信頼している兄の抱擁に何の疑問も抱かない。


 慶虎は、蘭花の頭を片手で押さえると、小さな顔をグイッと上向かせた。


「蘭花……」


「……お兄様? どうなさったの? おにいさ――」


 鈴の音のように愛らしくさえずる唇を、噛みつくように奪う。


「ん、んぅ……っ!?」


 柔らかい唇を堪能しようと優しくんだ瞬間、蘭花が抵抗し、ぎゅっと唇を引き結んだ。


 蘭花に拒絶されたことにカッと頭に血がのぼった慶虎は、暴れる蘭花の両手首を掴んで、体重をかけながら舌で前歯をこじ開けていく。


 そして、ほんの僅かに蘭花の顎の力が抜けた瞬間を狙って、口腔内に舌先をねじ込んだ。


「ぁ、む……! ん、んん……っ、ふぁ……っ」


 ――初めての口づけではないのだろうか?


 妙に馴れた動きを見せる小さな舌は、慶虎の舌を器用に避けて逃げていく。そのことに腹を立てた慶虎は、執拗に口腔内を犯しはじめた。


 逃げる舌の根元を舌先でくすぐり、頬や歯茎の粘膜を焦らすように舐めて、何度か捉えることに成功した舌先をちゅっと吸ってやる。


 蘭花の両手首を片手でひとまとめにし、快感で震え出した腰を抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。


「ん、ん……ぅ、む……っ、は……あっ」


 快楽に身を任せてしまえばいいのに、抵抗を続ける蘭花は、一度大きく息を吸い込んで――


「つっ!」


 慶虎の舌を勢いよく咬んだ。


 飲みきれなかった唾液と共に、赤い血が口の端からこぼれ落ちる。再び口元が汚れてしまったのに、蘭花が汚れを拭ってくれることはなかった。


 慶虎は、顎を伝う唾液と血の混ざったものをそのままに、ぼうっとする頭で蘭花を見た。


 蘭花は大きな金の瞳に涙の膜を張り、衣の袖で、何度も何度も唇を擦った。


 明らかな拒絶と嫌悪の意思を見せつけられ、慶虎は、ハッと息をもらした。


「……僕との口づけがそんなに嫌だったのか」


 囁くように呟いた言葉は、蘭花の耳に届かない。


 蘭花は堪えていた涙を一粒だけ、ポロリとこぼした。そして、


「ど、して……? どうしてこんな酷いことをするの、お兄様……っ」


 ――酷いこと。


 その一言に、慶虎は強く頭を殴られたような衝撃を受けた。


(蘭花は僕を愛してない。だとしたらこれは……)


 ――ただの暴力だ。


 慶虎は今更ながら、自分が犯してしまった罪に気づき、青ざめていく顔を片手で覆った。


 蘭花はぐすぐすと鼻をすすりながら、泣くのを我慢している。


「……ふっ、ぅ……! なにか言ってよ、お兄様!」


 泣き叫ぶように言われ、慶虎の口からするりと言葉がまろびでる。


「――好きだ」


 蘭花の動きがピタッと止まり、ずずっと鼻をすすったきり、部屋に静寂が訪れた。それから幾ばく経ってから、蘭花は、え? と間の抜けた声を上げた。


「す、好き? お兄様が私を……?」


 口づけまでして見せたというのに、にわかには信じられないのか、蘭花は顔色を悪くしておろおろとし始めた。


 その姿を見て、慶虎は自分の失恋を、潔く認めるしかないと思った。


「なぁ、蘭花。お前……僕のことが好きか?」


「……好きよ。私のお兄様としてね」


 慶虎はフッと笑って、そうかと言った。


「……お前の心には、すでに愛するものが存在しているのだな」


 寂しそうに問われて、蘭花の心は痛んだが、それはただの同情に過ぎない。


 蘭花は両目を閉じて、瞼の裏に軒虎の姿を思い描く。するとたちまち鼓動は早くなり、会話を思い出すだけで胸がきゅんと鳴り、白かった頬に赤みが戻った。


(やっぱり、あなたのことが好きよ。軒虎……)


 蘭花は自分の気持ちを再確認すると、床に両膝をついて、上体を倒した。


「……お兄様。お許しください。私の心の中には、すでに愛する人がいます」


 慶虎は椅子にもたれ、右手で目元を隠したまま口を開く。


「……その者の名は?」


 蘭花は固く口を閉ざした。


「……僕に言えぬ相手、か」


 蘭花は静かに首肯すると、優雅に立ち上がった。


 ――今日はもう、ここにいるべきではない。


 そう判断した蘭花は、辞することを述べて礼をし、扉へと向かった。


「蘭花!」


 戸口に手をかけた蘭花の背中に、追いすがるような慶虎の声がかかる。


 蘭花は動きを止めて、顔を半分だけ後ろに向けた。


「愛する者がいるのに、あいつと……白軒虎と婚姻するのか……っ!?」


 蘭花はフッと笑みを浮かべた。


「愛する者がいるからこそ、白軒虎と婚姻するのです」


 言って、蘭花は戸を開けて廊下に足を踏み出した。


(お兄様には悪いけれど、私は今も軒虎だけを愛しているわ)


 ――軒虎に会いたくてたまらない。


 蘭花は甘くそして鈍く痛む胸を、両手でそっと押さえると、しっかり前を向いて一歩を踏み出したのだっだ。






 慶虎は、開け放たれたままの扉に向かって口を開く。


「今すぐここに、明全と……明杰を連れてこい」


 暗闇に紛れている影は、御意、と言って気配を消した。


「……僕も大概、往生際が悪い男だな」


 そう言って、慶虎は酒器を掴むと、そのまま酒器から酒をごくごくと飲み干したのたった。

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