第27話 謀略

 蘭花はまだ未婚の上、王太女という立場にあるということで、早々に居を秋宮しゅうぐうへと移すことになった。そして居を移したその日の夜。ウェイ王妃と慶虎ジンフーと蘭花の三人で卓を囲み、ささやかな歓迎会が開かれた。


「――瑞香ルイシャンのことはまことに残念であったが、その代わりに、蘭花という愛愛あいあいしい娘の養母ははになれたことは僥倖ぎょうこうであるな」


 宮女きゅうじょが酒器を傾けて王妃と慶虎の酒杯に酒を注ぐ。王妃は衣の袖で口元を覆い隠しながら酒杯をあおった。――慶虎は自ら酒器を持ち、自分の好きなように飲み始めたようだ。


 蘭花は酒の代わりに茶杯をあおり、空になった茶杯を卓上に置く。


「お母様は生前、王妃殿下のことを実の姉のようにお慕いしておりました。それはもう、娘の私が嫉妬してしまうくらいに」


 酒が入り上機嫌な王妃は、酒気で頬を赤らめ、ホホホと品良く笑った。


「嫉妬などと、いことを言う。……だが、そうであるな。こなたにとっても、瑞香ルイシャンは何者にも代えがたい、唯一無二の存在であった」


 言って、王妃は故人を偲ぶように沈んだ表情を浮かべた。それを見た蘭花は、視線を送って宮女から酒器を受け取ると、立ち上がって、空になった王妃の酒杯に酒を注いだ。


「王妃殿下……いえ、母様かあさま烏滸おこがましいことは承知で申し上げます」


「うん?」


「この蘭花。母様の養女むすめとして、生母である沈氏に孝行出来なかった分……いえ、それ以上に孝行させていただきたく存じます」


 蘭花は、酒器を卓上に置くと、床に両膝をついて上体を倒した。


「……蘭花よ。そなたは、ほんに良い娘に育ったなぁ……これも全て、瑞香の導きがあってこそなのだろう。――蘭花。床は冷たいだろう。さぁ、椅子に座りなさい」


「感謝いたします」


 と言って、蘭花は元の席に戻った。その直後、出来立ての料理の数々が運ばれてきた。


「おお。やっと出て参ったか」


 王妃は頬を緩めると、運ばれてきたおかずの中から、一つの皿を指差した。給仕役の宮女は、白いキノコの炒めものを蘭花の目の前に置く。


 「母様。これは?」と、蘭花は首を傾ける。


「この白いキノコ料理が大層美味でな。ほぼ毎日作らせているのだ。――さぁ、蘭花よ。そなたも食べてみるといい」


 そう言って、王妃手ずからキノコ料理を、蘭花の皿によそってくれる。その姿が亡くなった母――シェン氏と重なって、蘭花の目蓋が熱くなった。


 蘭花はぐっと奥歯を咬んで涙をこらえると、王妃が沈氏を偲べるように、ふわりと花咲く笑みを浮かべた。


「……瑞香ルイシャン……」


 王妃がそう呟いたのを耳にしながら、蘭花は沈氏の笑顔と作法を真似て、白いキノコを口元に運んで――動きを止めた。そしてすぐに、箸で摘んだ白いキノコの匂いを嗅ぐ。


 蘭花の様子が変わったことに気づき、王妃は緩んでいた表情を引き締める。そして、


 「ただちに、当直の太医たいいと毒味役を連れてこい」と、王妃は部下に命じた。


「……蘭花。どうした? ……このおかずは毒の検査と毒味を済ましてあるのだろう?」


 前半は蘭花に、後半は壁の前に控えている、配膳を担当した女官にょかんに訊ねた。


 女官は表情を変えることなく、膝を軽く折って口を開いた。


「もちろんにございます」


「異常はなかったのだろうな?」


「はい。異常は――」


「お待ち下さい」


 と言って、蘭花は席を立った。そして、箸で摘んだままだったキノコの炒め物をパクリと口に入れて咀嚼する。皆が、ポカンとした表情を浮かべる中、蘭花だけは真剣な顔でキノコを飲み込んだ。――やはり、こういう手に出てきたか。


 蘭花は慶虎に目配せすると、室内にいる者全てをこの場に留め置くように命令させた。どこからともなく、慶虎の子飼いである影たちが現れ、一同は騒然となる。


 しかし、蘭花と慶虎、そして王妃は動揺することなく、太医の訪れを待った。程なくして当直の太医が到着すると、蘭花は所狭しと並べられた皿の中から、白いキノコの炒め物を持ち上げた。


「私はつい先程、このキノコ料理を食べました。……異常がないか診てもらえますか?」


「は、はい。かしこまりました」


 太医は提盒くすりばこを卓上に置いた。箱の引き出しから、脈枕みゃくまくらを取り出して卓上に置く。蘭花は、その脈枕の上に自分の右手首を――手のひらが上になるように――乗せた。そして太医は片膝を床につけてしゃがみ、蘭花の手首に手巾を乗せて、3本の指で脈を診始める。反対の手も同じように脈診すると、道具をしまって首を左右に振った。


「特に異常はありませぬ」


 「そう」と、蘭花は値踏みするような目つきで太医を見つめた。ふぅん、と言って、蘭花はにこりと微笑んだ。


「だったら次は、王妃殿下の脈を見て差し上げて」


 蘭花の言葉に反応したのは、給仕役の宮女きゅうじょと、先程王妃と会話を交わした女官にょかんの二人だけだった。目に見えて顔色を失っていく二人を尻目に、王妃は勧められるがまま、太医の脈診を受けた。すると――


「恐れながら、王妃殿下。殿下はいつ頃からじんぞうわずらっておいでなのでしょうか?」


「は?」


 太医たいいの言葉に、王妃はポカンと口を開けたまま、説明を求めて蘭花を見た。蘭花はこくりと頷くと、先に慶虎に目配せをして、その次に太医に病状を説明するように指示を出した。


 太医は床に両膝をついて、王妃に向かってお辞儀をした。


「王妃殿下の脈を診ましたところ、腎の臓を患っておいでだとお見立てしました」


 王妃は呆然としながら、


「それはまことか?」


 と、訊ねた。それに対して太医は、誠にございます、と答える。


「詳しく説明させていただいてもよろしゅうございますか?」と、太医が訊ねると、王妃は疲れた様子で首肯した。それを見て、太医は立ち上がる。


「王妃殿下が腎の臓を患っておられる原因は、高血圧と心労によるものでしょう。……王妃殿下に、お伺いしたいことがございます。腰や背中に痛みを感じたり、排尿の回数が増える、または夜間に何度も排尿する……という症状に思い当たる節はございませんか?」


 太医の質問に、王妃は力なく頷いた。


「……それらに加えて、最近は、浮腫むくみや全身のだるさに悩まされている。稀に貧血を起こすこともあるのだ……」


 太医は両手を胸の前で重ねた。――これを拱手きょうしゅという。


「王妃殿下。それらの症状は、みな、腎の臓を痛めておいでだからです」


「なんと、」


 王妃は椅子の背もたれに寄りかかり、震える右手で口元を覆った。


「――先程、わたくしめがお訊ねした症状は、初期に起こるものでした。しかし、王妃殿下のお話を聞く限りでは……」


「病状が進行しておるのだな」


「はい。……そしてもう一つお聞きしたいことがございます」


「……なんだ」


「王妃殿下はこの白いキノコ――シラフサを、どのくらいの頻度でお食べになっておられるのです?」


「さぁ。いちいち数えておらぬが、ここ最近は毎日のように食べていた。記録にも残っていよう。必要ならば、そちに渡すが?」


 太医は粛々と頭を下げた。


「薬を調合するのに役立ちますますので、是非、お願いいたします」


 「薬、」と、王妃は呟く。


「薬というのは、腎の臓の薬か?」


「はい。もちろんそれもございますが、まずはこのシラフサの毒素を体外に排出せねばなりませぬ」


 王妃は驚愕に目を見開き、椅子の肘掛けの先端をつかんで前のめりになる。


「ど、毒だと!?」


 太医はこくりと首肯する。


「このシラフサは、健康な者が食べる分には問題ありません。しかし、王妃殿下のように腎の臓を患われている方が食すと、発熱、頭痛、意識障害、麻痺、脳炎などが起こり……最悪の場合、死に至ります」


「なんということだ……」


 動揺してまともに話せなくなってしまった王妃の代わりに、蘭花は太医に処方箋を書くように指示を出した。太医は頭を下げて下がっていく。――先程、顔色を変えた宮女と女官は、慶虎の命令により影に取り押さえられた。


 ――今頃、王妃専属の太医も、影に捕まっているはず。


 宮女と女官、そして太医は、取り調べのために大理寺だいりじに引き渡すつもりだ。しかし王妃が拷問を望めば、彼らは慎刑司しんけいしに送られることになるだろう。


 涙を流しながら謝罪を繰り返し、王妃に許しを請う宮女と女官の姿を、蘭花は冷めた目で眺める。


「蘭花」


 体調を崩した王妃を部屋に送り出した慶虎が近づいてきた。


「お兄様」


 慶虎は両腕を組んで、クックッと含み笑う。


「さすが『鼻が利く』王太女殿下だな」


 慶虎は、からかうように笑いながら、蘭花の肩に手を置いた。蘭花はフンと鼻を鳴らしてその手を払いのける。


「笑い事じゃないわよ。母様の命が狙われたんだから」


「そんなもの。後宮では日常茶飯事だろう」


 言って、慶虎は肩を竦めた。


「それは、そうだけど……」


 悲しいけれどそれが後宮ここの現実だ。――誰もが権力を求め、高位に上り詰めようと策略を巡らす、諍いばかりの場所。


 ――例に漏れず、蘭花もその世界に身を置き、殷氏と劉氏を相手に戦っているのだ。


 物思いにふける蘭花に、慶虎は問いかける。


「蘭花。お前、何故、あのキノコに気づいたんだ?」


 「ああ」と、蘭花は言って、


明全ミンチェンの……師傅ししょうの弟子として、幼い頃から色んなことを学んできたから……」


 ――母たちを守るために。


 怒りと悲しみに震える両手をぎゅうっと握りしめる。それに気づきつつ、あえて触れないようにした慶虎は、蘭花の頭をぽんぽんと優しく叩いた。


「なるほど。その得難い知識のお陰で、母上の命が助かったってわけだな。ありがとう。蘭花」


「ううん。お礼なんて……」


 蘭花は俯いて、自分の左腕を右手でぎゅっと握った。


「……寧ろ、私が養女となったことでこの策を考えたのだとしたら、あまりにも陰湿すぎるわ」


「だが。手遅れになる前に、お前は殷貴妃の策を見抜いた。あちらは今頃、悔しがってるはずだ」


 「いい気味だな」と、慶虎は鼻で笑った。

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