第26話 瑞祥宮
蘭花と
後宮――
殷貴妃は
殷貴妃と侍女が一人。そして数人の宮女が控える瑞祥宮は、宮中の喧騒とは無縁であるかのように、
しかし、その雰囲気を壊す者が現れる。
遠くから床伝いに響いていた足音が段々と大きくなり、ついには瑞祥宮に響き渡った。ドタドタと品のない足音をさせて廊下を駆けてきたのは、殷貴妃の一人娘。第三公主の
「お母様っ! お母様ぁっ!」
宮女たちの礼を素通りした蘭玲は、殷貴妃の側近くに来るとその足元に両膝をついた。
「……なんです。騒々しいわね。そのように大きな声を出さずとも聞こえているわ」
殷貴妃は蘭玲を一瞥することなく、熱心にバラの枝木の剪定を続ける。その冷えた態度に怯えた蘭玲は、
「ご、ごめんなさぁい……お母様ぁ……」
と言って、頭を下げた。
殷貴妃は、蘭玲の心情を察することなく、花鋏を動かしながら口を開く。
「……それで? そんなに慌ててどうしたというの?」
しゅん、と肩を落としてした蘭玲は、ハッと顔を上げる。
「そっ、それが、お母様……白蘭花が王妃の養女になったって、宮中が大騒ぎなのっ」
殷貴妃はピタッと手を止めて、はぁとため息をついた。
「何かと思えば、そんなこと」
言って、殷貴妃は再び手を動かし始めた。蘭玲は恐る恐る口を開く。
「お、お怒りにならないの……?」
「何故?」
「だっ、だってお母様。白蘭花が王妃の側にいたら、もう王妃の膳に細工――」
バチン! と大きな音を立てて、薔薇の太い幹が切り落とされる。その音に驚いて、ビクッと身体を揺らした蘭玲を尻目に、殷貴妃は困った顔をして頬に手を当てた。
「あらまあ、どうしましょう。……お前が滅多なことを口にするから、驚いて手を滑らせてしまったわ」
「陛下から下賜された、大切な薔薇の鉢植えなのに」と呟く殷貴妃の足元で、蘭玲はガタガタと全身を震わせる。
「ごっ、ごめんなさ、」
「――
殷貴妃が名を呼ぶと、静かに控えていた侍女の琴汐が手を一振りし、宮女たちを下がらせた。そして優雅にお辞儀をして、自らも部屋から出ていく。
広い寝殿に残っているのは、殷貴妃と蘭玲の二人だけになり、ようやく殷貴妃は振り返って足元に膝をつく蘭玲を見下ろした。そして――
「歯を食いしばりなさい」
殷貴妃は冷えた声で簡潔に述べる。その意を汲み取れなかった蘭玲が、呆けた顔を上げる。
「――え?」
すると、バッチーン! と容赦のない平手打ちが、蘭玲の右頬を打ち打ち据え、蘭玲はその場に倒れこんだ。
「っ、」
口の端から血を流す蘭玲を気にする様子もなく、殷貴妃は白く滑らかな手を日の光にかざす。
「ああ、痛い。こなたの美しい手が赤くなってしまったじゃないの」
鈴が転がるような可憐な声で嘆き悲しむ殷貴妃は、右手で右頬を押さえたまま、呆然としている少女に視線を移した。
「――蘭玲」
わざとらしく、甘さを含んだ声音で名を呼ばれた蘭玲は、正気を取り戻して殷貴妃の
「もっ、申し訳ありません。おか、お母様ぁ……!」
幼子のように、えぐえぐと顔面を汚しながら泣き出した蘭玲を、殷貴妃は路傍の石を見るような目で一瞥する。それから、はぁ、と可憐な吐息を吐き出すと、手の動きを再開させた。
パチン、パチン、と、鉢の中心から見て、外側に向かっている外芽のすぐ上を剪定する。
「……どうしてこんな出来損ないが、こなたの娘なのかしら。見目が良いわけでもなく、転変を解くこともできやしない」
蘭玲は、転変したままの耳を隠した髪型を、バッ! と手で触る。――蘭玲は、白虎の耳の変化を解くことができず、髪型で隠していた。
「……まあ、いいわ。沈氏亡き今。当初の計画を変更して、こなたが、白蘭花の養母になる手筈だったのだけれど。まさか小娘が、我らを警戒して、自ら王妃の養女になろうとはね。……けれど、それはもう過ぎたこと。陛下
言って、殷貴妃はフッと口元に笑みを浮かべた。
「それに、母親が亡くなったのだもの。白蘭花は一年間喪に服すことになる。……その間に、こちらの体制を整えなければならないわね」
言って、殷貴妃は、太い枝から生えた細い枝を
「た、体制を整えるって、何をする気なの? お母様ぁ……」
震える声で訊ねてくる蘭玲を見ることなく、殷貴妃はパチン、パチン、と花鋏を動かす。そうして、ようやく蘭玲を視界に映した殷貴妃は、愛らしい顔に似合わない艶やかな笑みを浮かべた。
「何、って。決まっているじゃない」
「……え?」
「春に美しい花を咲かせる為には、休眠中の手入れが大切なの。枝の向きや株の調和を良く見て、時には内芽を切ることも必要なのよ?」
「何事にも、臨機応変にね」と言って、殷貴妃は躊躇うことなく、薔薇の内芽を切った。
「そっ、それって……」
蘭玲は、恐怖と緊張でカラカラに乾いたのどをヒクッと動かすと、わななく唇を動かした。
「
殷貴妃は微笑みを浮かべて、くるりと振り返ると、
「あら。たまには鋭いところを突くじゃないの」
と言って、ホホホと楽しげに笑った。無垢な少女の風体をして、誰よりも残酷なことを考え、実行に移すことができる殷貴妃。
(お母様が『やる』と言ったら、必ず完璧に手を下してしまう……!)
蘭玲の脳裏には、自分と同じようにつまらなさそうに生きている軒虎の、頼りなげな姿がよぎった。そして気がつけば、蘭玲の震えは止まり、全身から神気が滲み出していた。
「お母様」
「……あら、どうしたの蘭玲。いつになく怖い顔をして」
蘭玲は、血管の浮き出た拳をぐぐっと握りしめる。それを見た殷貴妃は、怯えることも動揺することもなく、ただパチンと指を鳴らした。
すると四方八方から、殷氏子飼いの暗殺者たちが現れる。その人数の多さに、さすがの蘭玲も二の足を踏んだ。――転変出来るとはいえそれは中途半端なもので、戦いに秀でた者たちに太刀打ちできる力はない。
蘭玲はギリッと奥歯を噛み締めると、くゆらせていた神気を収めた。そして――
「お母様……お願いです。軒虎ちゃんから家族を奪わないで上げて……!」
「家族?」と、目を見開いた殷貴妃は、ふるふると肩を揺らして、プッと吹き出した。
「アハハハハ! アハハハハハ!」
「お、お母様ぁ……?」
殷貴妃はお腹を抱えて、少女のようにひとしきり笑い終えると、目尻に浮かぶ波を人指でついと吹き持った。
「……アハハッ、蘭玲。お前……あの劉賢妃が、軒虎を愛して慈しんでいると思っているの?」
「ち、違うんですか?」
「そんな訳ないじゃないの! ……お前、もしかして……白軒虎が幸せな家庭で育ってきたと思っていたわけ?」
爪を美しい桃色に染めた殷貴妃の人差し指が、弧を描いた唇に添えられた。
「白軒虎の母親は、劉賢妃に仕える宮女だったの。宮女という立場では、陛下のお手付きを拒むことは不可能だったでしょうね。……けれど、主を裏切ったことには変わりない。子のいない劉賢妃を差し置いて、その宮女はたった一度の恩情で子を身ごもった。……これを聞いても、白軒虎が劉賢妃に愛されている、なんて馬鹿なことをいうつもり?」
蘭玲は両目を見開いて、ただ口を閉ざすしかなかった。
「それにしても……お前がこなたに逆らおうとするなんて、思いもしなかったわ。『軒虎と婚姻したい』と言っていたのは、戯言ではなく本気だったのね」
「でも、残念」と、殷貴妃は花咲くように笑った。
「白軒虎は、近々、こなたの養子になることが決まっているの。殷お兄様の口添えのお陰で、陛下からの許可も下りているわ。……こなたの養子となる白軒虎には、必ず、白蘭花と婚姻を結んでもらわなくちゃね」
「そんな……っ」
蘭玲の悲痛な叫びなど聞こえていない殷貴妃は、ホホホと笑って再び花鋏を手に持った。そして――
「お前たち。蘭玲を例の部屋へ閉じ込めてきてちょうだい」
その言葉に、蘭玲の顔が恐怖に引き攣る。一気に恐慌状態に陥った蘭玲は、顔を青ざめさせ、涙を流して殷貴妃に這い寄った。
「いっ、いや……っ、嫌ですお母様ぁっ! あたしが悪かったんです! あたしが無知で愚鈍で役立たずなのが悪いんですぅ……っ! だからお母様……っ」
「早く連れて行きなさい」
「いやっ! いやぁっ! お母様っ! お母様ぁーーっ!」
暗殺者たちに引きずられながら、例の部屋――拷問部屋へと連れ去られた蘭玲を見て、殷貴妃はフンと鼻を鳴らした。
「大した能力の無い子だけど、回復力が人並み外れているのだけは利点だわね」
「お陰で躾けのしがいがあるもの」と、殷貴妃はフフッと笑って、パチンと内芽を切ったのだった。
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