第19話 春節の夜 壱
とある吉日。
小蘭は無事に、
気づけば春節を迎え、蘭花は新年の宴に参加していた。だが、すぐに気疲れしてしまい、宴の席を抜け出した。供を断り、
「……春節だもの。ここに来るわけないわよね」
蘭花は長いため息を吐いて、卓子の上に突っ伏した。
――軒とは、あの
とはいっても、交流が全く無かったわけではなく、こっそりと文のやり取りはしている。
(……軒。あれからすぐに帰ってしまって心配したけれど、無事だと分かって、とても安心したわ)
蘭花はむくりと上半身を起こすと、卓子の裏に触れ、手探りで文を探した。――卓子の裏には僅かに亀裂が走っていて、その亀裂に紙の切れ端を挟んで、二人は連絡を取り合っているのだ。
「うーん……やっぱり、あるわけな――」
手を引っ込めようとした時、指先に紙が触れた。
(あった!)
蘭花は、
蘭花は髪から簪を抜き取ると、その先端を亀裂に突っ込み、文を掘り出した。
「もうっ、軒ったら! いつの間に仕込んだのよ?」
蘭花は簪を挿し直し、
『春節
蘭花は勢いよく椅子から立ち上がった。
「もうすぐここに、軒が来るんだわ!」
宴を抜け出して、ここに来たのは正解だったと、蘭花は喜びを隠せない。
蘭花は一人そわそわしながら、軒の来訪を待ちわびた。そしてついに待ち人が現れる。
「! 軒!」
軒は竹細工の
蘭花は階段を上がりきった軒に駆け寄った。
「軒、久し振りに会うわね! 元気にしていた?」
蘭花は喜び勇み過ぎて、知らず知らずのうちに、一部分だけ転変してしまっていた。
「……小蘭。あんた、それは?」
「へっ?」
蘭花は、軒に顎先で指し示された、自分の背後を見る。そして、
「きゃあ!」
銀色の尻尾が、
「――っあ、あのね! これは……その〜……」
蘭花は目をキョドキョドさせながら、言葉にならない声を出し続け、必死に頭を回転させていた。――だが、今更弁解をしたところで、後の祭りである。
蘭花は潔く、誤魔化すのを諦め、おしりを叩いて尻尾を引っ込めた。それから大きく息を吸い込み、口を開いた。その時。
「すまない、小蘭。あんたの正体には気づいていた」
軒に真顔で言われた言葉が、右から左へ流れていく。そうして、いくばくかの沈黙ののち、蘭花は「……嘘でしょ?」と呟いた。
「き、気づいてたって、いつから?」
蘭花は、軒に隠し事をしていた気まずさから、彼の顔を見ることが出来ない。叱られる前の子どものように、蘭花は身体を縮こませた。
「……そんなに怖がるなよ」
「え?」
予想していなかった言葉を掛けられて、蘭花はポカンと口を開けたまま、軒を見上げた。
軒は困ったように微笑むと、蘭花の頭を優しく叩いた。
「小蘭のことは、最初から王族の人間だって分かってた。だって、その見た目だぜ? 市井の連中だって簡単に気づく」
「っそ、そうよね……この見た目で、公主って気づかないほうがおかしいわよね……」
気づかないのは赤ん坊くらいだろ、と言われてしまい、蘭花は苦笑いするしかない。
「それで、いつ気づいたかって話なんだが――」
ヒュ〜〜……ドーン!
話の途中で祝の花火が上がりだし、二人の会話は途切れてしまう。それでも話を続けようとする軒の唇を指で押さえて、蘭花はふるふると首を左右に振った。そうして、軒の唇から手を放した蘭花は、花火を背にして口を開いた。
「やっぱり、いいわ。いつ気づいたか〜なんて、そんなのどうでもいいもの。ただ、軒に身分を隠していたことだけは謝らないといけないって思う。だから、ごめんなさい。今まで黙っていて。……それとね。言いにくいんだけど……実は私、王太女なの」
「は?」
花火の光に照らされて、深夜だというのに、軒の驚いた表情がよく見えた。
蘭花は眉尻を下げ、小さく息を吐きながら、背後の柱に寄りかかった。
「私が王太女だって分かったから、もう会ってはくれない?」
言って、蘭花が首を
「……どうしてそんな話になる?」
「だって」と、蘭花は靴のつま先で地面を蹴った。
「王太女である私は、権力闘争の中心にいるのよ? 軒。あなたって、複雑な家庭環境に身を置いているのでしょう? それだけでも大変なのに、このまま私の側にいたら、争いに巻き込まれてしまうかもしれないわ」
「それが、あんたから離れる理由になると思ってんのか?」
「え?」と、蘭花は下を向いていた顔を上げて、軒の赤い瞳を見つめた。
「……あんたが王太女だとしても、俺はあんたから離れない」
「どうして……?」
そう言いながら、蘭花は期待を込めた眼差しを向ける。
軒は困ったような顔をして小さく微笑んだ。
「……言わないとわからないか?」
「えっ?」
二人の距離が急に縮まり、蘭花が驚きの声を上げる前に、小さな唇は軒の唇に塞がれてしまった。
「っ、ん……!」
小蘭に逃げる意思などないのに、軒は身を屈めて、両腕の間に小蘭を閉じ込めた。
ただ唇と唇をくっつけるだけだった口づけが、段々と濃厚なものになっていく。
「ぅ……んっ、ぁ……は、っ」
今まで感じたことのない甘美な刺激に、蘭花は生理的な涙を流し、軒の胸に縋り付いた。
――このまま食い尽くされてしまうのではないか。
そう感じてしまうほど嵐のように激しかった口づけが、徐々に優しいものに変わり、名残惜しげに離れていった。
蘭花は胸を大きく上下させながら、ヒリヒリする唇を喘がせて、閉じていた目蓋をゆっくり開けた。
「っ、」
蘭花は、自分を見つめる軒の赤い瞳がとろりと蕩けているのを見て、胸がキュンと疼くのを感じた。
早くなる心拍に呼応するように、蘭花の呼吸が荒くなり、もう一度あの感覚を味わいたいと渇望する。
しかし、軒は蘭花を見つめたまま、微動だにしない。
「シェン……?」
蘭花が首を傾けた瞬間、軒は小さな身体を掻き抱くように抱きしめた。
「――あんたが好きだ。小蘭」
軒の言葉に、蘭花は息を呑む。
軒は、蘭花の反応を見るのが怖いとでも言うように、抱きしめる力を強くした。
「だから離れたくない。あんたとずっと一緒に生きて行きたい。愛してるんだ……っ、小蘭……!」
軒の告白は、蘭花の母性本能をくすぐった。
――軒は、蘭花に拒絶されると思っているのだろうか。
いつも堂々とした軒の姿は消え失せ、そこにはただ純粋に愛を渇望する、一人の男の姿があった。
蘭花は両腕に力を入れて、軒の胸を押し返した。そして――
「んっ」
蘭花は背伸びをして、軒の唇に口づけた。……少し勢いをつけ過ぎたせいで、歯と歯がぶつかってしまい、鉄の味が口の中に広がっていく。
(初めて自分から口づけたのだもの! 失敗したって仕方ないわっ)
蘭花は羞恥心を捨てると、戸惑った様子の軒を見上げた。
「……小蘭?」
まるで雨に濡れた子犬のように不安げな視線を向けてきた軒に、蘭花は今にも飛び出しそうな心臓を衣の上から押さえて、花が咲いたように微笑んだ。
「私も……私もあなたのことが好きよ。軒」
「それ……ほんとう、か……?」
蘭花はこくりと頷いた。
「しんじて、いいのか……?」
蘭花は泣き笑いを浮かべた。
軒は、鼻をすんと鳴らして、こぼれる涙を隠すように、蘭花を優しく抱きしめた。
「小蘭……! 俺の、俺の大切な……っ」
何年もの間、泣いていなかったのだろう。
軒は下手くそに泣きながら、背中を丸めて、蘭花の肩に額を押しつけた。
「……頼む。約束してくれ。あんただけは……小蘭だけは、俺を捨てないって」
――なにを心配しているのだ、この男は。
蘭花はそんなのは当然でしょと、軒の顔を両手で挟み、濡れた赤い瞳をじっと見つめた。
「約束するわ。私はあなたを捨てたりなんかしない。ずっと一緒にいる。――愛しているわ。軒」
軒はしゃくり上げながら、不器用な微笑みを浮かべると、再び蘭花の唇を奪ったのだった。
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