第19話 春節の夜 壱

 とある吉日。


 小蘭は無事に、冊封さくほうの儀式を終えて、晴れて正真正銘の王太女となった。その翌日から、数え切れないほどの祝いの品や朝貢品が届き始めた。それから身内の王族を始めとする、諸侯や周辺諸国からの使者の来訪が絶えず、目まぐるしい毎日を送った。


 気づけば春節を迎え、蘭花は新年の宴に参加していた。だが、すぐに気疲れしてしまい、宴の席を抜け出した。供を断り、火の国エクリオ製の提灯カンテラを片手に、御華園の四阿にたどり着く。金色の瞳は自然と軒の姿を探したが、待ち人はおらず、肩を落として椅子に座った。


「……春節だもの。ここに来るわけないわよね」


 蘭花は長いため息を吐いて、卓子の上に突っ伏した。


 ――軒とは、あの甜年糕てんねんこうの事件から会えていない。


 とはいっても、交流が全く無かったわけではなく、こっそりと文のやり取りはしている。


(……軒。あれからすぐに帰ってしまって心配したけれど、無事だと分かって、とても安心したわ)


 蘭花はむくりと上半身を起こすと、卓子の裏に触れ、手探りで文を探した。――卓子の裏には僅かに亀裂が走っていて、その亀裂に紙の切れ端を挟んで、二人は連絡を取り合っているのだ。


「うーん……やっぱり、あるわけな――」


 手を引っ込めようとした時、指先に紙が触れた。


(あった!)


 蘭花は、提灯カンテラを足元に置いて、卓子の裏を覗き込んだ。文が誰かに見つかったり、風で飛ばされたりしないように、亀裂の中にしっかりと押し込んである。


 蘭花は髪から簪を抜き取ると、その先端を亀裂に突っ込み、文を掘り出した。


「もうっ、軒ったら! いつの間に仕込んだのよ?」


 蘭花は簪を挿し直し、提灯カンテラを卓上に置いて、くしゃくしゃになっている紙を広げた。


『春節 正子しょうし 此処で待つ』


 蘭花は勢いよく椅子から立ち上がった。


「もうすぐここに、軒が来るんだわ!」


 宴を抜け出して、ここに来たのは正解だったと、蘭花は喜びを隠せない。


 蘭花は一人そわそわしながら、軒の来訪を待ちわびた。そしてついに待ち人が現れる。


「! 軒!」


 軒は竹細工の提灯ちょうちんを手に持ち、いつものように、のんびりとした足取りで階段を上がってくる。


 蘭花は階段を上がりきった軒に駆け寄った。


「軒、久し振りに会うわね! 元気にしていた?」


 蘭花は喜び勇み過ぎて、知らず知らずのうちに、一部分だけ転変してしまっていた。


「……小蘭。あんた、それは?」


「へっ?」

 

 蘭花は、軒に顎先で指し示された、自分の背後を見る。そして、


「きゃあ!」


 銀色の尻尾が、裳裾もすそから覗いていることに気づいた。尻尾は、喜びの感情を表すように、パタパタと左右に動いている。


「――っあ、あのね! これは……その〜……」


 蘭花は目をキョドキョドさせながら、言葉にならない声を出し続け、必死に頭を回転させていた。――だが、今更弁解をしたところで、後の祭りである。


 蘭花は潔く、誤魔化すのを諦め、おしりを叩いて尻尾を引っ込めた。それから大きく息を吸い込み、口を開いた。その時。


「すまない、小蘭。あんたの正体には気づいていた」


 軒に真顔で言われた言葉が、右から左へ流れていく。そうして、いくばくかの沈黙ののち、蘭花は「……嘘でしょ?」と呟いた。


「き、気づいてたって、いつから?」


 蘭花は、軒に隠し事をしていた気まずさから、彼の顔を見ることが出来ない。叱られる前の子どものように、蘭花は身体を縮こませた。


「……そんなに怖がるなよ」


「え?」


 予想していなかった言葉を掛けられて、蘭花はポカンと口を開けたまま、軒を見上げた。


 軒は困ったように微笑むと、蘭花の頭を優しく叩いた。


「小蘭のことは、最初から王族の人間だって分かってた。だって、その見た目だぜ? 市井の連中だって簡単に気づく」


「っそ、そうよね……この見た目で、公主って気づかないほうがおかしいわよね……」


 気づかないのは赤ん坊くらいだろ、と言われてしまい、蘭花は苦笑いするしかない。


「それで、いつ気づいたかって話なんだが――」


 ヒュ〜〜……ドーン!


 話の途中で祝の花火が上がりだし、二人の会話は途切れてしまう。それでも話を続けようとする軒の唇を指で押さえて、蘭花はふるふると首を左右に振った。そうして、軒の唇から手を放した蘭花は、花火を背にして口を開いた。


「やっぱり、いいわ。いつ気づいたか〜なんて、そんなのどうでもいいもの。ただ、軒に身分を隠していたことだけは謝らないといけないって思う。だから、ごめんなさい。今まで黙っていて。……それとね。言いにくいんだけど……実は私、王太女なの」


「は?」


 花火の光に照らされて、深夜だというのに、軒の驚いた表情がよく見えた。


 蘭花は眉尻を下げ、小さく息を吐きながら、背後の柱に寄りかかった。


「私が王太女だって分かったから、もう会ってはくれない?」


 言って、蘭花が首をかたむけると、軒はムッと眉をひそめた。


「……どうしてそんな話になる?」


 「だって」と、蘭花は靴のつま先で地面を蹴った。


「王太女である私は、権力闘争の中心にいるのよ? 軒。あなたって、複雑な家庭環境に身を置いているのでしょう? それだけでも大変なのに、このまま私の側にいたら、争いに巻き込まれてしまうかもしれないわ」


「それが、あんたから離れる理由になると思ってんのか?」


 「え?」と、蘭花は下を向いていた顔を上げて、軒の赤い瞳を見つめた。


「……あんたが王太女だとしても、俺はあんたから離れない」


「どうして……?」


 そう言いながら、蘭花は期待を込めた眼差しを向ける。


 軒は困ったような顔をして小さく微笑んだ。


「……言わないとわからないか?」


「えっ?」


 二人の距離が急に縮まり、蘭花が驚きの声を上げる前に、小さな唇は軒の唇に塞がれてしまった。


「っ、ん……!」


 小蘭に逃げる意思などないのに、軒は身を屈めて、両腕の間に小蘭を閉じ込めた。


 ただ唇と唇をくっつけるだけだった口づけが、段々と濃厚なものになっていく。


「ぅ……んっ、ぁ……は、っ」


 今まで感じたことのない甘美な刺激に、蘭花は生理的な涙を流し、軒の胸に縋り付いた。


 ――このまま食い尽くされてしまうのではないか。


 そう感じてしまうほど嵐のように激しかった口づけが、徐々に優しいものに変わり、名残惜しげに離れていった。


 蘭花は胸を大きく上下させながら、ヒリヒリする唇を喘がせて、閉じていた目蓋をゆっくり開けた。


「っ、」


 蘭花は、自分を見つめる軒の赤い瞳がとろりと蕩けているのを見て、胸がキュンと疼くのを感じた。


 早くなる心拍に呼応するように、蘭花の呼吸が荒くなり、もう一度あの感覚を味わいたいと渇望する。


 しかし、軒は蘭花を見つめたまま、微動だにしない。


「シェン……?」


 蘭花が首を傾けた瞬間、軒は小さな身体を掻き抱くように抱きしめた。


「――あんたが好きだ。小蘭」


 軒の言葉に、蘭花は息を呑む。


 軒は、蘭花の反応を見るのが怖いとでも言うように、抱きしめる力を強くした。


「だから離れたくない。あんたとずっと一緒に生きて行きたい。愛してるんだ……っ、小蘭……!」


 軒の告白は、蘭花の母性本能をくすぐった。


 ――軒は、蘭花に拒絶されると思っているのだろうか。


 いつも堂々とした軒の姿は消え失せ、そこにはただ純粋に愛を渇望する、一人の男の姿があった。


 蘭花は両腕に力を入れて、軒の胸を押し返した。そして――


「んっ」


 蘭花は背伸びをして、軒の唇に口づけた。……少し勢いをつけ過ぎたせいで、歯と歯がぶつかってしまい、鉄の味が口の中に広がっていく。


(初めて自分から口づけたのだもの! 失敗したって仕方ないわっ)


 蘭花は羞恥心を捨てると、戸惑った様子の軒を見上げた。


「……小蘭?」


 まるで雨に濡れた子犬のように不安げな視線を向けてきた軒に、蘭花は今にも飛び出しそうな心臓を衣の上から押さえて、花が咲いたように微笑んだ。


「私も……私もあなたのことが好きよ。軒」


「それ……ほんとう、か……?」


 蘭花はこくりと頷いた。


「しんじて、いいのか……?」


 蘭花は泣き笑いを浮かべた。


 軒は、鼻をすんと鳴らして、こぼれる涙を隠すように、蘭花を優しく抱きしめた。


「小蘭……! 俺の、俺の大切な……っ」


 何年もの間、泣いていなかったのだろう。


 軒は下手くそに泣きながら、背中を丸めて、蘭花の肩に額を押しつけた。


「……頼む。約束してくれ。あんただけは……小蘭だけは、俺を捨てないって」


 ――なにを心配しているのだ、この男は。


 蘭花はそんなのは当然でしょと、軒の顔を両手で挟み、濡れた赤い瞳をじっと見つめた。


「約束するわ。私はあなたを捨てたりなんかしない。ずっと一緒にいる。――愛しているわ。軒」


 軒はしゃくり上げながら、不器用な微笑みを浮かべると、再び蘭花の唇を奪ったのだった。

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