第20話 春節の夜 弐

 蘭花と軒は、あれから何度も口づけを交わしたあと、四阿の柵に寄りかかって花火を眺めていた。


 蘭花は背後から、軒に抱き締められている。その温かい腕の中で、美しく咲いては散っていく儚い火の花を、満ち足りた気持ちで見上げていた。


 「ねぇ、軒」と、蘭花が話しかける。すると軒は、背中を丸めて、蘭花の横顔に耳を寄せた。


「ん?」


「あのね。私、こんなに幸せな気持ちで、新年の花火を見るのは初めてよ」


 軒はフッと小さく笑い、


「……俺もだ、小蘭」


 と言って、蘭花の耳裏に口づけてから背筋を伸ばした。


 ヒュ〜〜……ドーン!



 赤と黄色の花火が、交互に咲いてはパラバラと音を立てて散っていく。それを、愛する人と共に見ることができる幸せに、蘭花は無性に泣きたくなった。


「……綺麗だな」


「ええ」


 蘭花は夢見心地で頷いて、ふわふわとした不思議な感覚に身体を預けた。


「小蘭。寒くないか?」


「少しだけ。でも、軒とくっついているから、大丈夫よ」


 「そうか。寒くなったら言えよ?」と、軒は蘭花を気遣い甘やかしてくれる。


(……軒。別人みたいに優しい。恋人になると、こんなに甘やかしてくれるのね。意外な一面だわ)


 そう考えながら、特別扱いをしてもらえる対象になれたことに、優越感を覚えた。


「軒はもう、私だけの軒よ」


 花火を眺めたまま言った言葉に、


「そうだ。……だけど小蘭も、もう俺だけの小蘭だ」


 と軒が答えた。そうして更に、しっかりと蘭花を抱き込む。――恐らく、冷気から蘭花を守ってくれているのだろう。


 頬をなでる空気は冷たくて、今にも雪が降り出しそうな香りがしている。だが、蘭花の身体と心は暖かい。――全て軒のお陰だ。


 蘭花は、幸福感と温もりに包まれながら、うっとりと陶酔して目蓋を閉じる。それから、|蝋梅と煙草の香り――軒の匂い――を胸いっぱいに吸い込んだ。


「――え?」


 蘭花は遠くから微かに臭ってきた、花火の火薬がくすぶるような、異臭を嗅ぎつける。


「……変だわ」


 先程までとは打って変わって、蘭花の纏う空気が張り詰めたものに変わる。


 蘭花は一言発したきり、身体を強張らせ、朧月堂がある方向をじっと見遣った。


(|御華園からじゃ、朧月堂は遠すぎる。それに、花火の火薬やいろんな臭いが混ざり合っていて、上手く嗅ぎ分けることができない……)


 蘭花はもう一度、意識を集中させ、全ての感覚を嗅覚のみに全振りする。

 

「……やっぱり」


 花火の火薬の臭いに混じって、火煙ひけむりの臭いがする。――それも、朧月ろうげつ堂の方角から。


 蘭花は、軒の腕から抜け出すと、灯りも持たずに駆け出した。


「おい! 小蘭!?」


 花火の音に重なって、軒の呼び声は、蘭花の耳には届かない。


 軒は前に伸ばした手を握りしめ、覚悟を決めたように、小さくなっていく背中を追いかけた。






 蘭花は朧月堂に向かって、ひたすら真っ直ぐに走った。その際、宴が執り行われている会場付近を通ったが、参加者たちはみな、戸惑い恐れ悲鳴を上げていた。


(やっぱり、何かあったんだわ……!)


 蘭花は自分の嗅覚を信じてひた走る。すると、朧月堂に近づくにつれて夜空が橙色に染まり、猛烈な煙が立ち上っているのを視認することができた。そして、蘭花とは逆の方向に走っていく人間が増えはじめ、そこに救火義役きゅうかぎやくたちが混ざるようになった。


 救火義役たちは、火消しのための手桶や水鉄砲を抱えて、蘭花と同じ方向に走っていく。蘭花は咄嗟に、その内の一人を捕まえた。


「ちょっと待って! 一体なにがあったの?」


 救火義役は、蘭花の容姿と服装を見て戸惑ったようだったが、頭を素早く切り替えて簡潔に言葉を発した。


「打ち上げ花火が原因とみられる火災が発生しました!」


「っ、」


 やはりそうだったか、と蘭花は内心で思った。


「場所は……場所はどこなの?」


「朧月堂でございます」


 そう言うと、救火義役は頭を下げて、雑踏の中へと消えて行った。


 行き交う人の波の中心で立ち止まったままの蘭花は、


「ろうげつどう……」


 と呟いたまま、地に足が縫い付けられてしまったかのように、歩き出すことが出来なくなった。


 蘭花の心情を知らない者たちは、佇む邪魔な小娘の肩や頭に身体の一部をぶつけながら、火災とは逆の方向に走り去っていく。


「……私たち家族の家が……っ」


 もしやそうではないか、と予想してはいたが、事実を聞かされると想像以上に衝撃が大きかった。


 蘭花は、愕然としながらも、震える足を前に出す。そうやって、よろよろと数歩進んだところで、誰かに肩を掴まれた。


 蘭花が振り返ってのろのろと見上げた先に、息を切らして、額に汗をにじませた軒が立っていた。


「あ、あんた……走るのがはえぇよ……!」


 言って、軒はその場にしゃがんだ。ハァハァと荒い呼吸を繰り返す姿を見て、蘭花は正気を取り戻した。


「ごめんなさい。まさか、軒が追いかけて来てくれるなんて思いもしてなくて。両足だけ白虎に転変して走ってきたのよ」


「……だから、あれだけ走ってもケロッとしてんのか。小蘭は器用なことをしてみせるな」


 言って、軒はすぐに呼吸を整えて立ち上がった。


「……軒の回復力も大したものよ」


 蘭花は感心して、軒を褒める。


「ところでこの騒ぎはなんなんだ? 尋常じゃないことが起きたようだが。まさか、あれが原因か?」


 そう言って、軒が指差した先には、数分前よりも勢いを増した煙と炎が空一面を覆っていた。


 熱風にのって、焼け焦げた何かの残滓が、蘭花の顔のすぐ横をはらりと過ぎていく。そしてその風が運んできたのは物が焼ける臭いだけでなく、人が焼ける臭いも一緒に運んできたのだ。


「……え? うそでしょう?」


 蘭花は軒の存在を無視して、朧月堂に向かって、全速力で走り出した。


 白虎の力を解放した蘭花は、頭上に耳、尾骨からは尻尾を生やし、毛に覆われた筋肉質な両足を持つ姿に転変する。その両足の脚力を最大限に使い、目にも止まらぬ速さで朧月堂に向かった。


 蘭花は風になったかのように、人々の間をすり抜け、あっという間に朧月堂の近くまで移動してきた。


 しかし、想像していた異常に火災の範囲が広く、煙焔天えんえんてんみなぎっている。


 多くの太監や救火義役たちが消火活動に当たっていて、龍吐水まで使用しているにもかかわらず、火の勢いは増すばかりだった。


「これだけ離れていても、肌が焼けたようにヒリヒリするわ」


 もし、朧月堂の中にいれば、すでに命はないだろう。


「お母様は宴に出ているし、他の皆もお休みをもらって出払っているはず……」


 だとしたら、この人肉が焼ける臭いの元は誰なのだろう。そう考えていた時だった。――猛煙みょうえんの臭いに混じる、白梅香の香りに気づいてしまった。


「――っ! お母様ぁーーっ!!」


 蘭花は絶叫すると、人間離れした脚力で地を蹴り空中に飛び上がった。猛烈な熱気に肌や髪、喉の粘膜が焼けようとも、蘭花は死に物狂いで母の元を目指した。しかし――


 何度目かの跳躍で地に足を着いた瞬間、衣の襟をグン! と後ろに引っ張られてしまい、蘭花は石畳の上に倒れ込んだ。


 打撲や擦過傷を負い、熱気を浴びて満身創痍だった蘭花は、ほとんど気力だけで動いている。重い体を必死に起こした先に見たのは、宙に浮かぶ雪のように白い白毛はくもうと、宝石のように輝く赤い瞳を持った白虎の姿だった。


「……きれい」


 一瞬だけ目的も、身体の痛みも忘れて、蘭花はその白虎に魅入った。


 白虎は、蘭花の姿をじっと見つめたあと、空に向かって咆哮を上げた。するとたちまち夜空に暗雲が垂れこめ、厚く空を覆った黒雲の中で稲光が走り、次の瞬間には滝のような雨が朧月堂の真上に降りしきった。猛威を振るっていた炎があっという間に鎮火し、辺りには、黒い霧が立ち込める。


 多くの人々が歓声を上げる中、蘭花は地にへたり込んだまま、白虎の姿を探した。しかし、白虎の姿は見当たらず、いつの間にか雨は嘘のように上がっていた。


「……どうして手を貸してくれたの? ……白軒虎……」


 蘭花は歯を食いしばり、静かに涙を流したのだった。

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