第18話 夕暉宮
後宮――
昼間の快晴が嘘のように、雪が吹雪いている
荒れ狂っているのは雪だけではない。
雪のような白髪を持つ少年――
軒虎は板張りの床を体重をのせて踏みつけ歩き、己の養母――
軒虎の憤った姿に怯えて、避けるように遠巻きに見ていた宮女たち。その内の一人が、微笑みを浮かべて、軒虎の前に躍り出た。
「おかえりなさいませ。第三王子で――ぇぐう」
軒虎は視界に入ってきた、邪魔な宮女の首を片手で締め上げ、三白眼を見開いた。
「おい。
宮女は苦しげによだれを垂らしながら、軒虎の腕を両手で掴んで両足をばたつかせ、ぱくぱくと口を動かした。
「け、賢妃さまはお休み中で――ぐっ、がはっ」
軒虎は瞬きもせずに首を傾け、締め上げる力を強くする。
「俺はあんたにババアの居場所を聞いたんだが? あ?」
宮女は鼻水と涙を垂れ流し、息も絶え絶えに口を開いた。
「ずっ、ずみばぜ……っ」
宮女が白目を剥き、あわや失神寸前のところで、部屋の奥から長身の侍女が現れた。
「おやめください。軒虎様」
軒虎は気だるげに首だけを動かし、侍女を視界の端に捉えると、宮女の首からパッと手を放した。宮女は板張りの床にドサッと倒れ込む。
「……やっと出てきたか。ババアの犬が」
侍女は涼しい顔をして、激しく咳き込む宮女を一瞥する。怯える宮女たちを手招いて、ボロ雑巾のようになった宮女を別室に運ばせた。
「――軒虎様。おかえりなさいませ。それから私の名は『犬』ではありません」
表情を変えることなく、しゃんと立つ侍女に向かって、軒虎は指を鳴らしながら近づいていく。
「あ? 犬が人間様に口答えしてんじゃねぇよ」
言って、軒虎が侍女のほっそりとした首に手をかけようとした。その時。
「――おやめなさい」
玉垂れの向こうから、髪を高く複雑に結い上げ飾り立てた女――劉
「
劉氏は顔を半分だけ後ろに向けて、
「下がりなさい。
と言った。琴沙と呼ばれた侍女は、こくりと頷いて軽く膝を曲げる。
「……承知いたしました」と、琴沙は音もなく下がっていった。
ようやく、二人だけになった静かな室内で、劉氏は
「軒虎。アナタ。何をそんなにいきりたっているの?」
「ぁあ? いちいち説明しなくても分かってんだろーが!」
劉氏は、軒虎から視線を外して、
「……そう。失敗したのね」
と囁くように呟いた。それを聞いた軒虎は、劉氏に詰め寄った。
「やっぱり、あんたが仕組んだことだったか! あんな小細工……っ! 一体どういうつもりだ!!」
劉氏は美しく整えられた
「あら。私は指示された通りに動いただけよ? だから、私に向かって怒鳴るのはお門違いだわ」
言って劉氏は、自分の耳の輪郭をスルリとなぞり、煩わしそうに空中を見遣った。
「……チッ! あの狸ババア……!」
軒虎の発言に、劉氏は、今までどうでも良さそうだった態度を一変させた。
「そのように呼ぶのはおやめなさい! お前も私も、
軒虎はハッと冷笑して、手近な飾り棚を蹴り倒した。棚に飾られていた、高級な
「なぁーにが『栄華』だ! ただ贅沢してるだけじゃねーか! そんなもんの為に、あの狸ババアの言いなりになってんのかよ!?」
「言いたいことはそれだけ?」
「あ?」
劉氏はクッと片方の口角を上げて、耐えきれないとでもいうように、アハハハハ! と哄笑した。
「……なにがおかしい」
軒が睨みつけるも、劉氏は微塵も意に介さない。「まったく。笑いすぎて涙が出るわ」と、涙をぬぐうそぶりまで見せた。
「あら。おかしいに決まっているじゃない。……軒虎。お前、何のためにあの小娘に近づいたのか忘れたの?」
「っ、」
軒虎は何も言い返す事ができずに、チッと舌打ちをした。自分に対する苛立ちと、後悔する気持ちを見透かすような、劉氏の視線が酷く不快に感じる。
劉氏は、俯いたまま微動だにしなくなった軒虎を、観察するように眺める。そしてすらりとした人差し指の先で、キメの細かい白肌の顎先を、トントンと規則的に叩く。それから暫くして、劉氏は、やはり理解に苦しむという結論を出したようだった。
「いずれ命を奪う相手と仲良し
「黙れ……!」
「ほぅら。何も言い返せないではないの。威嚇するしか能がないなら、そこら辺にいる野良犬を養った方がまだマシというものよ」
軒は、劉氏に太刀打ちできない自分の無能さに、反吐が出そうだった。
劉氏は、殷貴妃の傀儡とはいえ、伏魔殿と呼ばれる後宮で高位のまま生き抜いてきた人間である。――たかだか十五年しか生きてない軒虎に、海千山千の劉氏を言い負かせる筈がなかった。
「……フン。まあ、良いわ。異常に鼻が利くあの小娘のことだから、毒殺できる可能性は無きに等しかったのだし」
「! だったらどうして……!」
息を吹き返したように噛みついてきた軒虎に、劉氏は鋭利に整えられた人差し指の爪先を向けてくる。
「殷お姉様がお前に警告したのよ。……目的を忘れるな、と」
「目的」
軒虎は、その言葉を初めて耳にするかのように呟いた。
「そうよ。あの小娘を手籠めにして、隙を見て命を奪う。それがお前の本来の役目。……でも、そうねぇ……」
劉氏は親指の爪先をカリッとくわえながら、佇む軒虎の周りを悠然と歩いたのち、くるりと優雅に身を翻した。
「軒虎。お前。あの小娘を落とせる自信はある?」
「……は?」
軒虎は、ポカンと間の抜けた顔をした。
だが、劉氏は気にした様子もなく、両腕を組みながら話を続ける。
「お前に、あの小娘の王配になる意思があるのなら、小娘を殺さずに済むかもしれないわ。以前のお前はこの提案を断ったけれど……今ならどうかしら?」
思いがけない提案をされ、生まれて初めて軒虎の心に『欲望』が生まれた。
「俺が、小蘭の夫になる……?」
そう言った軒虎の肩に、劉氏の手が置かれる。劉氏は、白粉の香りを漂わせながら、軒虎の耳元に唇を寄せた。
「ええ、そうよ。……何があったのか知らないけれど、今の小娘は、お前のことを憎からず思っているようだし」
「……俺が小蘭の王配になれば、あの狸ババア――殷貴妃は納得するのか?」
軒虎が顔を半分だけ後ろに向けると、劉氏は、軒虎の肩をスルリとなでて離れていく。
「だって、殷お姉様は、后妃の頂点に立てれば満足なさるのだもの。――あの権力欲の強い王妃と違って、殷お姉様は、王太后になれれば満足なさるわ」
十分権力欲の塊ではないか、と軒虎は思いながら、劉氏の言葉に疑問を抱いた。
「だが、俺と小蘭が婚姻したとしても、殷貴妃は王太后にはなれないだろ?」
「そうね。その通りよ。だから近々、お前は、殷お姉様の養子になるわ」
軒虎は、なるほどそういうことか、と納得する。しかし――
「それに……邪魔な王妃と
言って、劉氏は口元を袖で隠し、ホホホと機嫌良さげに笑った。
劉氏とは反対に、軒虎は、横っ面を張られたかのように呆然とした。
「小蘭の母親を……殺すのか……?」
劉氏は渋面を浮かべ、
「――何を今更。お前が欲しいのは、あの小娘一人なのでしょう? だったら余計なことは考えないで、自分の本分を全うすることよ」
そう言って、話は終わったと身を翻し、玉垂れの奥へと戻っていった。
広い部屋に一人残された軒虎は、ギリッと奥歯を噛みしめ、柱に拳を打ち付けた。
「……小蘭、俺は……」
ぐっと強く閉じた目蓋の裏に浮かんだのは、雪に透ける蝋梅のように輝く
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