第3話

「お母様」


 中庭を通って母――シェン氏の部屋に行くと、ちょうど朝餉を下げ終わったのか、沈氏は窓際に座ってお茶を飲んでいるところだった。


「あら、小欄シャオラン。今日は早起きなのね。偉いわ」


 もう十二歳になった――中身は十五歳だが――娘を幼名で呼ぶ沈氏は、おっとりとしていて品が良い。陛下の寵妃になるくらいなので、詩書や芸も秀でており、容姿も整っていて美しい。ただひとつだけ欠点を挙げるとすれば、出自が低いということだろう。


 出自が低い――身分が卑しいというのは、ここ後宮では差別の対象となる。


 同じ妃嬪たちからの差別行為ならまだしも、正六品以下の宮女や宦官から虐げられるのは、非常に惨めで恥ずかしいことだった。


(陛下のご寵愛を賜っているからこそ、婕妤しょうよという身分を与えられ、王子でもない公主の私が溺愛されている)


 陛下さえいれば、陛下の寵愛さえあれば、今のように穏やかに暮らしていけると思っていた。……回帰する前までは。


(陛下の愛を信じてはいけないわ。……あのとき、なにがあったか知らないけれど、太監が持ってきたのは本物の聖旨せいしに間違いなかった。と、いうことは……陛下が心代わりされたか、何者かの策に陥れられたということ)


 これから三年後に起こる惨劇から母を守るためには、陛下の寵愛を当てにしているだけではいけない。


 欄花はそんなことを考えながら、無邪気な笑顔を浮かべた。


「お母様ったら。私はもう子どもじゃないのよ?」


「おほほ。何を言うの。わたくしにとっては、永遠に小欄のままよ。……でもそうねぇ。市井の本ばかり読むのをやめて、もう少しお勉強に専念してくれたら……赤ちゃんから卒業させてあげる」


「もう……お母様の意地悪……」


 朧月堂ロンユエタンに明るい笑い声が響く。


 ――そう。この光景が、欄花にとっての当たり前の日常だった。


(……あんな悲しい結末なんて迎えさせない!)


 いつの間にか両手を強く握りしめていたのだろう。ひんやりとした指先が、欄花の拳に触れた。驚いて振り返ると、もうひとりの侍女――小菊シャオジュが側に立っていた。


「欄花様、手、冷たい。お茶、入れてきた。どうぞ」


そう言うと、小菊は欄花の背を押して、沈氏の隣に座らせた。それから目の前の机に、蓋碗がいわんが置かれた。ふうわりと、ほのかに甘い香りが漂う。


「これは……?」


「欄花様の、お好きな、茉莉花ジャスミン茶、です」


 欄花は思わずしゃくりあげそうになり、蓋碗から視線をそらした。


「小欄?」


「欄花、様?」


 沈氏と小菊に不審がられてはならないと、溢れそうになる涙を必死に我慢する。欄花は深呼吸を繰り返したあと、何事もなかったかのように姿勢を正し、微笑みを浮かべて蓋碗を手に取った。そして――


「お、いしいわ。とても」


 それだけを言って、欄花は急いで席を立った。


「お母様。私、これから明杰ミンジェのところに行ってくるわね」


「先触れは?」


小梅シャオメイに頼んだわ」


「共は誰にさせるつもり?」


阿明アミンを連れて行くわ。阿明、いる?」


 欄花が部屋から出て庭先で声を挙げると、欄花付きの太監――阿明が現れた。


「ここに」


「私と共に、春宮しゅんぐうに行くわよ」


「御意」


 欄花は阿明を伴って、朧月堂の門の外へ足を踏み出した。


 ……ひそかに流した涙は、誰の目にも留まることはなかった。

 

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ニセモノ公主、官吏になる。 アナマチア @ANAMATIA

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