第4話 世に酔って五戒

マイトリーは夜更けに、酒の臭いを漂わせながらふらふらと帰ってきた。彼の足元はふらつき、疲れ果てた体は今にも崩れ落ちそうだった。椅子に倒れ込むように座り込むと、彼は頭を抱え、重苦しいため息をついた。心は虚無に覆われ、希望も何も感じられなかった。


目の前には、先週、急に召喚してしまった、いつものように無言で佇むカルヤーナミッタの石像があった。その石像がただの石ころでないことをマイトリーは知っていた。


カルヤーナミッタはいつも枕元におかれ、寝る前と朝に、瞑想指導を受けるのが最近の日課になっていた。


カルヤーナミッタは、静かな沈黙を破って声を響かせた。


「おい、その腐った根性、叩き直してやろうか。酒なんぞ飲んでる暇はない」


その一言が、マイトリーの心に雷のように響いた。彼はベッドの上に頭を抱えたまま呟いた。


「俺なんて……何やってもダメだ……もう生きてる意味なんかないんだよ……」


カルヤーナミッタの目が一瞬光ったかのように見えた。そしてさらに声を強めて言った。


「この酔っぱらいめ。石像のわしですら君よりましじゃ」


その言葉に、マイトリーは不覚にも苦笑いを漏らした。だが、すぐに再び頭を垂れ、自己卑下の言葉を吐き出す。


「でも……どうしても逃げたくなるんだ。心が壊れそうで……もう頑張る気力なんてないんだよ……」


カルヤーナミッタはじっと彼を見つめ、冷静な声で言い放つ。


「酒に逃げるな。お前の人生の方がもっと酔っておる。何もしない石像の方がましじゃ」


マイトリーは再び苦笑し、ベッドに深く沈み込んだ。


「どうせ、もう……何も変えられない……」


カルヤーナミッタはすかさず声を張り上げた。


「座れ。お前が倒れていても、時は待ってくれんぞ。わしのように、石像になったつもりで座り続けるのじゃ」


その一言で、マイトリーは顔を上げたが、その目には絶望が色濃く残っていた。


「俺なんて石像以下だ……」


カルヤーナミッタは、彼の言葉を聞き流さず、しっかりと応じる。


「お前、自分のことを石像以下だと思っているのか?おべっかを使い美辞麗句を並べてビクビクするよりも簡単なはずだぞ」


マイトリーは再び力なく肩を落とし、ため息をついた。


「もうどうしようもない……俺の心はぐにゃぐにゃで、座る気力なんか残っていないんだ」


カルヤーナミッタは強い声で一喝する。


「何をやっとるんじゃ。お前の心は泥酔状態じゃなくて、ただのぐにゃぐにゃじゃ」


マイトリーは苦しそうに顔を歪めた。そして懐から小さなボトルを取り出した。


「でも……酒でも飲まないとやってられないんだ……」


カルヤーナミッタはその言葉を冷たく切り捨てた。


「酒を飲む暇があったら、その時間で呼吸の一つでもしておけ。わしみたいに動かぬ石像でも息をしておるぞ」


「もう……死んだ方が楽だよ。生きてる意味なんてない……」


「まだ死にたいか?その前に正しい生活をする努力くらいしてみよ。そうすればすぐに苦しみは減るはずじゃ」


マイトリーは完全に力を失い、椅子に倒れ込んだ。


「正しい生活って……どうやって?」


カルヤーナミッタは優しさと厳しさを混ぜた声で応じる。


「まず、五戒を守れ」


マイトリーは驚いた顔を上げた。


「五戒?」


「そうじゃ。生き物を殺さず、盗まず、邪な行いをせず、嘘をつかず、酒を飲まぬことじゃ」


五戒とは、仏教の基礎となる道徳律であり、心と行動を清らかにするためのガイドラインである。これらを守ることで、煩悩を抑え、心の平静を取り戻すことができるのだ。カルヤーナミッタはそれを知っており、マイトリーにその道を示そうとしていた。


生き物を殺さないこと(不殺生)は、他者への害を避け、慈悲の心を育てることを意味する。盗まないこと(不偸盗)は他者の財産を奪わず、正しい生き方をすることである。邪な行いをしないこと(不邪淫)は、欲望に振り回されずに清らかな関係を保つことを指す。嘘をつかないこと(不妄語)は誠実な生き方を尊重し、信頼を築く。そして最後の戒、酒を飲まぬこと(不飲酒)は、心を乱すものから距離を置き、冷静さを保つための戒めである。


マイトリーは説明を聞き、しばらく黙って考えた。これまでの自分の生き方を振り返り、そのすべてがことごとく五戒から外れていたことに気づいた。彼の心は絶望と共に、自らを清める方法を見失っていたのだ。


「……五戒を守る……?本当にそれで……」


カルヤーナミッタは頷き、力強く言った。


「わしを見よ。わしは動かぬ石像じゃが、五戒を守り、心は揺らがぬ。お前も同じ道を歩めば、静寂と安らぎが訪れるじゃろう」


マイトリーは深い息をつき、やがて決意したように顔を上げた。


「……わかった。俺は五戒を守る。もう一度、やり直してみる……」


カルヤーナミッタはその言葉に満足げに微笑み、さらに厳しく命じる。


「ならば、今すぐ五戒を復唱せよ。さあ、生き物を殺さず、盗まず、邪な行いをせず、嘘をつかず、酒を飲まぬことを誓うんじゃ」


マイトリーは戸惑いながらも、カルヤーナミッタの圧倒的な気迫に押され、復唱を始めた。


「生き物を殺さず……盗まず……邪な行いをせず……嘘をつかず……酒を飲まぬことを誓う……」


カルヤーナミッタは満足げに頷き、静かに微笑んだ。


「よし、これでお前もわしと同じ道を歩み始めた。苦しみからの解放は、そこから始まるのじゃ」


こうして、マイトリーは新たな一歩を踏み出すことを決意した。カルヤーナミッタの教えに導かれ、彼は五戒を守りながら、自らの心を清め、苦しみからの解放を目指していくこととなるのだった。

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